鬼姫と篁

鬼姫と篁(1)

 驟雨しゅううだった。

 先ほどまでは、雲の間から見える月の姿を見て、何やら良い歌でも浮かばぬものかと思っていたはずだった。

 どこか雨をしのげる場所はないだろうか。篁は急ぎ足で歩いていた。

 牛車ではなく、徒歩だった。漢詩仲間である菅原すがわらの是善これよしの屋敷へと出向いていた。是善とは共に道康親王の東宮学士と仕えていたことがあり、気の合う友でもあった。なお、是善は現在も文章博士東宮学士である。


 余談となるが、菅原是善はあの菅原道真の父親である。東京台東区には小野篁公を祀る小野照崎神社が存在しているのだが、その小野照崎神社では小野篁と共に菅原道真公も学問の神様として祀られていたりもするのだ。篁と道真の父である是善に交流があったことから、篁と道真の間にも何かしらの接点があったかもしれないと考えると面白いかもしれない。


 是善の屋敷は山陰亭という名で呼ばれていた。これは文章博士である菅原是善が開いている私塾であり、その父である清公きよきみの代から続いているものであった。是善のもとには学問を学びたいという者たちが殺到し、優秀な文章生たちが山陰亭から巣立っていっている。

 是非一度読んでもらいたい漢詩があるということで是善に山陰亭へと招かれた篁だったが、書庫で夢中になって古い漢詩の書を読み耽っていたところ、いつの間にか夜の帳がおりていたというわけだった。

 明日は早朝より内裏での職務があった。そのため、篁は慌てて是善のもとを辞したというわけだ。


「今宵はもう遅い。屋敷の者に牛車を出させるから、乗っていかれると良い」

「なに、心配は御無用。徒歩で帰れますゆえ」


 篁はそう言って是善の申し出を断ると、松明を一本借りて山陰亭を後にしたのだった。

 しばらく歩いていると、空からぽつり、ぽつりと大きな雨粒が降ってきた。これは急いで帰らなければ。そう篁が思った矢先、東の空が一瞬明るくなった。雷鳴が轟き、一気に雨脚が強まった。


「是善殿の好意に甘えるべきであったか……」


 牛車で送るという申し出を断ったことを篁は後悔していた。

 篁は近くにあった屋敷の軒下に入り、そこで雨が止むのを待つことにした。

 雨が地を叩くかのような音が続き、雷鳴は徐々に近づいてきているように思える。

 空を見上げていた篁の視線の隅を何かが横切った。

 そちらに視線を向けると、闇の中を何かが駆け抜けていくのが見えた。しかし、それが何であるかまではわからなかった。人のようにも見えたし、人ではない別のもののようにも見えた。

 空が光った。それと同時に、篁が目で追っていたものが何かがわかった。被衣かずきを頭からかぶるようにして走る女だった。

 このような夜中、しかも雷雨の夜に女がひとりでいるということは不自然であった。一瞬見えた着物を見ても、そこまで身分が低い者とは思えなかった。何かあったのだろうか。篁は女の後を追いかけることにした。

 篁は女の後を追いかけたが、女の姿は見えるがいつまで経っても追いつくことはなかった。

 これはおかしい。そう篁が気づいた時、雷鳴と共に辺りが真っ白に輝いた。

 目の前には女が立っていた。それは、この世の者とは思えぬほどに美しい女だった

 思わず篁は息を飲んだ。しかし、それと同時に、女がこの世のものではないということもわかった。

 そのことを女も察したらしく、にやりと笑ってみせた。朱を塗った形の良い唇の端からは尖った牙のような歯が見えていた。


「名を何と申す」


 女は篁に聞いた。


「参議、小野おのの朝臣あそんたかむら

「なるほど」


 女は篁の名を聞いても驚くことはなかった。これはあやかしとしては珍しいことだった。普段、篁の名前を聞いたあやかしは恐れおののいたり、怒りを覚えるような表情を浮かべるのだ。それは、冥府の閻魔大王から仕事を請け負い、現世にいる鬼やあやかしといった存在を冥府へと送り返していることで名が知られているためだった。


「そちらの名を伺っても、よろしいかな」

の名か。我は鬼姫おにひめとでも名乗っておこうか」


 そう名乗ると同時に鬼姫はそれまで被っていた被衣を宙へと放り投げた。

 篁の視線はその宙を舞う被衣へと注がれる。

 直感的に篁は後ろに飛び下がっていた。


「さすがじゃな、小野篁」


 鬼姫はそう言って美しい笑みを浮かべた。鬼姫の手にはどこから現れたのか、刃の長い太刀が握られており、先ほどまで篁が立っていた場所を斬りつけていた。

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