第29話


 またしても一ノ瀬さんを怒らせてしまったらしい。


 部屋を出て行ったきり戻ってくる気配が無い。僕は閉じたドアの方を見つめてしばらく動かなかった。追いかけたい気持ちはあるが追いかけられなかった。


 この前は部屋から出てきてくれたけれど今回は出てこないかもしれない。今度こそ嫌われてしまったのかもしれない。もし拒絶されてしまったら立ち直れないかもしれない………。そんな恐怖心が足を重くした。


「……宵歌の事も心配だし、一ノ瀬さんばかりに気を取られるわけにも……でもなぁ、追いかけなかったら、確実に嫌われるけど……大丈夫かなぁ、あいつ……」


 それは言い訳のようなものだっただろう。僕は一ノ瀬さんに嫌われるという恐怖から逃れるために宵歌を想起したに過ぎないのかもしれない。


 僕はそれくらい動揺していた。


 そもそも怒らせた理由が分からなかった。宵歌と恋仲に発展したのだったら分かりやすい。あたしがいるのに! と一ノ瀬さんが怒ったのなら容易に想像がつく。しかし僕達はただ同棲しているに過ぎないのだ。


 改めて部屋の中を見渡してみる。


 たしかに生活感は出てきたように思う。宵歌が買った小物とかコップとかが増えている。それだけで人が住んでいる温かみがでるし、生活の足跡が見えるというもの。


 かつては住宅展示場のモデルハウスのような内装だった我が家が今では人の家である。


 宵歌がもたらしたものは大きいようだ。だからといって一ノ瀬さんが機嫌を損ねる理由が分からない。


 だって宵歌の好きと一ノ瀬さんの好きは意味が違うのだ。家族が好きというのと彼女が好きというのは違う。ラブとライクともまた違う『好き』というこの感情はきっと安心と独占欲の違いだろうと思われる。


 僕が好きなのはむろん一ノ瀬さんの方であって、それはお互いに通じ合っていると思っていた。


 怒らせた理由が分からない以上追いかけて謝る事はできない。むやみに謝る事は新たな怒りを招くことになるので絶対にやってはいけないのである。


「……仕方ないな。とりあえず、宵歌の様子を見に行くか」


 一ノ瀬さんを怒らせた理由を考えつつ大宮さんのカフェに向かった。


     ☆☆☆


 カフェ『アメシスト』がいまなお残っている理由がいまいち分からない。それというのも大宮さんはカフェの経営をサボりがちだからである。日がな一日DIYをして、たまにマンションの管理をして、お客はほったらかし。僕が手伝いをしていたときは店の閉め作業までやらされることがほとんどだった。


 いくら宵歌が旅館のお手伝いをしているとはいえお金の管理までしていたわけではない。慣れない作業をいきなりやらされるのである。


「ええでも、こんな仕事したことないんですけど……」


「大丈夫大丈夫。簡単だから誰でもできるよ。こうやって売り上げとレジの中の金を照らし合わせてね……ほら出来た」


「あ、ええ……?」


「私でもできるんだから君にもできるよ。じゃ、後は任せた!」


 本当にこれだけしか説明してくれないのだ。


 今思い返すと、かなり無責任な職場であった。まるで大学生サークルがノリで運営する出店のような……そんな感じだ。


「宵歌のやつ、大丈夫かなぁ……」


 僕は大きな不安を抱えながらマンションの裏へ向かった。きっと大宮さんの無茶ぶりに慌てふためいている事だろう。エントランスを抜けてぐるっと回ると何やらにぎやかな声が聞こえた。


 なんだろうと思ってひょっこり覗いてみると、「いらっしゃいませ~~!」という宵歌の元気な声が聞こえ、カフェが満員になっていた。


「な、何が起こっているんだ……?」


 こんなににぎわっているアメシストは見たことが無かった。

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