終章

冥府官吏、篁(1)

 雪が降っていた。

 まだ積もるほどではないが、時間が経てば積もる可能性も考えられるような雪だった。

 内裏内に集まった殿上人以上の者たちが何やら囁き合っていた。

 彼らは顔を合わせれば噂話に花を咲かせる人種である。

 扇子や笏などで口元を隠しながら囁き合うその姿は、なんとも滑稽に見えた。


「――もう三日目であるぞ」

「そうなのじゃ。三日も経つのじゃ」

「さすがにそれは――」

けがれかもしれぬな」


 内裏にある殿舎で囁き合う者たちを尻目に、藤原良房は帝のいる清涼殿せいりょうでんへと向かっていた。この時の良房は右大臣正二位の地位にあり、妹である順子が時の帝である文徳天皇の母親であることから、帝より絶大な信頼を受けていた。


「参議左大弁従四位上、小野朝臣篁が病に臥せっておると聞いているが――」

「はい。篁の家人によれば起き上がれぬほどの病とか」

「そうか。心配じゃのう」


 小野篁が病に倒れたのは、参議となった二年後のことだった。

 原因不明の病であり、篁は屋敷の門を閉ざしたまま、参朝しなくなっていた。

 当時の病とは、けがれとされており、穢れを持ったままの者が神聖な内裏に足を踏み入れることなどはもってのほかのことであるとされていた。

 帝は篁のことを心配し、病の原因などを調べさせたりしたが、篁の病は一向に良くなる気配を見せることはなかった。


「――聞いたか」

「何の話じゃ」

「野狂殿のことじゃ」

「野狂殿か」

「知っておるぞ、病に臥せっておるとか」

「そうではない。夜な夜な羅城門から洛外へ出かけていく姿が目撃されておるのじゃ」

「なんと。それはまことか」

「ああ。わしの妹の旦那の家の家人の娘が仕えておる屋敷の主人の従者がみたらしいのだ」

「なんじゃ、そのややこしい話は」

「まあ、誰が見た話でも良いではないか。それよりも、野狂殿じゃ」

「野狂殿は、洛外へ行って何をしておるのだ」

「六道辻の方へと歩いていったそうじゃぞ」

「なんと、六道辻というと現世とあの世の境目と言われる場所ではないか。そのようなところで何をしておるというのだ」

「なんでも廃墟の中を覗き込んでおったとか」

「わしの聞いた話では、井戸の中を覗き込んでおったらしいぞ」

「それは、まことか」

「まことじゃ」

「まことじゃ」


 その噂は、帝の耳にまで届いていた。

 帝は右大臣兼右近衛大将である藤原良房に命じて、検非違使などを使ってその噂の出元を調べさせたりしたが、誰も小野篁を夜中に見たと名乗り出る者はおらず、それはただの噂話に過ぎないという判断がくだされることとなった。

 ただ、噂話はたち消えたものの、小野篁の病状は一向に良くはならなかった。

 篁の回復を願った帝は、篁を従三位に任ずる詔を出し、篁は在宅のまま参議左大弁従三位の地位に就いた。


※ ※ ※ ※


 雪がしんしんと降っていた。

 内裏から見て裏鬼門の方角に位置する小野篁の屋敷の前には、一台の立派な牛車が止まっている。

 しかし、誰もその牛車がいつやって来たのかはわからなかった。

 篁の屋敷の門は音もなく開かれ、妙な灯りが屋敷の中に入っていった。


「おい、篁」


 地響きのような低い声で呼びかけられ、篁は目を開けた。

 そこには天井に頭が着きそうなほどに大きな男が立っていた。

 篁はすぐ脇に置いてあった太刀へと手を伸ばそうとする。


「寝ぼけておるのか、われじゃ」


 その言葉に篁は手を止めて、男の顔をまじまじと見た。

 懐かしい顔がそこにはあった。冥府の羅刹。名はラジョウ。羅城門にいた鬼だったから、ラジョウ。篁がつけた名だった。


「おお、ラジョウか。どうした」

「どうしたではない。お前を迎えに来たのだ」

「篁様、冥府にて閻魔大王がお待ちです」


 ラジョウの後ろから着物姿の女が顔を見せた。美しい顔立ちをした女だった。


「花か」

「はい。篁様の武芸、お見事でした。さあ、行きましょう、篁様」

「すまぬ、私は動けぬ」

「何を言っておりますか。立てますよ。ほら」


 そう言われ篁は、花に手を引かれると床から起き上がることができた。

 体は病に蝕まれていたはずだ。不思議なことに体の奥底から力が湧き上がってくるような感覚があった。


「よし。篁よ、行くぞ」


 立ち上がった篁の背中をラジョウが押してくる。

 屋敷を出ると、目の前に牛車が止まっていた。青白い炎に照らされた不気味な牛車だった。


「さあ、冥府へ参りましょう。閻魔大王がお待ちです」


 少し疲れたな。牛車に乗り込んだ篁は、そっと目を閉じた。

 冥府についたら、起こしてくれ。そう花に告げた。

 こんなになってまで、閻魔は私のことをこき使おうというのか。篁はそう思いながらも、口元には笑みを浮かべていた。

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