在五(4)

「お待ち下さい、お待ちくだされ」

 廊下から、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。


 顔を見合わせた篁と業平は刀を引き寄せると、その騒がしい声が近づいてくるのを聞いていた。


「あなやっ!」


 そう叫び声がしたかと思うとドタバタという音がして、篁たちの前に業平の家人が転がってきた。


「何事じゃ」

 太刀を手に取り臨戦態勢に入った状態で業平が、その転がってきた家人に問う。

 家人は顔に平手打ちを食らったのか、頬には赤く手形がくっきりと残されていた。


「あれは、女子おなごなどではありませぬ……鬼じゃ」

 そういった家人の鼻からは、ひと筋の鼻血が垂れ出てきていた。


 床の上をドタドタと歩く足音がだんだんと近づいてくる。

 業平は刀の柄に手を掛け、いつでも抜ける体勢に入っていた。


「篁よ、ここにおったか」

 明るい声で姿を現したのは、女子の格好をした吉備きびの真備まきびであった。


 驚いた業平は、突然現れた女子と篁の顔を交互に見ている。

 篁は一瞬引きつったような顔をして見せたが、すぐに顔から表情を消して業平の方に体を向けた。


「業平殿、大変失礼をいたしました。この者は……」

 そこまで言いかけた篁は、まさか吉備真備という名を伝えるわけにもいかないということに気づき口ごもる。


「真備にございます」

 篁が途中で黙ったのを自ら引き取るようにして真備はいうと、業平に対して頭を低く下げた。その顔には笑顔が浮かんでおり、着物の裾で顔の下半分を隠すようにしていた。


「真備……殿と申されるのか……」

 業平は真備の顔をじっと見つめ、真備も業平の顔をじっと見つめ返していた。


貴方あなたは」

「在原業平にございます」

 業平がそう答えると、真備はにっこりと笑みを浮かべた。


「業平殿、大変失礼いたしました」

 そういって、真備はすっと篁の体の影に隠れようとする。

 どういうつもりなのだ。篁は真備の真意が読めず、困惑をしていた。


は篁殿の屋敷でお世話になっております。今宵、篁殿の帰りが遅かったので、つい……」

 真備は眉を八の字に下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべる。


 その表情を見た篁は、真備の恐ろしさをまざまざと実感した。真備はいつの間にか、媚びる女子の表情までも使えるようになっていたのだ。


「そうであったか、それは申し訳ないことをした。私が篁殿を誘ってしまったのです」

 そう業平は真備にいうと、篁を部屋の隅へと連れ出した。


「あの女子は、篁殿のなのですか?」

「何と申されましても……」

「単刀直入に聞かせてもらおう。あの女子と篁殿は男女の関係なのでしょうか」

「馬鹿なことを申されるな。あれは……」


 そう言いかけたところで、業平は手のひらを篁に向けて「それ以上は言われるな」と伝えた。


「では、私が口説いたとしても、問題はございませんね、篁殿」

「業平殿が真備を口説くと……」

 それは篁が考えもしなかったことであったため、唖然とさせられた。


 真備の正体を知らなければ、そうなるかもしれない。篁は真備の顔をまじまじと見た。確かに、真備の現在の姿は容姿端麗な女子おなごである。中身が吉備真備ということを知らなければ、業平のような思いが出てくる男は少なくないかもしれない。


「やめておいた方が良いかと」


 そう篁は業平に伝えようとしたが、すでに業平は篁の前にはおらず、真備へと何やら話しかけている。

 篁が慌ててふたりの元へ駆け寄ろうとすると、それを目の端に捕らえていた真備が業平には気づかれないように、にやりと笑みを浮かべた。


「何やら面白きお話をお二人でしておられましたね」

「ええ、実はここ数日、奇妙な夢を見ておりましてな。それを篁殿に相談していたところなのです」

「夢……でございますか」


 真備が興味深いといった感じで身を乗り出す。

 すると業平と真備の顔が近づき、あと少しで触れあうほどの距離となる。


「そ、そうなのです」

 さすがの業平もこれにはたじろぎを見せ、少し顔を背ける様にしてから先ほど篁に聞かせた話をもう一度真備に語って聞かせた。


「まあ、怖い。でも、篁様を呼んでいるのですね」

「そうなのです」

「では、協力してさしあげるしかありませんね、篁様」

 そういって、真備は篁の方をじっと見る。

 こやつ、何を企んでおる。そう思いながら、篁は口を開いた。


「勝手なことを申すではない」

「だって、篁様のことを呼んでいるのですよ」

「まだ、私であるかどうかは……」


 そこまで篁が言ったところで、業平が割って入ってきた。


「では、真備殿もご一緒にしていただけるということですか。なに、心配はご無用ですぞ。何かありましたら、この在原業平がお守りいたします」

「まあ、なんと頼もしい」


 もう付き合ってはいられぬ。篁は内心そう思いながら、苦笑いを浮かべた。

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