在五(6)
そこにいたのは、ひとりの女だった。和装ではない薄い着物のようなものを身に着けた女だ。唐服なのかだろうか。篁はそんなことを思いながら、女のことを見つめた。
「小野篁様ですね」
女は篁の目をじっと見返しながらいう。
姿かたちは人間の女なのだが、気配は物怪やあやかしの類と同じものがある。篁は、これと同じ雰囲気を持つ者を知っていた。
「そうであるが、
「何者か……。その問いにわたしは答えることはできません」
「では、名前をお教え願えないでしょうか」
「そうですね……」
女は顎に手を当てて少し考えるような仕草をして見せたあと、再び口を開いた。
「
「して、若藻殿は、なぜ私の名をご存じなのでしょうか」
聞き覚えの無い名に篁は、少し警戒しながら若藻に聞く。
「それは、あたなを待っていたからです」
「私を待っていた?」
「ええ。在原業平の夢に出て、あなたを呼ぶように告げたのはわたしなのです」
確かに業平から聞いた話と情景は同じだった。霧、古い寺。しかし、井戸の周りに童子などはおらず、寺の中にも釈迦如来像の姿もなかった。業平の話では、釈迦如来像に『たかむらを連れてこい』と言われたという話だったはずだ。
「貴女はそのようなお力を持っているのですね」
あやかしか物怪だろうか。それとも、花のように冥府の誰かに使える者なのだろうか。
篁は油断せず、いつでも太刀を抜ける状態にしながら、若藻と話を続けた。
「少々荒っぽい呼び方をしてしまいましたが、篁様が来てくれたので安心をしています」
「して、私を呼んだ理由とは?」
若藻の目をじっと見つめながら、篁は問いかけた。
その問いに若藻は少し間を置いてから、口を開いた。
「吉備真備のことです」
若藻の口から出た予想外の言葉に、篁は顔を引きつらせた。
ここでも真備なのか。一体、どういうことだ。篁は心中穏やかではなかった。
「若藻殿は、真備をご存じなのですね」
「ええ。ここまで話したからには、もう隠し立てする必要はありませんね。わたしは真備と共に唐よりこの国へとやって参りました」
その言葉に篁はハッとなった。以前、吉備真備について色々と調べていた際に妙な記録を見つけたことがある。それは、吉備真備が唐より帰国する際に陰陽術の聖典である
「まさか、九尾狐……」
「そのまさかです。あの時、わたしは若藻という十六歳の少女に化けて、この国へと向かう船に忍び込んだのです」
「……その、九尾狐が私に何を望む」
「真備を殺してください」
その若藻の言葉に、篁は驚きを隠せなかった。
「
「真備がこのまま転生を繰り返せば、いずれ朝廷に牙を剥くことになります」
「それは
「いえ。真備自身も同じ考えを持っていました。だからこそ、鍾鬼に体を使わせたのです。真備の本当の狙いは、朝廷を転覆させるということにあります」
「その話、少々無理があるな。いまの真備は若い女子にすぎん」
「いまは、そうでございます。このあと、真備は転生を繰り返します。そして何度か目の転生で、
「ほう。まるで、すべてを見て来たかのような口調だな」
「見て来たのでございます。わたしには、その力があります。藻女は成長すると
「それが朝廷の転覆だというのか」
「はい。恐ろしいことに、玉藻となった真備はわたしの力を自らの中に取り込み、力を増大させていきます」
「九尾……若藻殿の力もか」
「そうなってしまった真備を止められる者は誰もいません。ですので、その前に篁様にどうにかしていただきたいのです」
若藻はそう言うと、篁にひれ伏すように頭を下げた。
「しかし、私が真備をいま殺したところで、あやつは転生を繰り返すだけなのであろう」
「はい。真備は常に前世の記憶を持ったまま転生を繰り返します」
「では意味がないではないか。私が真備を殺したところで、あやつはまた別の者としていまの記憶を持ったまま生まれ変わるだけなのだろう」
「そうではありますが、篁様の持つ、その太刀の力で真備の力を削ぐことが可能です。真備の力が削がれれば、わたしも真備に取り込まれることは無くなるでしょう」
「そうか……」
自分が真備を殺す。以前の姿の真備であるならばまだしも、いまの姿は女子の真備だ。その真備を斬ることはできるだろうか。
それに、この九尾狐だという若藻のいうことを信用してもいいのだろうか。本当は、九尾はとんでもない物怪であり、真備を篁に殺させて自分が朝廷の転覆を狙って
いるということは無いだろうか。
様々な思いが篁の頭の中を駆け巡っていた。
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