在五(11)

 召雷の術によって玉藻を消滅させた真備は、腰を抜かしている業平に手を差し出した。

 業平は戸惑いながら、その真備の差し出した手を見つめる。その手は若い女子おなごの手であった。


「さあ、業平様。帰りましょうぞ」

「あ、ああ」


 真備の手を借りてなんとか立ち上がることができた業平は、まだ震えが収まらないようで自分の両肩を抱くような仕草をしていた。そして、ちらちらと真備の横顔へと視線を送りながら、なにか言いたげな顔をしている。

 どうやら、この業平はこの真備が本物なのかどうかをまだ疑っているようだ。

 先ほどの玉藻は、真備そっくりな顔から化け物へと変貌を遂げた。その印象が強く残っているのだろう。

 業平を安心させるためにも、これは本物の真備だと篁は無言で頷きかけた。

 そして、真備に対して質問をぶつけた。


「一体どういうことなのだ。説明してくれないか、真備」

「我にもよくわからん。井戸の中に飛び込んだら、突然動けなくなり意識を失ったのじゃ」

 自分にもわからない。そんな口調で真備はいった。


「あの化物は、何者なのだ」

「それは、お前の方がよく知っておるのではないか、篁」

「そうだな。真備たちが来る前に、私はお堂で九尾と会った」


 いまさら隠しても仕方ない。そう思った篁は真備にすべてを打ち明けることにした。

 九尾から聞いた話を真備にすると、真備は呟くようにいった。


「やはり、あの狐か」

「唐から戻ってくる時に、一緒に帰ってきたというのは本当なのか」

「ああ。我の乗っていた船に若藻という若い女が乗っていたことは確かじゃ。あの女の正体が九尾だったとはな。上手く化けおったわ」

 真備はそういって笑って見せた。


 古の書物によれば、九尾狐きゅうびこは大陸にあったいにしえの王朝で大暴れしていたとされている。ある時は、妲己だっきと呼ばれる美しい女性に変身してその国を治める王に近づき、酒池肉林の宴を昼夜問わずに開かせ、王朝を腐敗させていったとされている。

 また別の時は人食い狐として姿を現し、多くの人々を喰らったということも書かれていた。

 そんな九尾狐が大陸を抜け出したのは、吉備真備が留学を終えて帰国の途に就く遣唐使船であった。九尾は若藻という名の若い女に姿を変え、その遣唐使船の中に紛れ込んで、この国へとやってきたのだ。


「九尾は、とんでもない化物なのだな」

「そうじゃ。そんな化物に好かれるとは、なかなかの色男じゃな、篁」

「勘弁してくれ。そういう役割は、業平殿に任せておきたい」

 そう篁が言うと、業平は苦笑いを浮かべた。


 三人はしばらく歩き続け、雑木林を抜け出ることができた。

 目の前にあるのは、何もない広く開けた場所であった。

 真備は何かを探すかのように、きょろきょろと辺りを見回している。


「あった。こっちじゃ、篁」

 そう呼ばれて篁と業平が真備の方へ向かうと、そこには古井戸が存在していた。


「また、井戸なのか」

 篁はうんざりした様子で呟く。


「仕方あるまい、我たちは井戸に入ってここへ来たのじゃ。戻るにはもう一度井戸に入るしかあるまい」


 真備がそう説明をしたが、篁にはその原理がまったく理解できなかった。それは業平も同じようできょとんとした顔で真備の話を聞いてる。


「とりあえず、井戸に飛び込めばいいのじゃ」

「本当か」

「我が信じられぬと言うのか、篁」

「では、私が先に入りましょう」

 ふたりの様子を見ていた業平が割って入ると、井桁に足を掛けた。


「では、待っておりますぞ」

 そう言うと、業平は井戸の中へと身を投じる。


 しばらくして、篁は井戸の中を覗き込んだが業平の姿は無く、そこには真っ暗な空間が見えるだけだった。


「真備、まだ何か話していないことがあるのではないか」

「何がじゃ」

「九尾は、お前が玉藻となり、九尾の力を吸収して朝廷を転覆させようとすると言っていた」

「馬鹿なことを言うな。このような女子の身体で何ができるというのだ」

「だが、お前は陰陽の術を使える」

「それはそうじゃが、いま朝廷を転覆させたところで何の意味がある。勘違いをするな、篁。我はかつて右大臣にまでなったのじゃぞ。そんな我がなぜ朝廷の転覆を企む必要があるのじゃ」

「まあ良い。もしも、私の目が黒いうちに朝廷転覆なんぞ企むようであれば、この鬼切羅城で斬ってやるわ」

「いいだろう。その時は、斬れ。我は文句も言わん」

 そう言って真備は笑うと、篁の背中を両手で突き飛ばした。


「あ……」

 完全な不意打ちだった。篁の身体は井戸の中へと落ちていく。


 その篁の姿を見届けた真備は、自分も井戸に入るために井桁へと手を掛けた。

 風が吹いた。

 どこからか鈴の音が聞こえたような気がした。

 真備はあたりを見回したが、誰の姿もなかった。 


「また、いずれ」

 そう呟くように真備は言うと井戸の中へとその身を投じた。

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