あいつの空似
ころっぷ
あいつの空似
1
またあいつの空似を見た。今年すでに3人目だ。
いくら何でも多過ぎる。
カウンターで瓶ビールなんか飲んでやがる。
私に何か言いたい事があるのなら、直接おまえが来いと思った。
じっとその横顔を睨んでいたら、
視線に気が付いたその空似は気まずそうに背中を丸めた。
それを見てまた訳も無く腹を立ててしまう。
その空似にしてみれば本当にとばっちりだったろう。
少し気の毒になって店を出た。
2月の北風が頬を刺し、コートの襟を立てて足早に駅へと向かう。
あいつと最後に会ったのはいつだっただろうか。
10年は優に過ぎているだろう。共通の友人伝手に突然絶縁を告げられた。
理由も教えてくれなかった。
あれは一体何だったんだろうか。最近になってよく思い出す。
33歳で遂に嫁入りの私の、
奇妙なマリッジブルーはどこか恰好が付かない体たらくだ。
あいつと私はバイト先で出会った。
そう、大学2年の時だからもう13年前になる。
私は大学でデザインの勉強をしていた。
あいつは1歳年下のフリーターだった。
バイト先は実家近くのレンタルビデオ店。
映画が好きな私はアルバイト先は映画館かレンタルビデオ店と決めていた。
そして大学を出たら上京してデザイン事務所に就職し、
映画のチラシやパンフレットを作るのが夢だった。
あの頃の私はこの次はあれ、その次はこれという具合に前ばっかり見ていた様な気がする。
順番に踏み出す右と左の足は軽やかで、もつれたりする事なんかなかったのに。
時の経過は頭の中に塵を積もらせる。
忙しさでバタバタするとその塵が舞い上がって視界が濁ってしまう。
どの曲がり角で道を間違えたのだろう。
標識の案内通りに進んで来たつもりだったのに。
あいつは確か私が働き出して3か月位のタイミングで店に入ってきたのだったと思う。
背がひょろっと高くて、やけに猫背で、前髪が鬱陶しくて、声が小さい。
つまりはパッとしない奴だったのだ。
若者ばかりの職場だったので、
新人が入るといちいち歓迎会と称した飲み会をする。
いい加減ウンザリだったが、まだ職場で浮くわけにもいかず渋々その日も安居酒屋の座敷に腰を据えていた。
名目上とは言え、その日の主役のはずのあいつは有ろう事か遅刻してきやがった。
それでも何の過不足も無い様に退屈な飲み会は宴もたけなわな雰囲気になっていた。
ボサボサの頭をポリポリしながらあいつは座敷の隅に突っ立っていた。
誰一人それに気が付かない。
私は何故だかその一連の流れが気持ち悪くて、
唐突に立ち上がって大声を張り上げた。
「はい!只今本日の主役が到着しました!今後の抱負など一言挨拶お願いします!」
15人ばかりいたバイトのメンバーが一瞬静まり返った。
15人分30個の眼球が一斉に突っ立っているあいつに向けられる。
「あ、えーと、宜しくお願いします」
あいつは本当に一言だけ、そう言った。
まばらな拍手だけで座敷の賑わいは直ぐに元通りになった。
私は尚も突っ立っているあいつに手招きして隣に座らせ、
ひたすら瓶ビールを注ぎ続けたのだ。
その日以来あいつは私に懐いた。
気持ちの良い位に不愛想で全く接客に向かない奴だったが、
仕事の覚えは異常に早くて驚いた。
私は小さい頃から変な奴に興味を抱く質だった。
幼稚園の時は朝からずっと蟻の巣を見続けていた変わり者の男の子に結局卒園するまで添い遂げた。
中学生の時は屋上で毎日オペラを歌う女の子の観客になった。
高校2年の時に生まれて初めて出来た彼氏は道端の雑草を天ぷらにして食べるのが趣味の男の子だった。
あのレンタルビデオ店で、唯一興味を引く変わり者はあいつだけだった。
ヨレヨレのバンドTシャツに革パンといういつも同じ服装。
一年中サンダルを地面にザリザリ擦りながら歩く。
普段は必要最低限の言葉すら吐かないのに、酒を飲むと話が止まらない。
大きな夢ばかり語って、一歩も踏み出そうとしない奴だった。
「あんた、それで何になりたいの?」
私はいつかあいつに真剣な顔で聞いた事がある。
「俺は、なるべくしてなるようになる」
あいつはこんな事を本気で言う奴だった。
私の変人好き人生に於ける、当時暫定一位の称号も妥当だったと思う。
あいつの顔は爬虫類みたいで、でもちょっと魚っぽくて、鳥の様でもあり、
何だか形容し難い顔だった。
ある時はトルコの笛吹き少年の様だなと思ったり、
ある時は森の賢者の様だと感じたり。
捉えどころも掴み所も無くて、何か無責任な顔だなと思っていた。
よくいる顔だと言えばそうだし、あんな顔は他にはいないとも言える。
それでもあいつの空似は現に私の前に頻繁に現れた。
あいつは写真に撮られるのが嫌いだったので、
まともな顔で写っているのが一枚も無い。
それでも街ですれ違えば見間違う事は無いだろう。
何であいつはこんなにも自分の空似を私に放つのだろうか。
2
その日は昼過ぎから寒さのギアが一段階上がって耐え難いものになっていた。
私は結婚相手と2か月後に控える式の打合せで恵比寿に来ていた。
僅かな距離を歩くにも気持ちが萎えてしまう寒さで、
暖を取る為に逃げ込んでいたカフェの席から中々立てないでいた。
フードの周りにシベリアンハスキーを丸々一頭縫い付けた様なコートを着た将来の夫は、思った事を全て言葉にして吐き出さないと気が済まない様な饒舌家だった。
彼の独演が興に乗ると、それはまるで壊れた洗濯機の様なやかましさで、
この時も結婚式場の飾り付けや、料理や、音楽や、招待客の事などを倍速映像の様に私の眼前で捲し立てていた。
私はそれを遠くの雷鳴の様に聞き流しながら、
カフェの大きな窓から通りを行き交う人の群を眺めていた。
私は大学を卒業後上京したが、結局デザイン事務所に就職は出来ず、
映画のパンフレットも作っていない。
建材メーカーの事務職に収まり、幾つかのありふれた恋愛を経てこの男との結婚を決めた。
年齢的な焦りも無かった訳では無いが、このまま独りで生きていくのも悪く無いと思っていたタイミングで唐突にプロポーズを受けた。
この男はその時も結婚の決意に至るまでを2時間も語り尽くしやがった。
私は自分と他人との隙間が、何にせよ満たされていくのは幸せな事と考えていた。
この人と一緒に暮らすのであれば、隙間を満たすのはこの泡の様な言葉達になるのだろう。その全てを受け入れたり、覚えていようなどとは最初から思わない。
大事なのは泡が満たすその隙間に、冷たい風を吹かせない様にする事だ。
私の体感温度は彼のそれとは多分違うだろう。
それでも熱ければ冷まし、冷たければ温めれば良い。
私は目の前のよく動く将来の夫の顎骨に感心しながら、
取り留めも無くそんな事を考えていた。
「あっ!」
思わず声が出てしまった。
店の前の通りをあいつの空似が歩いているのを見つけたのだ。
駅の方から寒そうに肩を強張らせ歩いてくる。
私の目の前を通り過ぎる瞬間、確かにその空似は私の方を見た。
しかし目が合っても直ぐに前に向き直り、足早に歩き去っていった。
「どうした?話聞いてる?」
将来の夫が私の視線を追って窓の外を見た。
「うん、聞いてるよ。知り合いかと思ったら全然違った。よくいる顔なんだよね」
私はあいつの空似を見る度に本当はあいつ本人なんじゃないかと思ってしまう。
でも次の瞬間にはそんな訳は無いと冷静に考える。
あいつと最後に会ったのはもう10年以上前で、あいつもそれなりに歳を取っているはずだ。10年前の姿のままの訳が無い。
本当に今、あいつがこの通りを横切ったりしたら、私はかえって気が付かないかも知れない。
私があいつを呼んでいるのだろうか。
私はあいつに会いたいのだろうか。自分でもよく分からなかった。
長い人生の中でほんの一瞬関わりがあっただけの人間。
付き合ってもいないし、好きだった訳でも無い。
犬の様に懐いてきて、猫の様にフラフラしていたあいつ。
マリッジブルーにしても、もう少し納得のいくやつに陥りたかった。
最近の私はソワソワと落ち着きが無く、妙にイライラしていた。
あの時の意味の分からないあいつからの絶縁に原因がある様な気がする。
忘れていた様でいてやっぱり心に引っ掛かっているんだ。
私はこの機会に一点の曇り無き前進の為、長年の疑問に終止符を打つ決意をした。
3
弟の運転するランドクルーザーが駅のロータリーに勢いよく入ってきた。
父が20代の頃から大切に乗ってきた年代物の車だ。
突き出たボンネットに円らな丸ライト。
無骨な四角い車体のランドクルーザー40系は父の宝物だった。
父が我が子の様に大切にしていたこの車を弟に譲ってしまう理由については、
大長編小説5冊分位の紆余曲折の物語がある。
そこには家族の歴史と父の運命の皮肉が凝縮されており、
とても一言では言い表せないのだが、敢えて簡単に言ってしまうと、
父が視力を失ってしまったからだった。
父の目は緩やなスピードでその機能を失っていった。
私が小学生の頃に病を発症し、中学生の頃に色を失った。
その後手術の甲斐も無く、私が高校に入った年に父は光を失ってしまった。
しかし父の凄い所は、来るべき未来への準備を怠らなかった事だ。
まだ目が見える内に、住んでいた街の地形を記憶した。
実際に目隠しをして杖を突き、点字ブロックを頼りに街中を歩き尽くした。
曲がり角の注意点、勾配の具合、そこから聞こえるあらゆる音に耳を澄ました。
何度も転んで怪我をしたし、車に轢かれそうになった事も1度や2度ではなかった。
その想像を絶する努力の結果、父は今も不自由の無い生活を送っている様に見える。一緒に歩いていると、私の方が不注意で物にぶつかったり転んだりする。
私が大学3年の時、母が心筋梗塞で呆気無く逝ってしまった時も父は言っていた。
「目に見えないからといって無くなってしまった訳じゃない。注意をして感じれば、ずっとそこにあるんだよ」
私はそんな父のこれからの人生に寄り添いたくて、実家に同居してくれる結婚相手を探していたのだ。
饒舌家の将来の夫は小説家で、お喋りな所を除けば私の希望の条件にピッタリの物件だった。
何より彼は父ととても仲良くなってくれた。
私は多くを望まない様な顔をしていながら、とても贅沢な条件を世界に突き付ける。そしてとても恵まれている事に自分でも驚いてしまう。
それはたまに怖くなってしまう位に。
「姐御、いつまでこっちにいるの?もう仕事は辞めたんだっけ?」
弟は私を姐御と呼ぶ。極道の様な呼び名は止めろと何度言っても聞かない。
「まだ辞めてないよ。ぎりぎり迄仕事の引き継ぎがあるから。取り敢えず明後日までこっちにいて部屋片付けようと思って」
私は久し振りに乗るランドクルーザーのシートを指でなぞりながら言った。
ギアに癖があるからと、父は私が免許を取ってもこの車の運転はさせてくれなかった。
その車を難無く操る弟の仕草は、どこか昔の父を思い出させた。
弟は実家から程近い山間の集落で独り暮らしをしている。
大学を出て直ぐに林業の道に入り、今ではベテランの木こりだった。
小さい頃はいつも私の後ろに隠れていて気の弱かった弟が、
いつの間にか屈強なマッチョになっている。
時間の流れはいつだって冗談の様だ。
「お父さんは?相変わらず?」
私は手回しのハンドルで助手席の窓を開け、外の空気を大きく吸い込みながら言った。
高校時代に毎日自転車で渡っていた橋をランドクルーザーは一瞬で過ぎていく。
「ああ、変わらないよ。毎日図書館まで歩いて行って点字の本を読んで、いつも同じ喫茶店で昼飯を食べて、帰って来て古いレコードを聴きながら手挽きのコーヒーを入れて飲む。あの人こそルーティンというものの概念そのものだよ」
弟はまめに実家に顔を出してくれている。
本当は実家から通えばいい位の距離の職場だったのだが、
父が弟に独立を促した。男児には自分で城を建てさせる。
何の本から拾ってきた言葉かは分からないが、
父はたまに真剣な顔でそんな古風な事を言ったりする。
私が大学を卒業して東京に行く時も、弟が林業の道を歩み出した時も、
父は躊躇なく私達を自分から引き離した。
私達に出て行き辛いなんて空気を微塵も感じさせない様に、
父は自分の生活にしっかりと根を張っていた。
「ところでさ、電話で言ってた俺の同級生の奴、友達にちょっと聞いて見たんだよ」
弟が器用にハンドルを捌きながら言った。私は実家に帰るから駅まで迎えに来いと弟に電話した時に、ついでにあいつの事を聞いていた。
あいつと弟は高校の同級生だった。
「何かさ、余り人付き合いの良い奴じゃなかったからさ、誰も知らないんだよ。姐御が東京行って直ぐにあのレンタルビデオ屋は潰れただろ?だからどっかの会社に就職したらしいんだけど、今はどこで何してるのか知ってる奴がいないんだよ」
弟は掛けていたレイバンのサングラスをおでこに乗せて煙草に火を点けた。
「そっか。そうだよね。大分昔の事だしね」
「あっ、姐御オメデタじゃないよな?煙草、吸って大丈夫?」
弟のこういうちょっと間抜けな所が嫌いでは無い。
私は窓の外の景色にいちいち色んな思い出が付着しているのにさっきから思いを馳せていた。数か月後には私はまたこの街に住む事になる。
故郷を遠くに感じる事に慣れていたので、何だか不思議な気分だった。
薄く雪を被った遠くの山も、流れの緩やかな川も、
国道に立ち並ぶラブホテルすらも変わらないのに、この街にもう母はいない。
父は光を失い、あいつの消息も分からない。
時間は遠慮などせずに無作為にあらゆる物を奪っていく。
だから人は変わらない景色にホッとしたりするのかも知れない。
私は将来の夫とは真逆で思った事はそのまま心の中に置いておく。
その時もそんな事を取り留めも無く考えながら、助手席で静かに揺られていた。
4
父は台所でジャガイモの皮を剥いていた。
実家はいつも通り完璧に整理整頓されていた。
そこは一糸乱れない調和が支配する世界だった。
ありとあらゆる物が1ミリの狂いなく決められた場所に置かれている。
父が暗闇の中で日常生活をするには、物との距離が最重要事項だった。
何がどこにどの向きで置かれているのかを完璧に記憶し、
指先の感覚で形や温度や重さを確認する。
父は実に優雅にゆっくりと暗闇に手を伸ばす。
私はそれを見る度に、水族館で見た大きなクラゲを思い出す。
暗い水槽を漂うクラゲが、何かを探す様に揺らす長くて美しい触手。
「私もクラゲの様に毒針の沢山付いた触手で獲物を探しているんだよ。
油断させておいて一刺しで仕留めるんだ」
いつか私がつい言ってしまった言葉に、父は笑ってそう答えていた。
父はその日も指先の感覚だけで見事にジャガイモの芽まで綺麗に取り除いていた。
父は病気が分かって直ぐに勤めていた銀行を退職した。
手厚い退職金と障害年金の御蔭で生活に困る事は無かった。
母が亡くなった時には、白杖を付いて見事に喪主を勤め上げた。
一人で何でも出来る父にとって私達との同居は必要無いのかも知れない。
寧ろ実家に戻る口実に利用しているのは私の方だった。
東京での生活には大分前から行き詰りを感じていた。
饒舌家の将来の夫にプロポーズをされた時、不意に口を付いて出て来たのが私の実家での父との同居という条件だった。
私は時に自分でも驚く様な残酷な事をする。
そうしておいて身勝手な罪悪感を引きずったりもする。
それでも尚世界は優しい。
こんな私に何の咎めも与えない。
「手をよく洗って、先にビールでも飲んでなさい」
父が台所から声を掛けてきた。
今日はきっと私の大好物の挽肉たっぷりのコロッケだろう。
私はふざけてしめしめという顔をしてお道化たが、
直ぐに父には見えないのだという事を思い出す。
弟が早速瓶ビールを持ってきて2つのグラスに注ぐ。
父は母が亡くなった日から一滴もお酒を飲まなかった。
母が心筋梗塞で倒れた日、それは父の50歳の誕生日で、
2人は赤ワインのボトルを空けていた。
父が酔って眠ってしまっていた間に母は台所で倒れた。
父は目を覚ました時、家の中で何か異変が起きた事には直ぐに気が付いたが、
暗闇の中で迅速に母を助ける事は不可能だった。
その日私は呑気にレンタルビデオ店のバイトに行っていたし、
弟は大学の仲間と飲みに行っていた。
残された3人はそれぞれの後悔をずっと胸に抱いてきた。
そしてそれは色んな形で人生に影を落としてきた。
だがその中でも父は暗闇に手を伸ばし続けてきた。
全ては過ぎた事で、時計の針は止まったり戻ったりはしない。
私はもう直ぐ結婚し、身に馴染んだ名前を変え、
もしかしたら母親にだってなるのかも知れない。
こうしてこの瞬間、実家の居間で弟と瓶ビールを飲んでいられる事が何だか凄く貴重な事の様に感じた。
「はい、お待たせ。コロッケときんぴら蓮根作ったよ」
父が大皿をテーブルに並べた。
「おお、旨そう」
弟がコロッケを手掴みで頬張った。
父には弟が洗面所で手を洗わず、箸も使わず、
揚げたてのコロッケに噛り付いたのが音だけで分かる。
そうやって私と同じ気持ちにちゃんとなって笑っている。
本当に凄い人だと私は思った。
「ねえ、お父さん。最近も夢を見る?」
私は少し酔いが回り、会う度に繰り返し父に聞く話を切り出した。
「姐御はいつもそれ聞くよな」
弟にさえ耳タコの話。
「ああ、見るよ。総天然色のドルビーサラウンドでね」
当たり前のことだが、夢の中では父は世界を見る事が出来る。
ある時不意に父がその日に見た夢の話をし出して私は虚を衝かれてしまったのだ。
父は死ぬまで何も見る事が出来ないのだと勝手に決めつけていた。
でも目を閉じれば良いだけの事だったのだ。
色鮮やかな景色も、皆の顔も、父の記憶が眠りの中で見せてくれる。
私は余りの衝撃だったのでその話を将来の夫にした。
彼は突然席を立ってトイレで静かに涙を流していた。
思えばその時に私はこの男と結婚してもいいなと思ったのだった。
「やっぱり一番は母さんとあの車で行った北海道の時の夢だね。あの空の青さと広さは瞼の裏に焼き付いてるよ。地平線まで真っ直ぐ伸びた道の両脇にラベンダーが敷き詰められていてさ、その中をランドクルーザーで走り抜ける感触は忘れられない」
父は目を閉じて遠くの記憶の景色を見ていた。
若い2人はきっと翳りの無い笑顔で見つめ合っているのだろう。
私はそんな美しい世界を未だ嘗て見た事が無いと思った。
弟がソファで鼾を掻き始めてしまうと、
私は父がかけてくれた古いレコードを聴きながら食器を片付けた。
こうやってこれから私が家事を担う事で、父は楽が出来るのだろうか。
正直よく分からなかった。
結婚してこの家に夫と同居したいと言った時、父は何も反対しなかった。
「そうか。それは賑やかになるな」
と一言だけ。その本心は分からない。
今は不自由が無くてももっと歳を取ればそうも行かなくなるかも知れない。
困った事があれば助けてあげられるかも知れない。
私は前に進む為の理由をいつも人より多く必要とする人間だ。
そうすれば誰かの目からどうにか逃れられる様な気がしていた。
一体誰から逃げているんだろうと思った時、
ふとあいつの空似の事を思い出した。
5
次の日は朝から実家の2階を片付けた。
私と弟の年代物のガラクタを分別して処分し、新婚夫婦の居住スペースを確保した。来週には弟の後輩の大工が来て、リフォーム工事が始まる。
2つの子供部屋をぶち抜いてリビングにしてしまう。
それでも他に部屋が2つ余るので、それぞれ夫婦の寝室と夫の書斎にする。
新たな生活の準備は着々と進んでいた。
そうして今回の帰省のもう一つの目的に取り掛かろうと思った。
あいつが今どこで何をしているのか問題だ。
まさかそんな事を私が今問題にしているとはあいつも思っていないだろう。
だが次々と私の周りに空似を放っておいて今更怖気づいても遅い。
風変りなマリッジブルーは寧ろ私らしいじゃないかと既に開き直ってしまっていた。あいつに繋がる唯一と思われる糸が、10年前にあいつからの絶縁を私に伝えてくれた共通の友人だ。
そのレンタルビデオ店で一緒に働いていた友人に、
これも8年振り位に連絡をしてみた。
彼女は隣町の進学塾で英語の講師をしていた。
久し振りの連絡にもとても喜んでくれた。
そんな彼女は疎遠になっていた間に結婚と離婚を2回経験し、
小学生の男の子を育てていた。
時の流れには本当に驚く事ばかりだ。
あいつの消息について聞くだけと思っていたのだったが、
つい話が盛り上がってしまいその日の夜に会う事になった。
私は約束の時間にはまだかなり早かったが、ゆっくり歩いて街の景色を見てみようと思い家を出た。
緩やかな下り坂を突き当りまで歩くと、
近所の子供達の遊び場だったお寺がある。
私もよく墓石の間を駆け回り住職に怒られた。
左に折れて少し行った先にある、今は潰れてしまった小さな駄菓子屋ではよく弟と買い食いをした。
その日の夕食がどうしても食べきれずに、買い食いした事がバレて母に叱られた。
その道は街の大通りにぶつかるので、そこを右に折れると父が20年間務めた銀行がある。
小さい頃は母と一緒に買い物のついでで銀行に寄ったりすると、
カウンターの奥の方で働いている父をずっと眺めていた。
家にいる時の父とはどこか別人に見えた。
弟が自転車で転んで手首を折った交差点。
母がパートに出ていたスーパーマーケット。
私が初めての彼氏とタイタニックを観た映画館。
そして今は洒落たカフェになっているあいつと出会ったレンタルビデオ店。
この街には私と家族の思い出が染み付いている。
それは目を閉じても浮かんでくる様な景色だった。
父はこの街にもっと沢山の思い出を持っているのだろう。
私は友人と会う約束をした駅前の居酒屋に着いた時、
自分が泣いている事にやっと気が付いた。
いよいよこれは重度のマリッジブルーなのかと少しふざけて考えてみた。
が、涙が止まらなくて困ってしまった。
油断すると声が出てしまいそうだった。
肩の震えも人が見たら変に思われてしまうだろう。
私は母が火葬場で荼毘に付される時も泣かなかったのに。
その時突然、忘れていた事を思い出した。
何でこんな事忘れていたんだろう。
小雨がチラつく火葬場の駐車場で、傘も差さずに突っ立っていたあいつを見たんだ。いつもヨレヨレのバンドTシャツと革パン姿だったあいつがパリっとした黒のスーツを着ていた。
余りに意外な光景だったので、あいつは何をしているんだろうと思ってから、
直ぐに母の見送りに来てくれたんだと気が付いた。
私はあいつに歩み寄ろうと思って足を踏み出した瞬間、
あいつが肩を震わして激しく涙を流している事に気が付いて止まってしまった。
何故か強いショックを受けて、頭をハンマーで殴られた様な気がした。
私は事あるごとにあいつを呼び出して、下らない話を肴に酒を飲み交わしていた。
でもあいつの事は殆ど何も知らなかった。
どんな家庭で育って、どんな事が好きで、何を夢見ていた奴だったのか。
私はその時、初めて剥き出しの感情に対峙して戸惑ってしまったんだ。
気丈に喪主を務めていた父と、放心状態の私と、
どこか不貞腐れた様だった弟の中で、
無心で悲しみを表現していたのはあいつだけだった。
私は居酒屋の看板にもたれ掛かる様にして尚も泣いてしまった。
こんなに悲しい気持ちは生まれて初めてだった。
6
「あいつはアンゴラにいると思う」
友人は尋常でないハイペースでレモンサワーの杯を空けながらそう言った。
その昔は細腕のか弱い女子大生だった彼女も、
2度の結婚と離婚を経て最強になっていた。
居酒屋の店先で泣き崩れていた私を抱きかかえ、
2階の座敷に落ち着かせると何も聞かずにあれこれと世話を焼いてくれた。
学生時代の他愛の無い話で場を盛り上げて、
小学生の男の子の写真を見せて和ませてくれた。
そして一通りお互いの疎遠時代の物語を語り合った最後にあいつの事を聞いてみたのだった。
「最初は何かのボランティアをやるって言って東京に行ったんだよ。私らが大学卒業して、ほら、あんたが東京行って暫くした位の時に」
友人は遠い記憶を手繰り寄せる様に目を細めた。
「私はあいつに気持ちを伝えろってしつこく言ったんだよ。何かまどろっこしくなっちゃって」
友人はレモンサワーのお替りのついでの様にそう言った。
「えっ!ちょっ、ちょっと何の事!?」
私は友人が何を言っているのか本当に分からなかった。
「え?だからあんたに好きだって事をちゃんと伝えろって」
私は持っていた箸を落とし硬直してしまった。
「えっ?まさかあんたあいつの気持ちに気が付かなかったの?嘘でしょ?あんなにあからさまだったじゃん。えっ、嘘でしょ?ねえ」
友人は心底私という人間に驚いていた。
「でも、最後のあの絶縁宣言は何だったの?ほら、電話であんたが伝えてくれた」
私は激しく動揺していたが、何とか正気を保っていた。
「いや、だからあんたが東京行って、あいつも追い掛ける様に東京行って、暫くして帰って来たのよ、あいつ。そしたら私からあんたに電話して欲しいって頼まれて、それで何を伝えるのって聞いたらぁ、もう2度とあんたとは会えないって。理由は言えないって。そう言ってくれって。だから私はてっきり東京であんたにフラれたか何かしたのかなって思って」
私はあいつの気持ちに本当に気付かなかった。
いつも無表情で何が楽しくて生きているんだろうかこいつはと思っていた。
バイトの愚痴や大学のつまらなさや、東京に言ってデザインで食べていくという夢の話をいつもあいつにぶつけていた。
あいつは大概黙ってそれを聞きながら、一緒にお酒を飲んでくれていた。
有ろう事か過去の男の悪口や、その時ちょっと憧れていた男の話なんかもしてしまっていた。
私はやっぱり残酷な人間だ。
自分勝手な奴だ。
「それで、あいつの従妹だか何だかっていう女の子と偶然職場で出会ったのよ。その数年後にね。それで聞いた話が、あいつはアンゴラで地雷撤去のボランティア団体に参加してるって」
友人は私の思案顔など無視する事に決めたらしい。
次々と厳しいコースに球を放ってくる。
「地雷?それボランティアが手を出していい案件なの?」
私は自分1人が人生の過渡期にいると思い込んでいた。
つくづく世間知らずだった。
あいつがアンゴラで地雷を撤去している間に、
私は一つでも何か成し得ただろうか。
東京に帰って将来の夫にこの話をしたら彼は何を思うのだろうか。
私こそ何も見えていなかった。
色んな人を巻き込みながら、
触手の先に触れたものを私は理解する事が出来ていなかった。
7
引っ越し業者のトラックが緩やかな坂道を下って角を曲がってしまうと、
弟と夫は早速瓶ビールで乾杯していた。
こうして2人分の荷物が増えた実家を眺めていると、
ほんの数日前の豪勢な結婚式は夢だったんじゃないかと思える。
父は式であの日以来のお酒を口にした。
静かに目を閉じて、円卓の右隣にあえて設けた空席に何か語り掛けている様だった。きっと母と一緒に私の晴れ姿を見ていたのだと思う。
私の父への手紙に一番号泣していたのは、
マッチョな木こりの弟だったけれど。
あれから暫くあいつの空似を見ていない。
もしかしたら夫の招待客の中に紛れ込んでいるかも知れないと密かに思っていたけど。
多分私の手紙が届いたのだと思う。
そう、私はあいつに手紙を書いた。
アンゴラの国際協力隊というボランティア団体に宛てて国際便を送り付けた。
自分でも意外な程の長文だった。
色んな事を書いた。あの懐かしい日々の事。レンタルビデオ店での思い出。
よくお酒を飲んで話した映画や音楽の事。
この街の変わった事と変わっていない事。東京に出てからの私の物語。
作家の夫の事。
手紙は一篇の小説の様になった。
返事は要らないとも書いた。
何せ絶縁宣言を受けた身だから。
でも一番伝えたい事を最後にしっかりと書けたので、
私はこの手紙がどうか無事にあいつの所に届いて欲しいと心から願った。
~それから最後に。
あの日私の分まで思いっきり泣いてくれて本当にありがとう。
小雨に濡れて、風に吹かれ、肩を震わせて立っていたあなたが、
私を救ってくれました。
どうか元気で。それからあなたの空似はもう私には必要ありません。
私はもう大丈夫。今まで見守ってくれて本当にありがとう~
完
あいつの空似 ころっぷ @korrop
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