第9話


 僕はチャイムを鳴らして待った。


「一ノ瀬さん、僕だ。話をさせてくれないか」


 しかし、いくら待っても一ノ瀬さんは姿を現さなかった。


 これは完全に怒らせてしまったと僕は思った。


 彼女を怒らせた時の対処法なぞ知らないが、一にも二にも話をすることが大切だろうと思う。


 さっきのは誤解なのだと伝えなければ仲直りをすることもできない。


 僕はもう一度チャイムを鳴らして待った。


 しかし、やっぱり一ノ瀬さんは姿を現さない。開かないドアが一ノ瀬さんの心を表しているように思えた。


「………そうだよなぁ。怒るよなぁ。……はぁ、もっと早くに話しておくんだった」


 言葉を選んでいる暇があったら体当たりでも伝えるべきだった。変に気を回して怒られないように言葉を選ぶよりも、とにかくありのままを伝えて気持ちを正直に話す方がよっぽど信じてもらえただろう。「僕は馬鹿だ……」


 取り返しのつかない事をしてしまった。


 部屋に戻るか、一ノ瀬さんが出てくるのをここで待つか。


「考えるまでもない。今の気持ちを伝えるしか僕にできる事は無いのだ。一ノ瀬さんに話しができるまでここで待とう」


 僕は廊下の手摺てすりにもたれかかると、ジッと待った。


 外気温が28度を超えているのである。僕は背中を焼かれるような居心地の悪さを覚えたけれど待った。


 部屋に戻る事も一ノ瀬さんが邪推する材料になってしまうかもしれない。


 謝りたいという気持ちを正直に伝えるためには、余計な事は少しでもしたくなかった。


(宵歌の事を伝えなかったのは……僕が自分の事しか考えていなかった証拠だ。一ノ瀬さんに怒られたくないとか不安にさせたくないとか言って、ただ嫌われる事を恐れていた。伯父さんの言う事は聞かねばならない僕は宵歌がうちに来ることを止められない。そんな弱い所を見せたくなかったんだ。……どうせ馬鹿なんだからとことん馬鹿になってやる。一ノ瀬さんが出てくるまでここを動かないぞ。呆れられようと誰に咎められようと、僕にとっては一ノ瀬さんが一番大切なのだから)


 僕は待った。


 30分が経ち、1時間が経った頃、宵歌が部屋から出てきた。


「宵歌も待つ」


 僕の帰りが遅いから見に来たのだろう。先生の怒られて廊下に並ばされている生徒のように僕の隣に立った。


「一ノ瀬さん、怒ってる?」


「ラインを送ったけど返信が無い。既読はついているから見てはいるんだろうけど」


「………冗談のつもりだったんだけどなぁ」


「お前の性格を知ってるやつなら通じただろうな」


「…………」


「環境が違うんだ。田舎みたいに人との距離は近くないし、子供みたいに正直に受け取れるわけがない。あいつらとは違うんだ」


「………都会の人って偏見まみれなのに意外と純粋?」


「一ノ瀬さんは清楚なんだ」僕はつっけんどんに言った。


 あの人はしっかりしているように見えて子供みたいに幼いのである。田舎育ちのように誰とでも気安く話せる強さは無い。いたいけな心を虚勢で隠しているだけだ。


「僕も向こうのノリで冗談を言ったらすべった事がある。宵歌は気を付けるんだぞ」


「……りつは言っちゃいけないって分かってることを言うからなぁ」


 向こうでもすべっていたと言いたいらしい。


 そんなことを話しながら待っているとふいにドアがガチャリと音を立てて開いた。


 僕と宵歌は驚いてドアの開いた方を見る。気まずそうな顔をした一ノ瀬さんがおずおずと姿を現した。


「……ずっとそこにいたの? なんで?」信じられないと言いたげな顔をしていた。


 僕は許してもらえたような気分になって「一ノ瀬さんと仲直りしたいから」


「あたしが勝手に怒って勝手に飛び出して行ったんだよ」


「僕が早く言っていればこうはならなかった。ごめん」


「それはそう」


 素っ気なく言った一ノ瀬さんの言葉に少し傷ついた。


 宵歌がパッと駆け出して「一ノ瀬さんごめんよぉ!」と抱き着く。


「ちょっとからかおうと思っただけなの。2人の仲が良いからつい意地悪しちゃったんだ」


「……宵歌ちゃんはいいの。りつ君はダメだけど」


「うん、りつはいいから宵歌は許して」


「いいよ」


 僕は傷ついた。


 とはいえ雰囲気は悪くなかった。一ノ瀬さん自身も反省しているようにしょんぼりしているし、宵歌も余所行きモードの良い子ちゃんをしている。2人は気安い友達のように抱き合って頭を撫であい、傷を舐めあっているようである。


 僕は蚊帳の外だったが、一ノ瀬さんの怒りが収まっているので安心した。ひどく繊細な彼女との関係はこれで終わりなのかと危ぶまれたけれども、首の皮一枚つながったことに感謝した。


 いつまでも廊下にいると他の人に迷惑が掛かる。僕は女子2人に声をかけて場所を変えようと思った。


「まぁいいや。ひとまず僕の部屋に戻ろう。一ノ瀬さんも一緒に」


「うん、そうしよう」


 と、歩き出したところで僕のお腹が鳴った。


「………………」


「朝ご飯の最中だったもんねぇ」


 宵歌がクスクス笑って、一ノ瀬さんが「ごめん……」と謝った。


 雨降って地固まるとはこういう事を言うのだろう。

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