在五(5)

 業平の屋敷から篁たちが出発したのは、早朝のことだった。


 昨晩、篁と真備は業平の屋敷に泊まり、朝から交野ヶ原かたのがはらへと向かうことにしたのである。そうと決まると、業平は宴の用意を家人たちにさせ、従者には「本日、篁殿はこの在原業平の屋敷に泊まる故に帰らぬと篁殿の屋敷の者たちに伝えよ」などと手を回したりした。業平のその姿は、どこかはしゃぐ子どものようにも見え、篁は苦笑いを浮かべていた。


 宴では業平が歌を詠んだり、真備がまいを披露したりと盛り上がりを見せ、ひと時の楽しい空間を演出した。また業平の出す酒の肴はどれも食べたことのないような豪華なものばかりで、臣籍降下したものの、この男が平城天皇の孫であるということを思い出させた。


 朝になり、早めの朝餉を業平邸で済ませた篁たちは、馬に乗って交野ヶ原へと向かっていた。


「真備殿もおることだ、交野ヶ原には牛車で向かおうかと思う」


 朝餉の席で業平がそう言った。

 昨晩の宴に続き、業平邸の朝餉も豪華なものであった。川魚が数種類、雁の卵、たけのこ、果物、そして山盛りの強飯こわいいであった。膳の上には少量ながらも沢山のおかずが並んでいる。

 上級貴族の食事とはこういうものか。普段から質素倹約を心掛けている篁は、膳にならんだ料理の多さに驚きを隠せなかった。


は馬で構いませぬ」

「しかし、その着物では馬に乗れぬのでは」

 心配そうな顔をして業平が言う。

 その業平の顔を見た真備は、にっこりと微笑んで答えた。


「男装をいたしますので、心配はご無用にございます」

「ほう、男装とな。それも見てみたいものじゃ」

 業平は嬉しそうな顔をして、自分の膝をぴしゃりと叩いた。

 それが数刻前のことだった。


 篁の従者に着物を持ってこさせた真備は、すぐさま狩衣に着替えて、髪をまげのように結うと烏帽子を被って見せた。


「ほう、着物姿の真備殿も美しかったが、男装姿も様になっておる」

 狩衣姿となった真備を見た業平は目を輝かせながらいった。


「業平様、太刀をひとつお貸し願えませんか」

「おお、良いぞ、良いぞ。我が家には名刀と呼ばれるような太刀がいくつもある」

 業平は嬉しそうにいって、家人に何振りかの太刀を持ってこさせる。


「これ、真備。調子に乗るな」

 篁は真備に強い口調で言ったが、それは子を叱る親のようにも見え、何も事情を知らぬ業平から見ると微笑ましいものと思えていた。


 真備は業平から借り受けた太刀を腰に佩くと満足そうにしている。背筋も通っていることもあり、真備の立ち姿はどこか若い武芸者にも見えなくもない。


 こうして三人は業平の屋敷を出発したのだが、それはちょっとした集団になっていた。馬に乗る三人と、その馬を引く従者。それ以外にも、業平の家人たちが数人ついてきている。業平は普段、鷹狩りに出る時などはもっと大勢の家人を連れているというので、移動するだけでも大騒ぎなのだろうと篁は想像していた。


「真備殿は馬に乗るもの上手であるな」

 業平は自分の脇にいる真備のことをしきりに褒めている。

 褒められた真備の方も満更ではない様子を見せ「まことにございますか、業平様」などといって、嬉しそうに言うものだから、褒めていた業平の方も顔を綻ばせていた。


 なんなのだ、これは。それを少し後ろから眺めている篁は非常に複雑な心境となっていた。真備の正体を知っているのは、自分だけである。転生して今は女子の姿であるとしても、篁にとって真備はあの忌々しき吉備真備なのだ。それに真備は何を考えているのか、わからなかった。なぜ自分についてくるのか。そして、その目的は何なのか。真備のことだ、何か企んでいるに違いない。篁はそう考えていた。


 しばらく馬を進めていると、何やら妙なことが起きていることに篁は気づいた。先ほどまで、天気が良かったはずなのに、なぜか辺りに霧が立ち込めてきている。


「おい、真備」


 そう呼びかけたが、篁の声が聞こえていないのか、真備は業平と会話をしながらどんどんと先へと進んでいってしまう。

 これはまずいぞ。篁は従者に馬を止めるよう指示しようとしたが、従者の姿はどこにもなかった。それどころか、一緒にいたはずの業平の家人たちも姿を消している。


 馬は勝手に道を進みはじめ、霧は濃くなっていく。

 突然、馬がいななき、足を止めた。


 そこは小さな寺の前だった。

 これが業平の話していた寺なのか。篁はそう思いながら、馬からおりると正面にある本堂へと足を進めた。


 たしか、業平の話では本堂の中には釈迦如来像が祀られているはずだ。

 辺りを警戒しながら、篁は気配を殺して本堂の扉を開ける。


 本堂の中は思っていたよりも広く、そして何もなかった。伽藍堂がらんどうである。釈迦如来像など無いではないか。篁は心の中でそう思いつつも、あれは現実ではない、業平の夢の話なのだと思い直していた。


「もし――」

 背後から声を掛けられた。女の声だ。先ほどまで気配などは一切なかったはずだ。篁の背筋が粟立った。相手は現世うつしよのモノではない。そう感じたのだ。


 振り返りざまに篁は腰に佩いていた鬼切羅城の太刀を抜いていた。


「まあ……」


 太刀を抜いて振り返った篁のことを見て、その相手は驚きの声をあげた。

 そして、太刀を抜いて振り返った篁の方も、声こそは出さなかったものの驚いていた。

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