第31話


 ぼんやりと夕飯の支度や家の掃除などをしているうちに夜になった。時刻は20時。カフェは16時きっかりに閉まるはずなのになぜか宵歌が帰ってこない。僕がお手伝いをしていたときは17時には上がっていたはずだけれど……


 今日のメニューはハンバーグ。中にチーズが入っているのがお気に入りらしいので見よう見真似で作ってみるが意外と上手くいった。冷める前に帰ってきて欲しいものだ。


「まあいいや、ラップしておこう。どうせそのうち帰ってくるだろう」


 昨日も帰りが遅かったし、仕事について教わったりしているのだろう。あんなにやる気になっている宵歌を見るのはずいぶん久しぶりな気がする。少なくとも、去年の夏以降は見ていない。


 去年の夏以降は部活も引退して、受験勉強もあって、僕の事もあって、何かに打ちこむ余裕なんてなかった。


 あんなに楽しそうに笑う宵歌を見たのはいつぶりだろうか? 彼女の笑顔を純粋に嬉しいと思った。その反面、僕がそこにいないことに寂しさも、少しある。


 宵歌の笑顔を見る僕の中に、彼女に離れていってほしくないと思う幼い自分がいることがよく見てとれた。


 僕は一緒に食事をとろうと思って風呂に入る事にした。ハンバーグにラップをかけてスープが入った鍋に蓋をし、空のお椀だけを用意する。


「茶碗だけ用意するって……なんか、本当に同棲している感があるな」


 そのときチャイムが鳴った。宵歌は鍵を持っているからわざわざ鳴らす必要なんて無いはずである。いったい誰だろうと思ってドアを開けると一ノ瀬さんだった。こんな時間にいったい何の用だろう?


「りつ君。こんばんは」


「こ、こんばんは……」


 昼の事を思い出してひきつった返事になってしまった。


 一ノ瀬さんはオシャレな恰好をしている。これからどこかへ出かけるのだろうか。水色のワンピースを着てお化粧もしていた。百日紅さるすべりのように紅くふんわりした唇が妙に煽情的であるがパーティーにでも行くのだろうか?


 一ノ瀬さんは頭を下げてこう言った。


「あのね、お昼は怒ってしまってごめんなさい。りつ君に迷惑ばかりかけてしまって、あたし、本当にイヤな彼女だよね。怒ってるのは分かってる。だから、そのお詫びをさせてください」


「お詫びだなんて……」


「今日が何の日か分かってるよね。これ、初めて作ったから不格好だけれど、心を込めて作ったの。食べてくれる……?」


 丁寧にラッピングされた小箱を差し出して、一ノ瀬さんは不安そうに僕を見上げた。これは、この間買ったマスキングテープか……?


 今日は8月5日。特に変わったイベントは無かったと記憶しているが……。


「あ……」


「……なんで自分の誕生日を忘れるかなぁ」


 そうだ。今日は僕の誕生日だ。つい2日前に一ノ瀬さんが確認してきたというのに何で忘れていたのだろう? ということはこの小箱の中身は僕の誕生日プレゼントであろう。……やばい。普通の料理を作ってしまった。


「いや、一ノ瀬さんの誕生日が5月という事は覚えているよ。5月の17日」


「いまはりつ君の話をしています」


「……忘れてました」


「謝る事でもないけどね」


 一ノ瀬さんは肩をすくめた。


「ケーキの一つでも用意しているかなぁと思ったけど、この様子じゃなさそうね。さすがにケーキまでは焼いてないよ?」


「だって忘れてたんだもの」


「可愛く言ってもダメだよ?」


 そう言って小箱を押し付けてくる。


 とはいえこれは嬉しい。初めて出来た彼女がプレゼントを用意してくれたのだ。この世にこれ以上の幸福があるか?


「開けていい?」


「いいけど、美味しい以外の感想は受け付けてないからね」


「きっと美味しいよ」


 僕ははやる心を抑えて小箱を開けた。とても丁寧にラッピングされていてなかなか開ける事が出来なかったけれど、包装紙を傷つけないように丁寧に開封していくと、中にはチョコレートが入っていた。デコペンで星やハートが描かれた可愛らしいチョコレートである。


「これを、作ってくれたの?」


 僕が訊ねると一ノ瀬さんは恥ずかしそうに頷いた。


「美味しそう……いま食べてもいいかな」


「いいけど、さすがにドキドキする……」


 チョコを一つつまんで口に放り込む。すると舌の上にじゅわっとカカオの風味が広がり、甘すぎず苦すぎず、コクのある甘みが広がった。


「ほら、りつ君と付き合う前にご実家に行ったじゃない? そのときに宵歌ちゃんと話してさ。あんまり甘すぎるのが好きじゃないんだって思ったの。だから甘くないチョコを使ったんだけど……どうかな」


「………美味しい」


 僕は思わず二つ目に手を出した。


 チョコレートってこんなに美味しい物だっただろうか? いくらでも食べられそうだ。というか無限に食べたい。ずっと食べ続けられる。


「美味しい。美味しいよ一ノ瀬さん!」


「ちょ、ちょっと! 無くなっちゃうよ!?」


「だって、こんなに美味しい物を我慢しろなんて無理だ」


 はしたない事は承知だけれど、僕は続けざまに三つ目を口に入れた。


「もう……もっと大切に食べてよね」


 一ノ瀬さんは不満そうだったけれど、はにかんだ顔はどこか嬉しそうに見える。


 人生で最高の誕生日だ。


 一ノ瀬さんが彼女で本当に良かったと思う。


「来年こそは、一ノ瀬さんの誕生日を祝おう」


「……十倍にして返してよね」


「百倍にするさ」


「ふふっ、約束」


 目を見つめ合って笑う。きっと来年は最高の誕生日を演出しようと心に誓った。

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