在五(2)
その女が業平の屋敷に姿を現すようになったのは、満月の夜のことであった。
月でも見ながら酒を飲もうかと考え、家人に酒宴の用意をさせた業平が縁側に出てみると、屋敷の庭に何やらぼうっと白い影が見えていた。最初は石灯籠が月明かりに照らされているのだろうと気にしなかったのだが、それがゆっくりと少しずつ近づいてきていることに業平は気付いたのである。
あやかしでも現れたのか。そう思った業平は、普段鷹狩で使っている弓と矢を持ち出すと、その白い影に向かって狙いを定めた。
「お待ち下さい」
業平が弓の弦を引くと、女の声が聞こえた。その声は妙に響のある声であり、現世の者の声では無いということがすぐにわかった。
「何奴じゃ」
狙いを定めたまま、業平は白い影に問いかけた。
すると白い影は見る見るうちに、着物姿の女へと形を変えていった。
「
「私が助けたと?」
身に覚えのない話に、業平は戸惑いを見せた。
交野ヶ原といえば、雉や水鳥が多く生息するため貴族たちが鷹狩を行ったり、酒宴を開き歌を詠んだりする場所である。在原業平といえば、鷹狩の名手として名を馳せており、歌に鷹狩にと貴族たちの行う遊びに関しては右に出るもの無しと言われるような人物だった。
「はい。先日、漁師の釣り糸が足に絡んでいた狐をお助けになりませんでしたでしょうか」
「ああ、そのようなことがあったな」
そう言われて、業平は思い出した。
先日、異母兄である
「まさか、その礼をしに参ったというのか」
「はい。
「ほう、狐狸精の礼とは、どのようなものじゃ?」
「それは……」
狐狸精はそういうと、着ていた着物を脱ぎ一糸まとわぬ姿となってみせた。
その姿は人間の
「まさかとは思いますが、業平殿はその女子を抱かれたのか」
「左様。狐狸精の抱き心地とは、どのようなものかと思いましてな」
業平はそういうと笑ってみせた。
篁は呆れると同時に、業平が何を自分に相談したいのかわからなくなってきていた。
しばらく業平の話を聞いていると、牛車が止まる気配がした。どうやら、業平の屋敷に着いたようだ。
「この話の続きは、酒でも飲みながらいたしましょう」
業平に誘われるがままに篁は屋敷内へ入っていくと、そこにはすでに酒席が用意されていた。
あまりの準備の良さに驚かされるとともに、これはなにかあって自分のことを待ち伏せていたのだなと篁は勘付きはじめた。
「どういうことなのでしょうか、業平殿」
「まあ、そう焦らなくとも」
そう言って業平は篁を席につかせると、篁の盃へと酒を注いだ。
なにか騙されているのだろうか。篁は少し不安になりつつも、その盃を口へと運ぶ。
しばらくの間、業平の話を聞きながら盃を傾けていると、頃合いを見計らったかのように家人がやって来て
部屋の中は暗くなり、庭からの月明かりだけが差し込んできている。
「失礼いたします」
そう声がすると部屋にひとりの女が入ってきた。その佇まいは、闇の中でもわかるほどに美しいものがあった。
「この者が、先ほどお話しさせていただいた、狐狸精です」
業平がそう言うと、女が頭を下げた。
暗がりの中ということもあって、女の顔立ちをはっきりと見ることはできない。
女には、どことなく妖艶な雰囲気があるように感じられた。
ただ、物怪やあやかしが発するような独特な気配というものが女からは感じ取れなかった。
「狐狸精よ、こちらの方は小野篁様じゃぞ」
業平がそう伝えると、狐狸精の女は目を大きく見開いて驚いた顔をして見せた。
その時、ふと篁は何かに気がついた。この女のことをどこかで見たことがあるのだ。それは、どこだったか。
左目の脇にある小さなほくろ。それを篁は見逃さなかった。
まるで篁の思考を邪魔するかのように、女は空いた篁の盃へと酒を注ぐ。
「どこぞでお会いになったかな?」
冗談めいた口調で篁は言ったが、その眼は一切笑ってはいなかった。
篁は幼き頃より、物怪やあやかしが見える体質だった。そのため、現世の者と常世の者の見分けくらいは簡単につけることができた。この女は狐狸精などではない。現世の人間である。
「まあ、御冗談を」
狐狸精だという女は笑って誤魔化す。
やはり、その左目の脇にあるほくろには見覚えがあるのだ。
「この篁の目は欺くことはできないぞ。そなたは――」
「して篁殿、私の相談なのですが」
篁の言葉を遮るかのように業平は言い、狐狸精の女を下がらせる。
業平の手により、盃に酒を満たされた篁は、自分は試されているのだろうかと考えていた。
「先ほどの狐狸精というのは、ただの余興。本題はここからでございます」
「試されたか、業平殿」
「いえ、決してそのようなことはございません」
篁の言葉に業平は慌てて否定をしたが、口元には笑みを浮かべている。
「あれは、どこぞの女房であろう。内裏で見た記憶があるぞ」
「さすがは篁殿、見事な眼力の持ち主。大変、失礼いたしました」
「やはり、試されたか」
篁は強い口調で言ったが、業平同様に口元には笑みを浮かべていた。
「大変申し訳ありませんでした。篁殿のお力はわかりました故に、本題に入らさせていただきたいと思います」
謹んだ様子で業平は言うと、家人を呼んで、燈械に再び火を灯させた。
回りくどいことをするものだ。篁はそう思いながら盃を傾け、業平の言葉を待つ。
「実は――」
業平は真剣な面持ちで語り始めた。
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