第33話


 ちゃぷんと湯舟に浸かって宵歌はため息をついた。


 この寂しさはどこから来るのだろうか。どれだけ体を温めても芯まで温まらないような、もやもやする寂しさは?


 生まれて初めての感情に戸惑っていた。


 原因は分かっている。幼馴染(僕)に彼女が出来たことだ。ここに来れば戻ってくると信じていたのに。ずっとこのままだと思っていた日常がすっかり変わり果ててしまって置いてきぼりにされたような。一人ぼっちになったような孤独。もう戻らないことを理解してしまった寂しさ。


 宵歌は鼻をつまんでお風呂に潜った。こうすると全身が温かいものに包まれて不思議と安心するのだ。


(ああ、温かいなぁ。ずっとこうしていたいなぁ。りつには一ノ瀬さんがいる。じゃあ、宵歌には……? 出たくないよ。ここから……出たくない……)


 でも息が苦しくなってきた。いつかは出なければいけないと分かっているのに求めてしまう。あがいてしまう。


 今の関係のままで居続けるのは苦しいだけなのに、昔みたいに一緒にいたいと願ってしまう。


 苦しい。


「……どうしたらいいんだろう」


 ドライヤーで髪を乾かしながら宵歌はぽつりと呟いた。


     ☆☆☆


 それからの1週間は何事も無く過ぎた。宵歌はカフェのバイトに慣れてきたのか毎日元気に出かけていくし、一ノ瀬さんは暇になるたびに遊びに来た。


 平和だった。


 このまま何事もなく2学期を迎えてくれればいう事はない。新しい生活に僕たちは慣れ始めていた。


「こんど宵歌ちゃんにお菓子の作り方教えてもらうんだ~」


「へえ、いつのまにそんな約束を?」


「この前遊びに行ったときにね。すごいんだよ? 手作りお菓子がメニューになっててさ。しかもとっても美味しいの。りつ君もいくべきだよ」


 一ノ瀬さんもすっかり宵歌に慣れて、以前のように怒る事も少なくなった。


 初めはどうなる事かと思ったけどこのぶんなら大丈夫そうだ。


「僕が手伝ってたときはミルクティーがあったよ」


「なにそれ。いまは?」


「ない。なぜなら僕が手伝っていないから」


「はあ?」


 夏休みの課題を進めるのである。夏休みも後半に差し掛かろうとしている。高校生がもっとも忌み嫌う哀しき風習とも言うべき夏休みの課題の期限が刻一刻と迫ってくる中、僕達はせっせとペンを走らせていた。


 一ノ瀬さんはホットパンツにオーバーサイズの白Tシャツという恰好をしていた。「あついあつい」としきりに胸元をパタパタやるのだから目のやり場に困る。


「ねえ、なんでクーラーが無いの?」


「そりゃだって、電気代が高いんだもの。伯父がいくら援助してくれるのか分からないから節約できるところは節約しなければ」


「もう……それで熱中症になったらどうするの?」


 一ノ瀬さんはそう言って麦茶に手を伸ばした。「ぬるい……」


「あついあついというから暑いんだ。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うだろ」


「それを言ったお坊さんの死因は焼死よ? もういいからうちに来てよ。クーラーだってあるし、ジュースもお菓子もあるから」


「一ノ瀬さんの家………」


 僕はドキッとした。一ノ瀬さんの家ということはつまり一ノ瀬さんが普段暮らしている家という事である。ということはあんなモノやこんなモノがあったりして……


「なんで同じ間取りなのに緊張するかな……」


 一ノ瀬さんは呆れたようにため息をついた。


 僕達の関係が進まない大きな要因として、僕が緊張しいというのがあげられる。もうすぐ1か月が経とうとしているのにキスをしたことも無ければお泊りもない。それもすべて僕が緊張してしまうからだ。一人暮らしを始めてからすべてを自分でやる力がついたと思っていたが、未だに彼女の家に行くこともできないのである。


「やっぱり、女の人が怖いから?」


 一ノ瀬さんはどこか悲しそうに言った。


 軽い女性恐怖症である僕を気遣ってくれているのは本当にありがたい。だが心配は無用。怖いといったって襲われなければ大丈夫だし、一ノ瀬さんのことは信頼している。ただ意気地がないだけだ。


「宵歌ちゃんとはハグだってしちゃいそうなのに……」


「それはまあ、宵歌だからね。昔からずっと一緒だし、そもそも異性として見てないと思う」


「そうだとしても彼女としては悲しいよ」


「そうだね、僕も、頑張らないとな」


 一ノ瀬さんは2人の時間を作ってくれる。きっと早く克服してほしいからであろう。その想いに応えなければいけない。


 とその時、玄関のチャイムが鳴った。

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