第7話


「まどか~~~。お母さんもう行くからね~~」


「……ふぁ~~~い」


「ご飯用意してあるから温めて食べてね~~」


「分かった~~~………ふぁあ……」


 一ノ瀬さんは朝に弱い。低血圧であることに加えショートスリーパーだからぐっすり眠った事が無いのである。


 うっすらと目を開けて返事をする。まどろみながら親に呼ばれた時のわずらわしさは「お勉強しなさい」とせっつかれるに勝る。


 一ノ瀬さんは気力を振り絞って返事をするとまた目を閉じた。


「すぅ……むにゃむにゃ………」


「まどか~~~~~~~~!」


「は~~~い………もう、ママったら……」


 こうして一ノ瀬さんの一日が始まるのである。


 一ノ瀬さんにはある目的があった。今日こそ小海さんの話の内容を聞くこと。


 そのために重い体にむちを打ち起き上がる。大きく伸びをして「んにゅ~~~」と鳴く。朝食を食べ、顔を洗って「よしっ」と決め顔をする。


 僕は意気地なしだから宵歌がうちに来ることを言えずにいた。どう伝えたら怒られないかをばかり考えていて、一ノ瀬さんが僕の不調和に気づいている事に、僕が気づかなかった。


 先日の逃亡劇で一ノ瀬さんの目的は達成されなかった。僕の『一ノ瀬さんと付き合う』という目的は副次的に達成されたけれども、『イーブンな関係を築く』という一ノ瀬さんの目的は達成されなかったのだ。


「あたしは助けられてばかりのお姫様なんてイヤ。りつ君の王子様になるんだ」


 気合の表れなのか化粧までしている。化粧水をぺたぺた塗り込んでアイシャドウを一つまみ。口紅を一往復させれば美少女の完成である。


 お気に入りの服に着替えて勉強道具が入った手提げかばんを引っ掴むと家を出た。


 一ノ瀬さんの作戦はこうであった。


 夏休みの課題を一緒にしようという口実でうちに上がり込み、小一時間過ごしたのちに休憩しようと申し出る。お茶菓子なんぞを頂く僕にそれとなく宵歌の事を訊く。


「宵歌ちゃんは元気?」「この間は少ししか話せなかったけど、夏休みのうちにもう一回会いたいな」なぞと思い出話に花を咲かせるふりをして実家の方に話題をもっていく。僕の興が乗った頃合いを見計らって「そういえばこの間の話ってなんだったの?」


 これで完璧だと一ノ瀬さんは思った。


「やるぞやるぞやるぞ~! りつ君の抱える問題はあたしの問題。あたしはりつ君の力になりたいんだ。そうしなきゃあたしは自分を許せない。助けてもらってばかりなんてイヤ。借りを作ってばかりじゃ彼女なんて言えないよ。これで貸し借り無しにするんだ!」


 そんな決意を抱きつつチャイムを鳴らした。


 一ノ瀬さんは僕に借りがあると思っているらしい。僕としては一ノ瀬さんが笑っていてくれるならそれで良いのだけど、気が済まないらしい。


「りつ君。どんなことでもあたしは力になるよ」


 そう呟いた一ノ瀬さんはまごうことなき女神である。


 ほどなくして僕がドアから姿を現す。一ノ瀬さんは心臓がドキッと跳ねたという。


「りつ君おはよう! ね、一緒に宿題やらない?」


「あー、うん、そうだねぇ……」


 本来なら僕の視点に戻るのが正しいのだろうけれど、今回ばかりはもう少し一ノ瀬さんの視点で語らせてほしい。読者諸賢にはご不便をおかけてし申し訳ないけれどこればっかりは仕方がない。


 一ノ瀬さんはすぐに宵歌の靴に気がついた。「それ、誰の靴? りつ君一人暮らしだから予備かな? でも、ちょっと女物っぽいよね?」


「………………」


「黙った」


 一ノ瀬さんはほおを膨らませると、自分でも抑えきれない怒りに任せて部屋に侵入して「あたしのりつ君を盗ろうなんていい度胸してるじゃないの!」


 その部屋の中では宵歌がまだ朝食を食べていて、「あれ、一ノ瀬さんだ!」と驚いた顔をした。


「え、宵歌ちゃん……?」


 2人はしばし面食らった顔をした。


 一ノ瀬さんは何が何やら分からなかったけれど、とりあえず一般的な礼儀として「この間は、どうも」とだけ呟くように言う。


 僕が慎重に打ち明ける算段を練っている間に最悪の形で露見してしまった。


 一ノ瀬さんは怒るべきか喜ぶべきか迷ったけれど、僕が「え〜〜っと」と気まずそうにしているのを見て、こいつにだけは怒ろうと決めたらしい。


「説明しなさい」と僕の足を踏んだ。


 痛かった。


 そうして冒頭に繋がるのである。

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