洗い場のメグ
実未 さき子
第1話 洗い場のメグ
町1番の大きな中華料理店「麓楼亭」で、メグは洗い物係をやっている。
今夜も厨房は、大忙し。
大通りに面した3階建のレストランには、上の階から下の階まで埋め尽くすほどのお客さんが、入れ替わり立ち替わり、ひっきりなしにやってくる。
厨房には次から次へと注文が入り、あちこちで鉄鍋が一斉に火にかけられ、あつあつの料理がのった皿がびゅんびゅん飛んでいく。それと引き換えに、大量の洗い物がどっさりと返ってくるのだ。
「おお、メグ、調子いいじゃないか。今日は一段と仕上がりがキレイだ」
片手では汗を拭い、もう片方の手では油がたっぷりと残った中華鍋を持って料理長がやってきた。
きっちりと並んだ洗いあがりの皿見て、満足そうに微笑んでいる。大きく開いた口から、金色の奥歯は光るのが見えた。
豪快な人物ではあるけれど、従業員一人ひとりの様子には細かく目を配っている。
「うん」
ミリーは短い相づちだけ打ち、すぐにまた手に持っていた取り皿に視線を戻した。
麓楼亭の洗い物は全て、メグが担当している。
口数は少ないけれど、テキパキと確実に仕事をこなすため、メグはみんなから信頼されていた。
メグには、メグだけの生きるリズムがあった。
そのリズムは、洗い物をやっている時にこそ、一番に発揮できる。
家の台所ではダメなのだ。
次々になだれ込んでくる大量の皿を、蛇口が3つもあるような大きなシンクにつけ、食器洗浄機をかける。食洗器のブザーが鳴ったら、素早く取り上げ、さらっと拭き上げて同じ皿ごとに重ねていく。
その一連の動作の中でこそ、メグは気持ちの良いリズムに浸ることができる。
開店時間の6時を30分ほど過ぎてから、だんだんと緩やかに速度を上げていくそのリズムは、夜の8時から9時過を過ぎたころまで、大きな盛り上がりを見せる。
「ま、今の事業に失敗したら皿洗いでも何でもやればいいや」
と言う人がいる。
多くの人にとって、皿洗いは最後の選択肢になるようだ。
だけど、メグはこの職を失うことを恐れている。
―事故にでも遭って怪我をしたら?
―そのうち腰を痛めるかもしれない。
―おばあちゃんになっても、この仕事を続けられるだろうか?
―今、店は繁盛しているけれど、何かのきっかけでふいに無くなってしまうことだってあるかもしれない。
色々なあらぬ予感が頭をよぎるけれど、すぐに目の前に集中しなければならなくなる。
今は戦いの真っ最中なのだ。
この厨房にいる者全員がひとつの体となり、何かに勝とうとしている。
原始時代であれば、それは巨大なマンモスだったかもしれない。
海賊たちにとって、それは大嵐であっただっただろう。
メグたちにもまた、現代の多くの人々が対峙している何かを相手に、生き残るための戦いに挑んでいるのだ。
「メグぅ、ちょっと玉ねぎ持ってきてくれぇ!今、手が、離せ、ないんだぁ」
背後から、仕込み担当フジさんの声が飛んできた。
「飛んできた」と言っても、その飛び方に、ピッチャーの投げた野球ボールのような勢いはない。蚊が飛ぶような、か弱くてジグザグな飛び方だ。
「分かった!」
混乱の空気漂う厨房の音に負けないくらい、メグも声を出す。
フジさんは、山積みのキャベツの葉を1枚1枚ちぎり、水にさらしているところだった。キャベツの山は、しばらくはずっと高いままだろう。
フジさんのリズムは、野菜仕込みはあまり合っていない。
お年寄りだからか、あまりスピーディーには動くことはできないし、フジさんの腕はあまありにも細すぎる。
「ここの厨房では、一人ひとりが替えの効かねえネジみたいなもんだ。だから、テメーの仕事はテメーで完結させること。他人を頼ろうとするな」
料理長は常にそう言う。だけど、そんな料理長もフジさんについては
「オメーら、フジさんのことも気にかけてやれよ」
と言う。メグも、他のメンバーも、みんなそうすべきだと思っている。みんなにそう思わせるフジさんは、きっとこの厨房に必要な人なのだ。
フジさんの頼みだから、メグは自分のリズムをいったん断ち切り、蛇口を止めた。ずんどう鍋をひとつ持ち、倉庫の部屋に向かった。
背後では祭りの真っ最中のように、音とどよめきと熱気が渦をまいている。
それに比べて、扉一枚隔てた廊下は静かだ。
ギイ
食在庫の扉を開けると、野菜や缶詰や大きな調味料の袋が並んでいる棚が目に入った。
メグは電気をつけず、薄暗いままの倉庫の中を歩き、野菜が積まれている棚を目指した。
玉ねぎは、壁の一角を覆いつくすほどにうず高く積まれていた。
それは、いつも通りの光景のように見えた。
玉ねぎは、いくらあっても、ありすぎるということはない。
だから、こんなにたくさんあってもおかしくはない。
だけど、今日はなんだか変だ。
メグは、玉ねぎの山をじっと見つめた。
違和感の正体はすぐに分かった。
山の少し上側に積まれた玉ねぎがひとつ、くるくると回っているのだ。
それは、メリーゴーランドより少し早く、回したてのコマよりはゆっくりと回っている。
初めて見る不思議な光景だったけれど、メグの心はなぜか平然としていた。
まず、上の方から入るだけの玉ねぎを鍋に詰めていく。
そして最後に、回る玉ねぎをそっと掴んで、ズボンのポケットにしまった。
まずは、目の前の戦いに集中しなければならない。
たまねぎの大鍋をメグははた、怒号と熱気のこもる厨房へと戻った。
***
一方その頃、3階の一番右側突き当り「向日葵の間」でも、大事件が発生していた。
悪徳ばばあの手により、機密文書が盗まれたのだ。
「おい、お前ら!行くぞ!」
隊長は、隊列に向かって威勢よく号令をかける。
幸い、廊下には隊の人間の他には誰一人いない。
もしだれかひとりでもうろうろしていようものなら、隊長は声をひそめなければならなかっただろう。
「あのばばあをやっつける!そして、機密文書を取り返すんだ!」
隊長が右手を振り上げ、隊は前進をはじめた。
一張羅の青いシャツだけれど、胸のところに酢豚のタレが染みを作っている。
「ばばあなんて、言っちゃいけないよ。それに一体、何を盗まれたの?」
隊長よりも、頭一つ分背の低い隊員が、遅れないように歩みを早めながら言った。
彼は相棒である新幹線の模型を片時も離すことはない。
「お出かけ」と言われた今夜の食事にも、今日初めて出会った「隊長」から緊急招集がかかったもだ。
「きみつぶんしょ、だと言っているだろ」
隊長は、少しイラついた様子で答えた。
「へえ。それで誰に盗まれたって?」
新幹線の隊員は、少し早足になりながら隊長に訊ねた。
隊長は呆れてため息をつき、返答をやめた。
新幹線の隊員の後ろには、もうひとり別の隊員がいる。
髪の長い、スカートを履いた隊員だ。
うつむいて、うなだれている。
隊に加わることに、気乗りしていないようだ。
それでも一応、隊列に遅れないように、速度を上げて歩いているようだ。
午後7時。
麓楼亭の夜はが、はじまっていく。
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