在五(8)

 落ちた。そう思ったと同時に、足が地についていた。

 これは六道の井戸と同じことだった。一体、どういうことなのだろうか。

 篁が顔を上げると、そこは木々の生い茂った森のような場所であった。どうやら、冥府ではないようだ。


「篁殿、ここは一体……」

 先に井戸の中へと落ちた業平がそこにおり、後から来た篁に問いかけてきた。


「わからぬ。私もこんなところに来たのは初めてのことだ」

「困りましたな。そういえば、真備殿は?」

 どこにも真備の姿はなかった。篁のことを井戸へと突き落とした後、真備も自ら井戸の中へと飛び込んできたはずだったが、その姿はどこにもない。


「あやつなら放っておいても大丈夫でしょう。とりあえず、ここから出る方法を考えましょう」


 そう言って篁は落ちてきた空を見上げてみたが、そこには穴などはなく、鬱蒼と生い茂った木々の葉があるだけだった。

 篁と業平は少し森の中を歩いてみたが、歩けど歩けど続くのは生い茂る木々だけであり、代わり映えのしない景色が続いていた。


「篁殿、これは参りましたな」

 さすがの業平も音をあげ、大きな岩に腰をおろしている。

 その時だった、どこからか鈴の音色のような甲高い音が聞こえてきた。

 聞こえたのは篁だけではなかったようで、業平もきょろきょろと辺りを見回す。

 するともう一度、鈴の音が聞こえ、立ち込めた霧の中から顔に布作面ふさくめんをつけ、水干を身に着けた一団が歩いてくるのが見えた。その雰囲気はどこか妙な感じがして、現世うつしよの者とは思えぬ気がした。


「業平殿」


 篁はそう業平に声を掛けて、下がらせる。

 腰に佩いている鬼切羅城の太刀はいつでも抜けるように、構えていた。

 一団は輿を担いでいた。輿は簾が下ろされており、中の様子は見えない。

 そして、その一団は篁たちの前までやってくると、そこで止まった。


「小野篁と在原業平ですね」

 輿の屋形の中から声が聞こえてきた。その声は女の声だった。


 業平がその声に答えようと口を開こうとしたが、篁がそれを止めた。

 名を知られることによって、しゅに掛けられる恐れがあるからだ。篁はそのことを以前、陰陽寮の人間から教わったことがあった。


「そちらは?」

「わたくしは玉藻と申します」


 玉藻。それは先ほど九尾狐こと若藻が篁に伝えた、吉備真備の生まれ変わりの名だった。若藻によれば、この玉藻が朝廷を転覆させようとするとのことだ。


「玉藻殿は我らのことをご存知のようだが、我らにどのような御用でしょうか」

 そう言ったのは業平だった。相手が女だとわかったためか、どこか安心した顔をしている。


「少々困ったことがございまして……」

「ほう、どのような?」

 業平は興味を示して、身を乗り出す。


「とある者が、わたくしめの計画を邪魔しようとしているようなのです」

「計画の邪魔?」

「ええ、そうなのです」


 玉藻がそう答えた時、急に空が暗くなり、空で雷が鳴り出した。


「わたくしの邪魔をしないでいただきたいっ!」


 叫ぶように玉藻が言うと、ひと筋の光がすぐ近くの大木に直撃した。落雷だった。大木は真っ二つに裂けるように割れ、炎があがっている。


「な、何のことを言われているのか、わかりませぬぞ」

「業平、お前は知らぬとも、篁は知っておるはずじゃ」


 玉藻の口調が変わった。

 どことなく、真備に似ている気もしたが、篁はその事を口には出さなかった。


「はて、何のことやら」


 篁は御簾の向こうに見える人影を見つめながら言う。

 人影は髪の長い女のようにも見えるが、その後ろにある九つの尻尾を隠しきれていなかった。


 若藻は玉藻が自分の力を奪ったと言っていた。どのようにして奪ったのかはわからないが、御簾越しに見える玉藻の姿は、妖狐である九尾狐そのものであるかのように、篁の目には見えていた。


のことを知らぬとは言わせぬぞ、篁」

「知りませんな。せめて、お顔を見せていただかなくては。御簾を上げてください」


 そう篁は言うと、玉藻の出方を見た。

 すると急に辺りが暗くなった。それは突然、帳が降りたような感じであった。


「た、篁殿」

 業平は突然起きた理解できないことに怯えた声を出す。


「大丈夫です、業平殿。ここは私にお任せください」

 篁はそう言って業平を落ち着かせる。


 辺りが暗くなると、どこからか風が吹いてきた。その風は生暖かく、気持ちの良いものではなかった。

 再び、鈴の音が聞こえた。

 すると、風によって御簾がめくれ上がり、輿につけられた屋形の中が丸見えになった。

 そこにいたのは、白い狐の面をつけた着物姿の女であり、面越しにこちらを睨みつけるような眼で見ているのがわかった。


「あなやっ! た、篁殿っ!」


 業平の怯えた声が聞こえた。

 その方へ目を向けると、業平は尻もちをついて輿を担ぐ布作面の男たちのことを指さしている。

 風によって捲れ上がった布作面。そこには狐の顔があった。男たちは玉藻とは違い、面ではなく本当に狐の顔をしていたのだ。


 それを見た篁は、腰に佩いていた鬼切羅城の太刀を抜き放った。

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