鬼姫と篁(2)

 雨が激しく体に打ち付けられていた。

 しかし、そのようなことを気にしてはいられなかった。

 目の前に立つ鬼姫と名乗ったあやかしは、手に大きな刃の太刀を握っているのだ。

 篁はゆっくりとした動作で腰を落とすと間合いを取り、腰に佩いている太刀の柄に手をかけた。

 以前まで篁が佩いていたのは、鬼切羅城という名の太刀だった。その太刀は閻魔大王から授けられたものであり、ラジョウという名の冥府の羅刹の力が宿っているものだった。しかし、その鬼切羅城は吉備真備との戦いで折れてしまい、その力を失っていた。いま、篁の腰にあるのは、参議となった際に帝から授けられた飾り刀であった。


「その太刀を抜かれよ、小野篁」


 鬼姫はそう言って再び笑みを浮かべる。妖艶な笑み。相手が鬼でなければ、その美しさに魅了されてしまうような笑みだった。

 これは罠なのだろうか。どういうつもりで鬼姫が太刀を抜けと言っているのか考えながら、篁は太刀の柄を握った。


「抜かぬのであれば、抜かせてやろう」


 そう言うと鬼姫は篁に斬り掛かってきた。篁は半身になってその一撃をかわすと、横に薙ぎ払ってきた鬼姫の二撃目を鞘に入ったままの太刀の鍔をぶつけるようにして受け止めた。

 ものすごい力だった。やはり、この鬼姫と名乗る者は人間ではない。篁は確信すると、足裏で鬼姫の膝裏を蹴りつけるようにして態勢を崩させると、再び間合いを取った。


「やるではないか、小野篁」


 地に膝をつきながら鬼姫が言う。

 篁は太刀の柄には手をかけ、いつでも太刀を抜ける状態に構えていた。


「なぜ、私を狙うのだ」


 率直な疑問を篁は口にした。あやかしに狙われる覚えなどなかった。いままで対峙してきた者たちとは、それなりの因縁があったが、目の前にいる鬼姫については何も知らないし、何の因縁も無かった。

 篁の疑問に鬼姫は答えること無く間合いを詰めてくると、その太刀を振り下ろしてくる。

 風が篁の顔のすぐ横を通り抜け、皮膚がぷつりと切れる感触があった。

 一方的に攻撃を受けるばかりでは勝てないことはわかっていた。しかし、篁には鬼姫と戦う理由がなかった。


「つまらぬ奴よ。がっかりさせるな、小野篁」

「待たれよ。私には、貴女と戦う理由がないのだ」

「戦う理由? そんなものは必要なかろう。さっさと、太刀を抜け」


 鬼姫のその言葉に、篁はふっと笑った。戦うのに理由は必要ない。そうか、そうなのか。篁の人生においてすべての戦いには理由があったはずだ。元服して間もなく、父である岑守みねもりに従い陸奥国で蝦夷えみしと戦っていた時も、平安京みやこに戻ってから羅城門で鬼を討伐した時も、飛騨国で両面宿儺と戦った時も。すべてにおいて、戦う理由はあったはずだ。


「理由が必要ならば、我が理由を作ってやろうか、小野篁」


 そういうと鬼姫は篁の心の臓を目掛けて突きを繰り出してきた。

 篁はその突きをギリギリのところで避ける。


「我はお前の心の臓を喰らいたいのじゃ。太刀を抜け、そして我と戦え。戦わなければ、我に喰われるぞ」


 そう鬼姫は言って次々と攻撃を仕掛けてきた。

 しかし、篁はどうしても太刀を抜く気になれなかった。それはなぜか。自分でもわからなかった。

 鬼姫の刃が篁の腕を斬りに来る。

 篁はそれを躱すが、やはり太刀を抜く気にはならない。


「なぜじゃ、なぜ抜かぬ、小野篁」

「よせ。貴女とは戦う気にならぬのだ」


 そう篁がいうと鬼姫は悲しげな顔をしてみせた。


「やはり、無駄であったか……」


 鬼姫は呟くような小さな声でいう。


「だから、言ったのだ。無理であると」

「わかっておる。しかし、どうしてもやりたかったのだ」

「もう諦めよ」

「いやじゃ、諦めとうない」

「面倒くさいやつよ……」


 鬼姫はひとりでぶつぶつと何かを話している。

 それは篁に対してではなく、篁には見えない別の誰かと話しているようだった。


「お前に力を貸すのはこれで最後だぞ」

「そうか。力を貸してくれるのか」

「ああ。最後だからな」

「わかっておる。我は小野篁と戦いたいだけなのじゃ」


 鬼姫は急に黙ったかと思うと、篁の方へと顔を向けた。

 雨の中に見えるその顔は、先ほどまでの鬼姫の顔とは別人のものとなっていた。

 その顔は篁もよく知る人物の顔だったのだ。


なのか?」

「はい。篁様にはご迷惑かと思いましたが、どうしても鬼姫がといって聞かないものですから」

「どういうことなのだ」

「鬼姫とわたしは一心同体。わたしは鬼であり、鬼姫はわたしであるのです。わたしは冥府の司命。閻魔大王に仕える者。その本当の姿は、冥府の羅刹に過ぎません。そして、それが先ほど篁様の前に姿を現した鬼姫なのです」


 花の説明を聞いても、篁にはさっぱり理解ができなかった。ただわかったことは、花と鬼姫が同一人物であるということくらいだった。


「して、花はどうしようというのだ」

「わたしと鬼姫の願いはひとつ。篁様、一手ご教授願えませんか」

「なるほど。どうしても、この小野篁に太刀を抜かせたいというわけか」

「はい」


 花は素直に頷く。

 なぜ、いままで太刀を抜くことが出来なかったのか篁には理解ができた。どこかで相手が花であるということを感じ取っていたのだ。だから、篁は太刀を抜いて相手を斬ろうとは思わなかったのだ。


「わかった」

「ありがとうございます」


 花は篁に頭を下げる。

 篁はゆっくりと太刀を抜くと、腰を低くして構えた。

 頭を下げていた花が顔を上げた時、その顔つきは鬼姫のものと変わっていた。

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