在五(10)
「篁――――」
遠くの方から声が聞こえてくる。
その声に呼び覚まされるかのように篁が目を開けると、視界いっぱいに若い女の顔があった。真備である。
「目を覚ましたか、篁」
「ここは?」
「井戸の中じゃ」
「井戸?」
「覚えておらぬのか。井戸の中に飛び込んで、着地に失敗したのじゃ……」
真備が笑いを堪えるような顔をしていう。
井戸の中。そうか、あの時、床が抜けて落ちた業平のことを助けようと、床下にあった井戸の中へと飛び込んだのだ。篁は少しずつ、記憶を呼び覚ましていた。どうやら、落ちた時に頭を打ってしまい、気を失っていたようだ。
真備の膝枕から頭を起こすと、篁は辺りを見回した。
そこは井戸の中とは思えぬような広い場所であり、梅の花が咲き乱れていた。
「なんなんだ、ここは?」
「我にもわからん」
「そういえば、業平殿は」
「あそこにおるぞ」
真備が指さした先を見ると、そこには確かに業平がいた。
業平は梅の花を見つめながら、なにやら書き物をしている。どうやら、歌を詠もうとしているようだ。
「業平殿」
「おお、篁殿。目を覚まされたか」
「すまない。不覚を取ったようだ」
「いま、良い歌が詠めそうなのだ……。しばし、お待ちくだされ」
そう言うと業平は梅の木を見上げながら、筆を動かした。
何か夢を見ていたような気がした。それがどんな夢であったか、篁は思い出せなかった。
その夢は何か大事な夢だったような気もするが、忘れてしまっても良い夢であったような気もする。まあ、良いか。篁はそう思い、梅の花を見つめた。
とても居心地が良く、気分が良かった。ここならば、自分も良い歌を詠めるかもしない。
そう思ったと同時に、腰に佩いていた鬼切羅城が何かを訴えるかのように輝き出す。
このようなことは一度も起きたことがなかった。一体、何なのだろうか。
篁は困惑しながらも、鬼切羅城の太刀を鞘から抜いてみた。
その刹那、すべての景色が一変した。
漆黒の闇の中に浮かび上がる蒼い炎、そして目の前にいるのは大きな口を開けて噛みつこうとしている狐の化け物であった。
「篁殿っ!」
業平の声。
我に返った篁は、鬼切羅城の太刀で自分に襲いかかってこようとした玉藻の牙を受け止める。
腕、いや前足で玉藻は篁のことを蹴りつける。
その威力は凄まじく、篁の身体は弾き飛ばされた。
玉藻は追撃をしようと飛びかかろうとしたが、そこに業平が矢を射たため、踏みとどまらざる得なかった。
「真備っ、何をしておる。さっさと出てこい」
篁が叫ぶ。
その言葉に応えるかのように、空で雷が鳴りはじめた。
「そのまま眠っていれば、楽になれたものを」
玉藻はそう言うと、再び篁に飛び掛かるために身を沈めた。
その時だった。黒い雲に覆われていた空が一瞬光った。
遅れるようにして、雷鳴が轟く。
篁に飛び掛かるため、玉藻は跳躍した。その姿はまさに獣であり、篁の首筋に齧り付こうとしていた。
凄まじい衝撃が走った。
轟音と共に、地面が揺れる。
「あなやっ!」
それは断末魔だった。そう叫んだのは玉藻であり、玉藻の身体を雷が貫いていた。
「召雷の術なり」
背後から声が聞こえ、篁は振り返った。
そこには髪を振り乱した状態の真備が指で印を組みながら立っていた。
「愚か者め。この吉備真備を取り込もうなど、100年早いわ」
真備はそう言うと、さらにもう一発、雷撃を玉藻に落とす。
二発の落雷に打たれた玉藻の身体は黒焦げになり、さらに真備が何かを唱えると、その身体は爆ぜた。
あまりにも衝撃的な出来事を目にした業平は、再び腰を抜かしてしまっており、足をガクガクと震わせながら逃げようと地面に這いつくばっていた。
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