第34話


 訪れたのは小海さんだった。お菓子やジュースが入った袋を手に持ってご機嫌な様子である。


「遊びに来たよー」


 まるで何度も訪れているような口ぶりだが引っ越し以来3度目である。初めてが引っ越しのとき。2回目がこの間のこと。そして今日が3回目だ。


「珍しいですね。僕の様子を見るように言われたのにぜんぜん報告しないから伯父がカンカンだったと聞きましたが」


「や、それはほら、ね? 男の子の一人暮らしだしさ。私も自重してたわけよ」


 ずいぶんと適当な事を言うものである。おかげで宵歌から頻繁に近況を訊かれて大変だった。


「ていうかいつ訪ねてもいなかったのは四方山くんのほうだよ?」


「まあ、そう言われたらたしかにそうですけど」


 小海さんはどうやら宵歌の様子を見に来たらしかった。お菓子の袋をテーブルの上に置くと「あれ、あの子は?」と不思議そうにあたりを見回した。


「聞いてないんですか?」


「何を?」


「宵歌。バイト始めたんですよ」


「え?」


「ここの裏手にあるアメシストで」


「はあ?」


 どうやら本当に聞いていないようだ。小海さんの口から「はあ?」と出た時は大人ぶるのを忘れて素が出たときである。


「なんでも一人で生きていけるようになりたいとかで」


「はあぁ? 何言ってんだあいつ……。本気だったの?」


「楽しそうにはしてますよ」


 僕は軽くフォローしておいたが小海さんぷつぷつと小声でなにか呟いて聞いていないようだ。彼女は彼女で何かを聞いている様子だが、おそらく僕とは違うことを聞かされていると思われる。


「本気とは、いったいどういう意味です?」と訊ねると大きなため息をついた。


「どうもこうもないよ。せっかく都会に来たんだから本当の自分を探したいとか言ってさ、実家の旅館はどうすんだって訊いたら知らないって言うんだ。困ったもんだよまったく……」


 ああ、そういうことか。


「そういや宵歌に継がせるとか言ってましたね、あの人」


「そうそう。家を出た私が言うのもなんだけどさ。宵歌には継いで欲しいんだよね。自覚してないだろうけどあの子には人を元気にさせる才能があるから……あ、ごめんね、一ノ瀬さん。よその家庭事情なんか聞かせちゃって」


「あ、いえ、ぜんぜん」


 一ノ瀬さんは話を振られると思ってなかったのかピクッと跳ねた。


 伯父は昔から宵歌に謎の可能性を感じていた。旅館を任せられるのは宵歌しかいないと言ってしきりにプレッシャーをかけていたし、得意の客の応対を任せることもあった。それを本人が受け入れているかは別として、次期女将は彼女しかいないと周囲の誰もが認めていた。


 僕は宵歌の味方につきたいと思っている。バイト中のあの笑顔を見てしまったら、旅館で肩身の狭い思いをしている姿が可哀相に思えるのだ。


 僕は、自分が抱いた不安を棚に上げて宵歌の一人立ちを応援することに決めた。


「そういえば、四方山くんって大学生の知り合いがいるの?」


 小海さんは宵歌がいないなら帰ると言って、靴を履きながら振り返った。


「え?」


「下で困っている大学生がいたからさ、若い男! って思って声をかけたら君の知り合いというんだ。隠さずに紹介してくれればいいのに」


「大学生の知り合い……。ああ、その人、大家さんを探してました?」


「ん? そういえば大宮さんがいないとか言ってたな」


 じゃあたぶん、あの比奈埼という人であろう。


「その人変態なんでやめた方がいいですよ」


「え、まじ?」


「マジです。話しかけたら喜ぶと思いますよ」


「イヤだよ……君、どうにかしてよ」


「えぇ……?」


「じゃ、頼んだよ」


 小海さんはそそくさと帰って行った。しまった。適当な事を言うんじゃなかった。


「どうするの?」


 一ノ瀬さんは嫌そうな顔をしている。


「まあ、たぶんアメシストに用があるんじゃないかなぁ」


「……宵歌ちゃんのとこ?」


「なんか大家さんの仕事仲間みたいだから」


「ふぅん」


 任されてしまった以上、僕が案内しなければいけないだろう。


「宵歌ちゃんが心配だからあたしも行く」


「なんで?」


「変態とりつ君の2人が宵歌ちゃんのとこに行くんでしょ? もしもの事があったらどうするのよ」


「それ、僕も変態に含まれてない……?」


 一ノ瀬さんは一度言い出したら聞かない人である。


 エントランスに降りると、やっぱり比奈埼が困った顔をしていた。

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