参議篁(3)

 真備が倒れたのは、その日の晩のことだった。

 昼間は東市ひがしのいちへ篁とともに出掛け、などの食料品を買い込むなど元気な様子を見せていた。珍しく真備ははしゃいでおり、あれもこれもと生活に必要のなさそうな物まで手に取り、買うべきかどうするかを悩んだりしていた。

 そんな真備が夕刻になる頃、寒いと言い出し、突然倒れたのだ。

 最初は蘇の食べ過ぎではないかと言われていたが、どうにも様子がおかしいため、すぐに篁は陰陽寮へと家人を走らせた。


 この時代、医療というものは存在していなかった。貴族たちは病になると陰陽師に診てもらうのだ。もちろん、陰陽師に医療知識があったということはない。陰陽師が行うのは祈祷や占いだけであり、その占いなどから病の原因となるものを探るのだった。また、病の原因が物怪にあるとされた場合には僧が出てきて、読経をおこない物怪を祓うといったことをするのだ。いわば、病に罹ったら自然治癒以外に治す方法は無いということである。そのため、流行り病などが発生すると人がバタバタと死んでいくのだった。


 しばらくして、篁の屋敷に牛車がやって来た。その牛車より降り立ったのは、陰陽寮の若き陰陽師である滋岳しげおかの雄貞おさだであった。


「篁様、お久しぶりです」

「すまんな、急に呼び出したりして」

「いえ、とんでもございません。篁様のところで急病人が出たと聞き、牛車で飛んで参った次第です」


 雄貞はそういうと、ちらりと御簾みすの向こう側で床に横になっている真備の方を見た。

 寒いと訴えていたため、真備の体の上には着物が何枚か掛けられている。


「あちらの方ですか?」

「そうだ。夕刻までは元気だったのだが、急に倒れたのだ」

「わかりました。では、この方のお名前を教えていただけないでしょうか」


 そう雄貞に言われ、篁は一瞬黙り込んだ。

 雄貞に吉備真備という名を伝えても大丈夫だろうか。吉備真備は陰陽術を唐より持ち帰ったひとりだと伝えられる人物でもあり、陰陽師であったということもよく知られている。そんな吉備真備の名を雄貞が知らないわけがなかった。

 本当の名を雄貞に伝えるべきか、篁は一瞬悩んだがここで嘘をついても仕方がないと思い、口を開いた。


「真備だ」


 篁がそう伝えると、雄貞は眉を吊り上げるようにして驚いた顔をしてみせたが、特に何かを口にするといったことはなかった。


「では、真備様の状態を占わせていただきます」


 雄貞はそう言うと篁と共に御簾の中へと入っていき、真備の横たわる脇で、何やら呪文のようなものをぶつぶつと呟きはじめた。

 篁の妻である藤や家人たちは御簾の向こう側で心配そうな顔をして、その様子を見守っている。

 しばらくすると真備が目をゆっくりと開けた。


「おお、真備。目を覚ましたか」


 篁が近づこうとすると、それを雄貞が手で遮るようにして止めた。


「いけません、篁様。いま、真備様には別の何かが近づいてきております」

「別の何か?」

「はい。得体の知れない、邪のモノ……穢れにございます」


 雄貞はそう言うと懐から札のようなものを取り出した。

 すると真備は自分の上に掛けられていた着物を除けて、ふらふらとしながらも立ち上がる。


「大丈夫か、真備」


 再び篁が声を掛けるが、真備の目は篁の方を見ていない。熱に浮かされたような、呆けた表情で唇を開いたり閉じたりと繰り返している。


「どういうことなのだ、雄貞殿」

「西の方角より、穢れが向かってきているようです」

「西?」

「何か、心当たりはございませんか」


 そう言われ、篁は再び真備の方へと目をやった。

 現世によみがえった真備について、篁は何も知らなかった。突然、ふらりと眼の前に現れたのだ。真備は自分のことを語ることはなく、篁もそのことを気にしてはいなかった。


「おい、真備。西に何があるのだ」


 篁がそう問いかけたが、真備には聞こえないのか、何の反応も示さなかった。


「いま彼女に声は届きません。真備様は何か自分の殻のようなものの中に閉じこもっておられます」

「殻だと?」

「はい。何と言いますか。我々の言い方にしますと、結界というべきか」

「結界か……。それは真備が自ら中にいるという感じなのか」

「おそらく」


 ふらふらと部屋の中を歩いていた真備だったが、なにかに躓いたかのように床へと倒れ込んだ。

 そして、何かを求めるかのように手で宙を探っている。

 寝そべりながら真備が動くため、着物ははだけていき、その白い肌があらわになる。


「あれは、大丈夫なのか」

「真備様は何かと戦っておられるようです」


 雄貞がそういった時、どこからか鈴の音のような音が聞こえた。

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