第2話 飲食店の洗い場が忙しすぎる、というだけのお話

食料庫から持ってきた玉ねぎは、依然としてメグのポケットの中でくるくると回っている。


町一番の中華料理店「麓楼亭」で

ただひとりの洗い物係であるメグは、これまでの長い経験値をもってしても対応できないほどの忙しさに見舞われていた。


開店前のミーティングで聞いたところによると、本日の予約のお客様は23組の67名様と聞いた。それは確かに、「忙しい」の部類に入る人数だ。予約をせずに来るお客様だっている。


だけど、その程度の忙しさであれば、メグはこれまでに何度も経験してきた。

たくさんの修羅場を乗り越えてきたのだ。


一番大変だったのは、「水蒸気パレード」がやってきた時だろう。


*


ある時、この町に水蒸気パレードの一団がやってきた。車道は封鎖され、町の道路の至る所に警備員が、緊張の面持ちで立っていて、町全体は物々しい空気につつまれていた。歩道には、日本中から集めたと言わんばかりの数の人々がぎゅうぎゅうに並び、人々の塊からは、キィキィと悲鳴が聞こえてきそうだった。


そんな空気が一変したのは、街灯が消え、水蒸気に包まれた色とりどりの淡い光が浮かんだ時だった。

きらびやかにかざられた車の中から立ち込める水蒸気とともに、妖精みたいに華麗に舞う団員たちは、それはそれは美しかった。


メグはそれを、店の2階の従業員通路の窓から覗いていた。

ちょうどパレードが店の前を通った時、店の客足が途絶えたのだ。

面倒見の良い給仕の矢作さんが、メグの手を引いて連れてきてくれた。

あの日見た光景は、きっと、一生忘れないだろう。


パレードが過ぎ去った後、道に溢れていた人は一斉に、吸い込まれるようにして麓楼亭に入ってきた。

なぜかは分からないけれど、その日は小籠包や点心が、とてもよく売れ、メグは、腕も目も、あと3人分欲しいと思った。


いつもメグの心を落ち着けてくれる「洗い物のリズム」は完全に失われ、メグは自分が地獄のかまどで働かせられている罪人になったような気分だった。その忙しさには、それほどの恐怖が含まれていた。


それから2、3日の間は、ずっと手の筋肉がこわばっていた。


*


厨房の一番の泣き虫・ツバクロさんは「もう無理だよぅ」と声をあげながら鍋を振っている。料理長は「バカヤロウ!バカヤロウ!」と、しきりに怒鳴っている。


いつもは生き生きと調理をしている他の料理人たちも、今にも泣きそうな顔をしていたり、心を失ってしまったかのように無表情になる者もいた。


メグもまた、水蒸気パレードの時と同じように、地獄のかまどにいるような感覚に襲われていた。


シンクに張ってある水は、もう真っ黒だ。

おまけに、大量の油が溶け込んで、ドロッとしている。

その中には膨大に重ねられた皿が詰め込まれ、ギィギィと嫌な音を立ててひしめき合っている。まだ手をつけられていいない汚れた皿は、メグの膝まで届くほどの山をいくつも作り、並んでいる。


洗い場での仕事は、自分の心にも、体にもぴったりとくる天職だと思っている。


食べ終わった皿が何重にも重なってシンクに投げ込まれるとき、メグの心は高鳴る。

だけど、今日ばかりは、洗い物たちが寄ってたかってメグをいじめに来ているようだ。


今日は、パレードも、流星群もない、ごく普通の木曜日。


(なんだか、いやーな感じ)


メグは心の中で呟いた。

コック服の中は、サウナのように熱気がこもり、汗でじっとりと濡れている。


ポケットの中の玉ねぎだけは、さっきからずっと同じ速度で回り続けていた。

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洗い場のメグ 実未 さき子 @sami731

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