参議篁(4)

 なにかの気配を感じた篁は、ふと庭の方へと目を向けた。視線のようなものを感じたのだ。

 そこには一匹の狐の姿があった。


 玉藻前。かつて九尾狐にいわれた言葉が、篁の脳裏によみがえる。真備は九尾狐の力を吸収し、朝廷の転覆を狙う。その時の名が玉藻前だと、九尾狐は言っていた。

 いま、目の前にいるあの狐は九尾なのだろうか。篁はそんなことを思いながら、じっと狐の姿を見つめる。その狐の姿に気づいているのは、篁だけであるようで他の誰も狐に注意を払っている人間はいなかった。


を祓おうなど無駄なことじゃ、陰陽師よ」


 真備はそう口にし、着物の裾をまくりあげて白い太ももを露わにすると、雄貞のことを足蹴にした。


「あなや」


 蹴りつけられた雄貞は床を転がるようにして、その場に倒れる。


「何をするのだ、真備」


 篁が怒鳴りつけるように真備にいうと、真備はちらりと篁のことを見た。

 真備の目は虚ろだった。

 これは真備のようで、真備ではないな。篁は直感的にそう感じ取っていた。

 そして、真備は口角をつり上げるようにして、にやりと笑みを浮かべると、大声で笑いながら篁の屋敷の庭へと降り立った。


「待て、どこへ行く」

「さらばじゃ、篁」


 真備はそう言うと、恐ろしいほどの跳躍力で篁の屋敷の垣根を飛び越えた。その垣根は篁の背丈ほどあるものだった。

 あまりにも突然のことに皆、ぽかんとした様子で真備の姿を見ているだけだった。


「篁様、申し訳ございません」


 真備が去っていった後、雄貞が頭を床に付けて篁に謝罪をした。


「雄貞殿が謝ることではありません。真備がどうかしているのです」

「あれは邪の者です。おそらく、真備様の体を乗っ取った」


 その言葉に篁は、あれが本当の真備の姿なのかもしれないと思っていた。

 女子おなごの姿形となってはいるものの、中身は吉備真備なのだ。真備は邪悪な鬼に体を乗っ取らせる代わりに右大臣にまで上り詰めることができた。遣唐使で唐の国に渡り、そこで鍾鬼という邪悪な鬼と契約をしたのだ。自分の夢を叶える代わりに、鍾鬼の言うことを聞くと。そして、真備は右大臣になり、鍾鬼の願いとして身体を乗っ取らせることを受け入れた。

 しかし、その鍾鬼は篁が隠岐島で退治したはずだった。

 それとも別の鬼が真備の中にまだ潜んでいるというのだろうか。いや、吉備真備という人物自体が邪悪なものなのかもしれない。

 篁は深くため息をつくと、立ち上がった。


「雄貞殿を巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思っている。だが、巻き込まれたついでにもうひと仕事してはくれないだろうか」

「何でも言ってくだされ。私の出来ることでしたら、やりましょう」

「先ほど雄貞殿が言われた西の方角の穢れとやらについて調べてはいただけないだろうか」

「もちろん、やらせていただきます」

「すまんな、雄貞殿。私は真備について知る者から話を聞いてこようと思う。もしかしたら、その穢れとの関係についても何か知っているやもしれん」


 篁はそう言うと、すぐに出かける支度をはじめた。

 向かう先は決まっていた。六道辻の井戸より入りし場所。そう冥府である。

 真備については、閻魔かその眷属であるがよく知っているはずだ。おそらく、今回の件もすでにふたりは知っているであろう。


「篁殿、篁殿、お待ち下さい」


 篁の乗った馬が羅城門へ差し掛かろうとしたところで、誰かに呼び止められた。

 振り返ると、後ろから馬に乗った在原業平ともう一人が追いかけてくるところだった。


「おお、業平殿」

「聞きましたぞ、真備殿に危機が迫っているとか」


 どこで聞きつけてきたのかはわからないが、業平なりに心配をして篁の後を追ってきたようだ。

 そして、業平の後ろにはもうひとり狩衣姿の男がいた。歳は業平と同じくらいか、少し上といったところだろうか。


「そちらの御仁は?」

「失礼。いつも業平が世話になっております。業平の兄、行平にございます」


 馬から降りた行平はそう言って頭を下げた。この男は在原業平の兄であり、従五位上で右近衛少将の在原行平であった。


「これはこれは、行平殿。急いでいるゆえ、馬上でのご挨拶失礼いたします」

「なに、構いませぬ。それよりも、弟より話を聞きました。我々にも協力をさせてください」

「真備殿が危機とあらば、お救いしなければなりません」

「ご協力、感謝いたします。では、お二方には陰陽寮の滋岳しげおかの雄貞おさだ殿のところに向かい、西にあるという穢れについて共に調べてはくださらぬか」

「わかりました。我々は陰陽寮へ向かいます」

「私もこちらの件を片付けたら、すぐに向かう」


 篁はそう言って、在原兄弟と別れて羅城門をくぐり抜けた。

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