参議篁(2)

 翌朝、事の真相を聞こうと篁が有貞の屋敷へ向かう支度をしていると、有貞の家人けにんが大慌てで篁の屋敷へとやってきた。


「何事だ」

「そ、それが……」


 篁の問いに、有貞の家人は顔を青ざめさせながら答える。


「今朝早くに屋敷へ近衛府より使いがやって参りました」

「なんと」


 近衛府がやってきたということは、帝の使いであるということでもあった。しかも、武官である近衛府の人間がやって来たということは、有貞が抵抗する可能性もあると考えられてのことだったのだろう。


「主人は、近衛府によって内裏へと連れて行かれました」

「わかった。私もすぐに内裏へ向かおう」


 篁はそう言うと、馬にまたがり屋敷を飛び出した。

 事態は篁が想像していたよりも速く動いているようだ。有貞の密通の話は、すでに噂話では終わらないほどの話となっていた。近衛府が動いたということは、有貞を呼び出したのは帝に間違いなかった。帝自ら詮議せんぎを行おうとしているのだ。これは、大変なことになったぞ。篁は馬を飛ばしながら、有貞を救うにはどうすれば良いのかを必死に考えていた。


 大内裏の朱雀門を抜け、内裏の建礼門へと向かおうとしたところで、武装した武官たちに行く手を塞がれた。


「篁殿、お待ち下さい」


 聞き覚えのある声に篁が馬の足を止めると、そこには藤原良相が武官と共に立っていた。良相の役職は近衛中将であり、有貞を連れて行った近衛府の所属である。良相の連れている武官たちは弓を背負って武装しており、物々しい雰囲気を醸し出していた。


「内裏へ向かうのはお控えください」

「なぜ止めるのだ、良相殿」

「もう手遅れです。すでに藤原有貞へのみことのりは行われてしまいました」

「なんと……」


 あまりにも話が早すぎて、篁は絶句した。まだ有貞の密通に関しては、ただの噂話にすぎなかったはずだ。それにもかかわらず、帝は有貞に対して詔りを行った。これには誰かが裏で帝を動かしているとしか思えなかった。おそらく、帝の耳元で有貞に関する噂を囁いたものがいるのだろう。そのことに気づいた篁は、ぞっとさせられた。


 有貞を崩せば、藤原南家である元右大臣の三守ただもり流れを汲む一族は力を失うこととなる。特に有貞は幼少の頃より帝の寵幸を受けてきており、将来も有望だったはずだ。その有貞が崩されたとなれば、次は誰が標的となるだろうか。まさか、次は自分なのか。篁はそう気づき、ぐっと下唇を噛み締めた。これは他人事ではないのだ。いつの間にか、朝廷内の権力闘争の渦中に立たされているのだ。

 もし、篁が馬に乗ったまま内裏に乗り込めば、この筋書きを書いた人間の思惑通りとなってしまう。おそらく、良相はそのことに気づいて、篁のことを内裏よりも手前で止めてくれたのだろう。そのことに気づいた篁は、馬を降りると良相に頭を下げた。


「すまぬ、良相殿。取り乱した」

「いえ、わかっていただけて助かりました」


 良相は背中に冷や汗をかいていた。もし、篁が強行突破を図ろうとすれば、篁と戦わなければならなかった。腕利きの武官を連れているとはいえ、この偉丈夫を相手にするのは並大抵のことではないということを良相は知っていたのだ。

 有貞の嫌疑についての真相は不明のままだった。真相が明らかにされるよりも前に、帝は有貞に常陸権介のみことのりを行ったのだ。


 有貞の新任地となる常陸国は現在の茨城県であり、平安京のある京都からはかなりの距離だった。いわば有貞は僻地へと左遷されたということになる。それだけ今回の帝の怒りは大きかったのだろう。また、同じく密通の疑いを掛けられた三国町の方は更衣を廃され、その息子であった源登は出家することとなった。たとえ疑いであったとしても、帝は誰ひとりとして許さなかったのである。


 義弟である有貞の左遷が義兄である篁にも何かしらの影響があるかと思われたが、篁へのみことのりは何も行われることはなかった。もしかしたら、この噂を流した人間にとってそれは誤算であったかもしれない。


 内裏へと向かうことを諦めた篁は、馬を返すと屋敷へと戻ることにした。

 それにしても、まさか有貞が標的になるとは思いもよらぬことであった。確かに有貞は帝の寵愛を受けており、将来は有望だと思えた。しかし、いまの官位は従五位下で、役職も丹波介たんばのすけに過ぎず、権力闘争の脅威となる存在ではなかったはずだ。しかし、火のない所に煙は立たぬともいう。もしかしたら、本当に有貞と三国町の間で何かあったのかもしれない。そんな想像をしながら、篁は大内裏を抜けていった。


「篁、どこへ行っていたのじゃ」


 屋敷に戻ると、居候中の吉備真備が篁のことを出迎えた。

 まだ寝起きであるのか、その長い髪は櫛で梳かれておらず、ひどい有り様だった。


「内裏へ行ってきたところだ」

「そうか。を食したいのだが、家人に作るように言ってもらえぬか」


 どこか恥じらうようにしながら、真備が言う。


 蘇というのは、古来より食されていた乳製品であり、牛乳を煮詰めて作られたという記述が平安中期に編纂された延喜式えんぎしきにも残されている食べ物であった。蘇は朝廷への献上品としても使われていたとされており、かつて右大臣であった真備は蘇を食したことがあったのだろう。


「蘇か。東市へ行けば手に入らぬことも無いとは思うが」

「では、連れて行け」

「それは、別に構わぬが……」


 篁はそう言って、ちらりとすぐ近くにいた妻の藤の姿を見た。

 すると藤はにっこりと微笑んで篁に言った。


「わたくしの分も買ってきてくださいな」

「うむ、わかった」


 どこか調子が狂うな。そう思いながら、篁は真備と共に屋敷を出るのだった。

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