第3話 杏仁豆腐
それにしても、だ。
そもそも、私を手下にするにしても、どうして〝付き合う〟必要があるんだろう。大島彩蝶にとっても、私にとっても、付き合うことによるメリットは少ないはずだ。
調理実習の時間。私は杏仁豆腐を作りながら、大島彩蝶の企みについて考察を巡らせていた。
火をかけながら、小鍋に杏仁霜、グラニュー糖、牛乳を入れて混ぜる。
私を取り込むにしても、他にやりようはあるはずだ。
もし付き合っていることがバレたら、私よりも大島彩蝶のほうが遥かにヤバいだろ。私も大島彩蝶も、あいつのファンに何かされるかもしれない。それだけじゃなく、大島彩蝶は現在の絶対的な地位も失うはず……。
支配したい、付き従わせたいって言ったって、わざわざ付き合う意味がわからない。変に回りくどいことをしないで、もっと直接的に「従わないなら……」って脅せばいいのに。
「浅井」
…………もしかしたら、本当に私のことが――。
「あさいー」
流石にそれはない! ありえないったらありえない!
煮立ってきた鍋に意識を集中させたまま、私は頭を横に振った。
「
「おい、名前で――」
私のことを名前で呼んでくる不届者に対して注意をしようしたけれど、かぶりを振っただけでそれは未遂に終わった。
「なんだ、帆夏か」
というのも、私のことを名前で呼んだのは、私の唯一と言ってもいい親友・池貝帆夏だった。空色で統一された三角巾とエプロンを纏いながら、私をじっと見てきている。
「もう充分だから、こっちの容器に移そう」
帆夏は手に持った空のボウルを差し出してきた。
「……りょ」
短く返事をして、慎重に空のボウルに移してゆく。そこから帆夏と交代した。
「浅井さ、なんかあった?」
ゼラチンを溶かしながら、帆夏が訊いてきた。わたしはぎょっとして、一瞬だけ目が大きく開いた。
「まあ……あったけど」
「悩みなら聞くけど」
落ち着いた口調で淡々と帆夏は言った。
いくら帆夏とは言え、いくらなんでも大島彩蝶の一件を話すわけにはいかなかった。いつもはくだらないものから少し深刻なものまで、帆夏になら臆せず何でも相談できるけれど、今回ばかりは流石に憚られた。
「出来るなら話したいけど、今は話せない」
「……どういうこっちゃ」
帆夏は作り終えた杏仁豆腐を個別の容器に丁寧に注ぐと、エプロンを脱ぎ、三角巾を外した。帆夏の長い髪がするりと零れ落ちる様は、とても綺麗だった。
帆夏に倣って、私もエプロンと三角巾を外し、家庭科室の長机に溶けるように座った。
「もしかして、彩蝶ちゃん関係?」
「…………チガウヨ」
「やっぱりそっか。今朝珍しく話してたもんね」
いきなり核心を突いてくるのは、さすが観察眼に優れた帆夏だ。隠し事をしたところで、すぐにバレてしまう。もはや、網膜の動きすらつぶさに見ているんじゃないだろうか。
「……はぁ。そうだよ、大島彩蝶関係」
観念して認める。でも、さすがに大島彩蝶と何があったのかは言えない。
「浅井って彩蝶ちゃん苦手だったよね」
「苦手どころか嫌いだけど」
「あんまりそういうこと言わないほうがいいよ」
大島彩蝶に対する正直な感想を吐露すると、帆夏に窘められた。
「んー、浅井の抱く彩蝶ちゃん像って、もしかしたら歪んでるのかもよ。一回ちゃんと話してみたら?」
「………………いや――」
もっともらしいことを言う帆夏に反論しかけたけれど、出かかっていた言葉をどうにか飲み込んだ。
私の大島彩蝶像じゃなくて、大島彩蝶本人が歪みに歪みまくってるんだってば。
「ただでさえ浅井は見た目も態度もヤンキー染みてるんだから、お互い誤解してるのかも」
「……余計なお世話」
そう言い捨てて、私は突っ伏した。
帆夏は優しい。私と違ってね。
誰に対してもあまり偏見を抱かない。警戒心がないわけではなく、他人とある程度関わってから、どういう人間なのかを判断する。だから、よく知らない人には、良い意味でフラットだ。
私の場合は、そもそも相手が私を警戒しながら話しかけてくるから、同じように警戒をしてしまう。目付きが良くないし、意識せずとも威圧的になってしまって、年齢を重ねるたびに友達ができにくくなった。
その例外が、帆夏だ。
あと……大島彩蝶も一応、私に対して警戒はしていなかった気がする。まあ、あいつはヤバい奴だから。
そんなことを考えていると、家庭科の教師がパチンと手を叩いた。突っ伏していた頭を上げて、黒板のほうを見る。
「どの班も作り終わったみたいだから、渡しておいた紙に何班か書いて、冷蔵庫で冷やしておいてください。放課後になったら、各自で食べに来て。もちろん、食器は洗って片付けておいてください――」
考え事をしながら、ぼんやりと過ごしているうちに、放課後になっていた。クラスのみんなは、ぞろぞろと家庭科室に向かっている。教室を後にする背中を見送ってから、私は帆夏のほうを見た。ちょうど目があって、帆夏はそのまま立ち上がり、私のほうへ歩いてきた――かと思うと、何やら突然足を止めた。
「夢月ちゃん」
その直後、私の右側から、聞き覚えのある声が聞こえた。恐る恐る声のほうを向くと、そこにはやはり大島彩蝶。しかし、これまた珍しく、取り巻きが一人もいなかった。
「……なに?」
視界に大島彩蝶と帆夏を同時に捉えながら、私は泣きそうな顔で帆夏に助けを求めた。しかし、帆夏は口パクで何か言っているだけで、全然こっちに来てくれる気配がない。片や大島彩蝶は、何を考えているのか、少し眉間に皺を寄せたまま黙っている。
帆夏の口パクが理解できていないことを表情と口パクで伝えると、帆夏はドアのほうを指さして、再びゆっくりと口パクをした。
それは恐らく「さ・き・に・い・く」だと思う。
私は必死に「待って」と伝えようと口を開いたけれど、帆夏はそそくさと足早に教室から出て行った。
ショックで肩を落としていると、その肩を大島彩蝶が軽く叩いてきた。
「ついて来て」
そして、白と黒のシックなデザインのリュックを背負うと、大島彩蝶は教室のドアまで歩いて行った。その様子を警戒しながら眺めていると、大島彩蝶は振り返って、「早く」と促してきた。
何を企んでいるのかはわからないけれど、とりあえず大島彩蝶の行動を観察しながら、その背中に付いて行った。
大島彩蝶は、教室や職員室があるA棟から、渡り廊下を歩いてB棟に移った。この棟には、理科室や図書室などがある。
一体どこに行くつもりなんだろう。家庭科室はA棟にあるから、杏仁豆腐を食べに行くってわけではなさそう。
B棟の二階を歩いていると、ある教室の前で大島彩蝶が足を止めた。
「………………」
その教室は、『社会科準備室』だった。
つい先日、私が大島彩蝶に呼び出された教室だ。
当たり前のように鍵をブレザーのポケットから出して、社会科準備室を開けて入ってゆく。仕方なく、私も大島彩蝶に続く。
大島彩蝶は入るなり内側から鍵をかけ、恐らく社会科の教師である岩木が使ってそうな机にドサッとリュックを置くと、自身もリュックと同じようにドサッと座った。その所作に普段のキラキラと輝いている大島彩蝶は感じなかった。
「夢月ちゃんもテキトーに座って」
「……え、ああ」
まるで自分の部屋に招き入れたかのような態度だった。
私は促されたまま、四つほどくっつけて置いてある机の中から、大島彩蝶から一番離れた場所に位置する椅子に座った。
「なんで離れたところに座るのー」
オフィスチェアーにあぐらで座りながら、大島彩蝶はゆったりとした口調で言ってきた。
「いや……怖いから」
「怖い? あたしが?」
すっとぼけたように訊いてくる。私は眉をひそめて頷く。
しかし、大島彩蝶はそれでも腑に落ちていない様子だった。
「脅してきただろ、この前」
「あー……」
そう付け足すと、ようやく納得したのか、大島彩蝶は椅子の背にもたれた。
「脅迫まがいのことをしてくる奴に呼び出されて、警戒しないほうがおかしい」
「それもそうだね」
「…………」
まるで他人事みたいな返事だった。こいつほんとに……。
「でも、何もしないから安心して」
「信じられると思う?」
「うーん、信じる信じないは夢月ちゃんの勝手だけど、事実あたしは何もしないから。少しここで待つだけだし」
「待つって――」
「さーて、折角だからこの時間に課題終わらせちゃお」
大島彩蝶は椅子を回転させ、机に向き合った。リュックの中から手を振っているパンダがプリントされたペンケースと問題集を取り出した。
そして、本当に課題に取り組み始めた。
……え、なんで私を連れてきたの。
次々と疑問が頭のなかに浮かんでくるけれど、わざわざ話しかける気にはなれなかったから、私も課題をやることにした。
「そろそろいいかな」
課題も終わらせて、手持ち無沙汰だったところで、時計を確認した大島彩蝶が呟いた。
もうすでに四〇分経過していた。
「じゃあ、行こっか」
そう言って、大島彩蝶は椅子から立ち上がり、リュックを背負った。
訝しみながら後を追う。
大島彩蝶の行先は、家庭科室だった。
扉は解放されたままで、大島彩蝶は扉の陰から片目を覗かせて、室内の様子を窺った。私はそれを冷めた目付きで見ていた。何してんだこいつ。
「よし……」
小さくそう言うと、ようやく家庭科室に足を踏み入れた。
「夢月ちゃんも早く入って」
意外とせっかちらしい。またしても急かされて、しょうがなく私も家庭科室に入る。すると、大島彩蝶は扉を勢いよく閉めてすぐさま内側から鍵をかけた。
これで、家庭科室の鍵を持っている人しか開けられない。
社会科準備室のときもそうだけど、意図的に鍵を閉めているんだろうか。だとしたら、何が目的?
「あたしたちだけだよ」
「ん、なにが?」
訊き返すと、家庭科室の教卓の奥に設置されている冷蔵庫の中を見ている大島彩蝶が続けた。
「杏仁豆腐。食べてないの、あたしと夢月ちゃんだけ」
なぜか嬉しそうに冷蔵庫から二つの杏仁豆腐を取り出して、机に並べた。
「これ、隣同士で食べないとダメなの?」
並べられた杏仁豆腐を見ながら、私は訊いた。大島彩蝶は軽く溜息を零すと、不満げに肩を落とした。
「逆に訊くけどさ、二人きりなのに離れて食べるの?」
「それは、関係性によるだろ。私たち友達ですらないんだし」
はっきりとそう言い切る。事実として、私と大島彩蝶友達ですらない。
「夢月ちゃんさぁ……」
大島彩蝶は私に向けて白い目を向けてきた。
「……なんだよ」
「あたしたち、恋人同士でしょ?」
「はぁ……?」
今度は私が白い目を向けた。
何を言っているのか分からなかったけれど、昨日のことを思い出して、大島彩蝶の言わんとしていることを理解した。
ただ、あれは一方的な「付き合って」という言葉だ。
「了承した覚えはないんだけど」
「別にいいじゃん、なんだって」
「話聞いていた? 私の意思は?」
「じゃあ夢月ちゃんが納得できる関係でいいよ。友達でも、ただのクラスメイトでも。あたしは夢月ちゃんのことを恋人として接するから」
訳の分からないことばかり言われて、頭がパンクしそうだった。あまりにも自己中心的すぎる。
「だから、私の意思は?」
「ね、早く食べよ」
私の言い分は全く耳に入れず、大島彩蝶は先に座った。
「…………はぁー……」
大きく溜息を吐いて、私は仕方がなく大島彩蝶の隣に座る。満足気な顔で見てくるのがムカついた。
さっさと食べて、さっさと帰ろう。
リュックから未使用のプラスチックスプーンを取り出すと、隣からクスクスと笑う声が聞こえた。隣を見ると、大島彩蝶はケースに入ったお弁当用のスプーンを手に持っていた。
「夢月ちゃんも、こういうところのスプーンって苦手なの?」
「まあ……どこの誰が使ったのか分からないし、ちゃんと洗われてるのかも分からないし……使えって言われたら使うけれど、進んで使いたくはないな。ちょうどリュックにスプーン入ってたし、自分のがあるならそっち使う」
「それすっごい分かるな~。こういう少し潔癖なところが似てるのって、やっぱりあたしたち相性良いんだよ」
「それは違うと思う」
大島彩蝶の妄言をきっぱりと否定する。
ふふっ、と笑みを零してから、大島彩蝶は杏仁豆腐をぱくりと口に運んだ。
「おいしいよ。夢月ちゃんも食べなよ」
「ああ……うん」
私は大島彩蝶から視線を外して、スプーンで杏仁豆腐を掬う。そして、スプーンの上でぷるぷると震える杏仁豆腐を口のなかへと持ってゆく――。
「あ、ちょっと待って」
途中で、大島彩蝶に遮られた。
「なに!」
私は大島彩蝶に噛みつきそうな勢いで言った。
食べろって言ってきたから食べ始めようとしたのに、今度は待てって、なんなんだよこいつ。もしかして、私のことを犬かなんかだと思ってんの?
「せっかくだから、あーんしたいな」
「待って本当に理解不能」
「え? 〝あーん〟知らないの? 小さい頃やってもらわなかった?」
「いや、それくらい分かるわ! なんでお前にあーんされなきゃなんねぇのって言ってんだよ!」
「夢月ちゃんあんまり大きい声出さないでね」
「………………」
しーっ、と唇に人差し指を当てて注意をしてきた。
こいつと話していると、頭に血が昇りすぎて貧血を起こしそうだ。
「恋人同士であーんするって、そんなにおかしいことかな?」
「だからまず私たちは恋人同士なんかじゃ――」
「はい、あーん」
私の言葉も意思も無視して、大島彩蝶は杏仁豆腐が乗ったスプーンを差し出してきた。
「うわ、マジでやめろって」
私は身体を引いて、なるべくスプーンから距離を取る。何が悲しくて嫌いな奴にあーんされなきゃならないんだよ。
「もー、夢月ちゃんはやんちゃだなー」
私をおちょくりながら、大島彩蝶は杏仁豆腐を落とさないよう器用に私の口元にスプーンを持ってくる。
「いいから、本当に」
何度もスプーンを避けていると、突然ぴたりと動きが止まった。
「……断るの?」
鋭い目付き、低い声。色のない表情。
……大島彩蝶の裏の顔だ。
「脅すのかよ」
「ううん、違うよ」
色のない表情から、にこやかな笑顔に変わった。この表情の激しい移ろいは、いわゆるアイドルを彷彿とさせる。
分かりやすい嘘だ。私のことを脅すつもりしかない。
やっぱり、私は大島彩蝶のことが嫌いだ。
「…………お前、本当にクズだな」
私は避けるのを止めて、大島彩蝶を睨み付けた。大島彩蝶は満足気に目を細めて、私の口元にスプーンを触れさせる。仕方がなく、私はそれを受け入れた。口のなかに杏仁豆腐が転がり込む。
「味はどう?」
スプーンが私の口から離れると、わざわざ感想を求めてきた。
「まぁ、普通の杏仁豆腐って感じ」
「そっちの味じゃなくて」
「は? どういうこと」
「間接キスの味のほう」
大島彩蝶は少し口角を上げ、ピエロのような笑みを浮かべていた。
今になって、私があーんされたのは自分のスプーンでなく、大島彩蝶のスプーンなのだということに気付いた。
途端に恥ずかしくなるのと同時に、強い怒りが湧いてきた。
さすがに、人をおちょくるにしても、度が過ぎている。
私はバンと机を勢いよく叩いて立ち上がった。リュックを背負いながら、力を込めた一歩一歩で足早に扉のほうへ向かう。
「夢月ちゃん――」
「――お前、本当に最低だな」
そう言い残して、私は家庭科室から走り去った。
私はお前のことが嫌いだけど 厭 @L1LAKI
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