弾正大弼

弾正大弼(1)

 澄んだ空が広がっていた。

 業平が放った鷹は風に乗り、空高くまで飛んでいく。


 参議となった篁は、その年の四月に弾正大弼だいひつとなった。

 二十歳の頃に文章生となり、最初に就いた朝廷の役職は弾正台の弾正巡察であった。その弾正台に篁は参議となって戻ってきたのだ。

 大弼は弾正台の長官である弾正尹だんじょうのかみに次ぐ役職であり、弾正尹は親王や臣籍降下した人間が就くことが多かったため、実質、大弼が弾正台の責任者という立場にあるといってよかった。

 さすがに大弼ともなると、自ら現場に出て指揮を執るということも少なくなる。基本は弾正台の建物の中に居て、部下から上がってくる報告の整理などが主な仕事であった。

 また篁は弾正大弼以外にも兼務として、左中弁の役も担っており、太政官左弁官局の次官としての役割もしなければならず、忙しい日々を送っていた。


「たまには遠乗りなどいかがですかな」


 そんな折に、声をかけてきたのは在原業平であった。

 篁はふたつ返事でその誘いに乗ると、業平と共に洛外へと出掛けた。

 業平は鷹狩の名人として知られていた。鷹狩は元々天皇家のみに許されたものであり、嵯峨天皇などは鷹狩に関する漢詩や鷹狩の技術書を残すなど、鷹狩愛好家として名を残している。在原業平は嵯峨天皇の兄である平城天皇の孫であり、鷹狩好きの家系に生まれたといっていいだろう。


「篁殿はご存知ですかな」

「なにの話だ」

「伴善男の屋敷に出るというの話ですよ」

「そのような話は、初耳だが……」


 業平の言葉に、篁は訝しげな顔をしてみせた。

 伴善男は、従五位上の蔵人頭兼右中弁であった。眼窩の窪んだ異相と、その顔に似合わない小さな身体をした男で、篁が権左中弁であった際に起きた『善愷訴訟』で伴善男の意見に同意し、訴訟決着をつけたことがあった。それ以来、善男は事あるごとに「篁殿、篁殿」と懐いてきているが、篁はあの時の訴訟の判断は誤った可能性があると思っていた。


「あやかしといっても、どのようなものが出るというのだ」

「それが、女のあやかしらしく……」

「女のあやかし?」

「ええ、夜な夜な琵琶を弾くそうです」

「あやかしなのか、それは」

「どうでしょうか。私もそのようなあやかしであれば、一度は見てみたいと」


 業平はそういうと声を出して笑ってみせた。

 まったく、この男は相手が生きていようと死んでいようと女であれば関係ないのか。篁は呆れた顔をして業平のことを見た。


「冗談ですよ、篁殿」


 口ではそう言ったが、その表情は本気なのかどうかわからなかった。


「なぜ、そのような話を私にしたのだ、業平」

「それは……あやかしといえば、篁殿ではありませぬか」

「何を言うか」

「私も篁殿とお会いするまでは、あやかしなどは見たことはありませんでしたぞ」


 そう言われると、篁は何も言えなくなってしまった。

 業平を様々なことに巻き込んだのは、紛れもなく篁だった。真備のこともあり、業平には色々と迷惑をかけてしまったという自負もある。だから、無下に業平の頼みを断ることはできなかった。


 その日の鷹狩の帰り、篁と業平は伴善男の屋敷へと向かった。

 篁たちが伴善男の屋敷の門前に立つと、すぐに伴家の家人が出てきて、篁たちを屋敷内へと案内した。

 部屋に案内された篁たちが待っていると、ドタバタという足音が聞こえてきた。

 その音が聞こえてきた方へと顔を向けると、小男が騒がしくこちらに向かってくるのが見えた。


「これはこれは、篁殿、在五殿。まさか、来ていただけるとは思ってもみませんでしたぞ」


 伴善男は白々しい演技をしながら、ふたりの前に腰を下ろすと、家人に宴席の用意をするように告げた。

 酒と料理が運ばれ、篁と業平は伴善男からもてなされた。


「して、善男殿。屋敷にあやかしが出ると聞いたが」


 篁がそう言うと、伴善男はあたりを伺うように左右を見回してから口を開いた。


「実は、そうなのです。あやかしに困っているという話を在五殿にしたところ、そういったモノに対しては篁殿がお強いと……」


 その善男の言葉に、業平は気まずそうな顔をして盃を傾ける。

 わかってはいたが、やはり裏で糸を引いていたのは業平の方であったようだ。


「琵琶を弾く女のあやかしが出るという話でしたな、善男殿」

「ええ、実はあちらの部屋にその琵琶がありまして」


 善男はそう言うと、部屋の仕切りに使っている御簾をあげると、篁たちを別の部屋へと案内した。

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