冥府官吏、篁(2)
背の大きな男だった。赤ら顔で顔の下半分を覆うように髭を蓄えている。格好は唐服であり、冠もあまり見たことのない物をつけていた。
「名を申せ」
赤ら顔の男はその黄色く濁った大きな目玉でギロリと睨みつけると、地響きのような低い声で言った。
「わ、私は藤原
良相は怯えた声でそう言うと、深々と頭をさげた。
藤原良相は信心深い人であった。仏教、特に真言を深く学んでおり、普段より獣の肉は食さず、粗食を心掛けていたため、痩せ細った身体をしている。朝廷での役職は右大臣であった。兄は太政大臣の藤原良房である。
「どうしたものかのう」
良相のことをじっと見ながら唐服の男がつぶやくと、目を手元にある冊子へと落とす。
分厚い冊子を何枚か捲り、黄色く濁った目玉をギョロギョロと動かし、時おり首を傾げてみせたりする。
その様子を見ていた、他の唐服を着た者が慌てて赤ら顔の大男に近づき、何やら小声で話している。
どこか様子がおかしい。
良相はそんなことを思いながら、その様子を見守っていた。
すると、奥からまた別の人物がやってきた。その男は赤ら顔の大男ほどではないが、背が高い偉丈夫だった。また、その男だけは格好が違っていた。唐服ではなく、黒の束帯に烏帽子という良相にも見慣れた姿なのだ。
その男は、はっきりとした声で他の者たちに指示をしており、赤ら顔の大男にも何やら言葉を掛けている。
どこかで聞き覚えのある声だ。良相はそう思い、恐る恐るその男の顔をじっと見つめた。
その男の顔を見た時、良相は息を呑んだ。
知っている顔だった。
「まさか、そんな……」
良相は思わず声を出してしまった。
見間違うわけがなかった。
そこにいるのは、間違いなく小野篁であった。篁は、良相の兄である良房の友であり、良相も内裏や大内裏で顔を合わせれば、言葉を交わすような仲であった。
なぜ、ここに篁がいるのだ。
良相は何が何だかわからなくなり、狼狽した。
篁は、数年前に没したはずだった。
これは夢なのだろうか。良相は目の前にあるのが現実なのかどうなのかわからなくなっていた。
「閻魔大王、この者はまだこちらに来るべき人間では無いようですぞ。台帳のどこにも藤原良相の名はありませぬ。何かの手違いだったのではないでしょうか」
「ふむ……。確かに、どこに名は無いな」
「そうでしょう。この者を早く現世に返さねばなりませぬぞ」
「わかった。では、現世へ送り返そう。羅刹よ、その者を現世へ返せ」
赤ら顔の大男がそう命じると、良相の両脇にいた馬頭と牛頭の筋骨隆々な二名が近づいてきて、腕を掴み上げた。
「あ、あなやっ!」
良相はふたりに軽々と持ち上げられると、開けられた門扉の向こう側へと投げ飛ばされる。
その先は闇であり、何も見えなかった。
良相の身体はその闇の中へと吸い込まれるように消えていった。
しばらくして目を開けると、見覚えのある天井が広がっていた。
「ここは……」
良相は乾いた唇を動かして呟く。
そこは間違いなく、自分の屋敷だった。良相は一畳だけ敷かれた畳の上に寝かされており、体の上には着物が掛けられていた。
少し離れたところからは僧による読経が聞こえてきており、香が焚かれていた。
良相は起き上がると、自分の周りを囲っていた御簾を開けて顔を覗かせた。
「何事じゃ」
そう良相が読経をあげる顔見知りの僧や、その周りにいる家の者たちに声を掛けると、皆が驚いた顔をして目を見開いた。
「あなやっ!」
僧が読経をやめて叫ぶと、家の者たちは大慌てで逃げ出す。
「落ち着かれよ」
良相の言葉に、家族や家人たちが涙を流しながら、良相に抱きついてくる。
どうやら、良相は死んだものと思われていたようだ。
「まだ、私は生きておるわ」
涙を流しながら手を合わせてくる家族や家人たちに、良相は苦笑いを浮かべる。
夢でも見ていたのだろうか。
それにしては、妙に現実的な夢であった。
あれは、間違いなく小野篁であったはずだ。
篁は、数年前に没している。最終官位は、参議左大弁従三位であった。
良相は、篁の葬儀にも参列したので、篁が亡くなっていることは確かだった。
では、あれは誰だったのか。
あれだけの偉丈夫である篁を誰かと見間違うわけがなかった。
いや、待て。あの場所は、どこだったのだ。
もしかすると、自分は一度死んでおり、冥府へ行っていたのではないだろうか。
信心深い良相は、冥府の存在を信じていた。
そうなると、あの赤ら顔の大男は、閻魔大王だというのだろうか。
小野篁は、死後も冥府で閻魔大王の補佐をしていたということなのだろうか。
ただ、篁には以前から奇妙な噂があった。
昼間は朝廷で参議として仕事をしているが、夜中は冥府で閻魔大王の補佐をしている、と。
まさかとは思うが、その噂は本当だったのか。
……と、いうことは、小野篁が自分のことを生き返らせてくれたということか。
良相は、篁に感謝をし、かつて篁の屋敷があった方角へと手を合わせて、真言を唱えるのだった。
SANGI ~参議篁~ 完
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