弾正大弼(5)
それは巨大な影だった。
影の形は人間の女のようであるが、頭には狐のような耳が生えているようにも見える。
ただ、それは影だけであり実体は見ることができなかった。
「もしも、真備殿がご存命であられたら、このようなあやかしは蹴り殺していたであろうな」
業平は琵琶の置かれた部屋を御簾越しに見ながら呟くようにいう。
確かに業平の言う通りだった。こんな時に真備が居てくれたらと思ってしまう。しかし、真備を殺したのは自分だ。篁はそう思い直すと、太刀を持っていない方の手で御簾をあげた。
「あやかしよ、お前の本当の目的は何なのだ。まさか、伴善男に添い遂げようと思っているわけではあるまい」
「誰があやかしじゃ。我は
「ほう。宇迦之御魂神ということは、穀物の神ということか。なるほど、それで稲荷で狐というわけか」
「少しは話しがわかるようじゃな。名を何と言う」
「弾正大弼、小野朝臣篁と申す」
「あなやっ! 篁じゃと!」
影はそう言うと、ゆらゆらと不規則に揺れはじめた。
「如何にも。小野篁だが……」
「く……話が違うではないか」
「話とは?」
「い、いや何でもない。こちらの話じゃ。……九尾め、我を嵌めおったな」
なにやら影は独り言をぶつぶつと呟いている。
「こちらとしては、伴善男には構わないでいただきたいのだが」
「あの男は、我と
「契とは、善男の出世を望む願いの話なのか」
「そうじゃ。それを叶えるために、やつは我と契を交わした」
「どうすれば、その契を破棄することができるのだ」
「望みを捨てることよ」
篁と業平は顔を見合わせる。
「なるほど。わかった、しばし待たれよ」
業平はそう言うと、伴善男が待っている部屋へと戻っていく。
しばらくすると、何やら声が聞こえてきた。
篁がその声のする方へ目を向けると、伴善男の襟首を掴んで廊下を引きずってくる業平の姿が見えた。
「伴善男を連れてきましたぞ」
「な、なにをなさるのじゃ、業平殿」
「善男殿、貴殿が宇迦之御魂神の眷属と縁を切るしか無いそうだ」
「え、縁を切る?」
「契を結んだのであろう」
「あっ……ああ、そのことですか」
「その契を破棄すれば、眷属は帰ってくれるそうだ」
「わ、私に出世を捨てろといわれるのですか、篁殿」
善男は怒ったような口調で篁に言う。
そんな善男に対して、篁は冷たい視線を送るだけだった。
出世とは何かに頼って得るものではない。己の力で掴み取るものなのだ。無位から参議まで這い上がってきた篁に取って何かに頼る出世などは、考えられないことであった。
「私は朝廷で出世をしたいのだ。それを諦めるなんて、無慈悲な……」
「己の力で出世すれば良いではないか」
そういった業平に善男は睨みつけるような目を向ける。
「生まれた時より出世の道を歩んでおられる業平殿には私の気持ちなどはわかるまい」
「な、なんと……」
在原業平は祖父が平城天皇、父が阿保親王という血筋の持ち主であった。生まれてすぐに、臣籍降下して他の兄弟達と共に在原氏となったが、ある程度の地位が保たれていることは確かであった。
「私は出世を諦めることはできぬ」
「それならば、この眷属と共に生きていくしかあるまい」
「それも嫌じゃ……」
その善男の言葉に篁と業平は呆れ顔で、影の方を見た。
「黙って聞いていれば、なんじゃその言い分は。お前の出世を助けてやろうかと思っていたが、こんな契など、こっちから願い下げじゃ」
影は怒ったような口調で言うと、その姿を女から狐の形に戻した。
「我は宇迦之御魂神の眷属ぞ。馬鹿にするのもいい加減にせよ。伴善男、お前との契はこれで終わりじゃ」
「ま、待て。私の出世はどうなるのだ」
「そんなもの、自分でどうにかせよ。お前であれば、我の力を使わなくともある程度の出世は叶うであろう。ただ、気をつけるのじゃ。いずれ、お前はその足元を掬われることとなるぞ。これが我の最後のお前に対する予言じゃ」
影はそれだけを言うと、御簾の隙間から庭へと飛び出していき、姿を消したのだった。
その日以来、伴善男の屋敷で琵琶の音色を聞くことはなくなった。
これで伴善男の出世が途絶えたかといえば、そうではなかった。この数カ月後、伴善男は帝より詔を受け、参議となった。
ただ、この一件で伴善男と在原業平の交流は途絶えてしまったのだった。
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