浅井稜馬の事件簿 電撃10万 連作短編小説

鷹山トシキ

第1話 霧の中の暗黒

 第一章:霧の中の暗黒


 渋谷、1972年。霧が深く立ち込める夜、浅井稜馬あさいりょうまは暗い路地裏でひとり、不穏な事件の調査をしていた。警官としての彼は常に街の闇と戦ってきたが、この夜の闇はそれまでとは違ったものだった。


 1972年の渋谷は、現代とはかなり異なる雰囲気を持っていた。その頃の渋谷は、まだ現在のような高層ビルや大型商業施設が乱立するような賑やかなエリアではなかった。


 代わりに、昭和の雰囲気が色濃く残る街並みが広がっていた。古い商店や居酒屋、喫茶店が軒を連ね、昭和のレトロな雰囲気が漂っていた。また、人々の暮らしもゆったりとした時間の流れの中で行われており、都会の喧騒とは一線を画していた。


 路地裏や小さな商店街など、渋谷の隅々には風情ある場所が点在し、そこには昔ながらの暮らしや文化が息づいていた。ただし、その一方で、急速な都市化の波が押し寄せ始め、徐々に変化の兆しが現れ始めていた時代でもある。


 1972年1月7日、渋谷での殺人事件は、街に深い衝撃を与えた。浅井稜馬はその日の早朝、事件現場に急行し、捜査を開始した。


 渋谷の路地裏で行われた殺人は、何者かによって凶暴に行われたもので、街の人々に恐怖を与えた。稜馬は古い街の雰囲気を背景に、証言や現場の痕跡から事件の真相を追求した。


 しかし、この事件は単なる通常の殺人事件ではなく、その背後には深い陰謀が潜んでいることが徐々に明らかになっていく。稜馬は、渋谷の裏側に隠された秘密や闇を探りながら、犯人の正体とその動機に迫っていく。


 捜査会議は渋谷署地下室にある会議室で行われた。

 被害者のプロフィールは以下の通りだ。


 名前:岡田明子おかだあきこ

 年齢:28歳

 職業:会社員

 居住地:渋谷区内のマンションに居住

 家族構成:独身、両親との同居はなし


 岡田明子は渋谷で会社員として働く若い女性だった。彼女は明るく社交的な性格で、多くの友人に愛されていた。渋谷の活気ある街での生活を楽しんでおり、週末には友人と一緒に街を歩いたり、カフェで過ごすことが多かったとされている。


 岡田は職場でも評判が良く、真面目で仕事に熱心な姿勢を持っていた。殺人事件の直前には、仕事に関するプロジェクトに熱心に取り組んでいたという情報が浮かび上がっている。


 彼女の突然の死は、渋谷のコミュニティに衝撃を与え、多くの人々が彼女の死を悼んだ。事件の動機や犯人の動向についての情報が明らかになるまで、街は不安と疑念に包まれていた。


 1月10日

 浅井稜馬は被害者の岡田明子が勤務していた会社のオフィスに足を踏み入れました。しかし、その静かなオフィスには不穏な空気が漂っていました。突然、暗い影が部屋の隅に現れ、怪物のような姿がそこに立っていました。


怪物:「人間よ、ここには足を踏み入れるな。この場所は我々の支配下にある!」


浅井稜馬:「何者だ、お前は?岡田明子の死に何の関係がある?」


怪物:「我々はこの街の闇の一部だ。そして、その女も我々の一部だった。彼女は我々に抵抗しようとした。それが彼女の最後を招いた!」


浅井稜馬:「闇の一部か。しかし、私はこの街の警官だ。正義のために戦う者だ。お前たちの支配には屈しない!」


怪物:「愚かな人間よ。我々の力を見せてやろうか!」


怪物は凶暴に襲いかかり、浅井稜馬は迫り来る暗闇との戦いに身を投じることになった。彼は勇気を振り絞り、怪物との激闘に立ち向かう決意を固めるのだった。

 

 1月15日 - 鍛冶屋原線かじやばらせんがこの日限りで廃止。

 鍛冶屋原線とは、かつて徳島県板野郡板野町の板野駅から同県板野郡上板町の鍛冶屋原駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線。1972年(昭和47年)1月16日に廃止された。


 1923年(大正12年)に阿波電気軌道(後に阿波鉄道に改称)の手で池谷 - 阿波大寺(後の板西、現・板野) - 鍛冶屋原間が開業し、1935年(昭和10年)の高徳本線(現・高徳線)全通と同時に、板西 - 鍛冶屋原間が鍛冶屋原線として分離され盲腸線となった。


 開業当時は、牽引する蒸気機関車の出力不足が原因で、多客の際に列車が犬伏駅付近の上り坂で頻繁に立ち往生したことから、地元では「急ぎゃ自転車、急がにゃ歩け、なおも急がにゃ汽車に乗れ。」と揶揄されていた。戦争中は不要不急線に指定されて1943年(昭和18年)11月より営業休止となったため、国鉄は代替に国鉄バス(当初は鍛冶屋原線、1946年(昭和21年)に穴吹駅まで延長されて阿波線となる)を運行した。戦後、1947年(昭和22年)に営業を再開したが、徳島バスの路線と競合する関係となった。また、鉄道の再開後も国鉄バス路線は引き続き営業した。自動車が普及する以前から乗車率が低かったため、全国屈指の赤字ローカル線として有名な存在だった。国鉄は1961年(昭和36年)ごろに板野・鍛冶屋原間の国鉄バスの運行を休止し、鉄道に一本化することで効率化を図った。しかし状況は改善されず、列車の本数を1968年(昭和43年)10月1日国鉄ダイヤ改正で3往復削減(改正後は1日13往復)、その後も削減が続いた。


 国鉄側は1971年(昭和46年)8月までに鍛冶屋原線を廃線にして、線路敷を道路へ転換するよう沿線市町村に働きかけたが、上板町長が鍛冶屋原線廃止反対期成同盟を結成して抵抗。廃止時期は同年11月へ延期された後にさらに延期が行われ、最終的に1972年(昭和47年)1月に廃止された。赤字83線に指定され、実際に廃止された数少ない路線の一つである。廃線跡の大半は県道鳴門池田線に転用されている。


 なお「鍛冶屋」の漢字が難しいため、沿線の商店のチラシなどでは「かじや原線」「カジヤ原線」など、ひらがなやカタカナで表記することも多かった。


 元々の計画では穴吹まで敷設する予定であり、阿波電気軌道時代の1919年(大正8年)に鍛冶屋原から市場町までの12.1kmの延伸免許を取得していたが、国有化前の1929年(昭和4年)に失効している。


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