在五

在五(1)

 平安京たいらのみやこで最近、体貌たいぼう閑麗かんれいと騒がれるひとりの男がいた。

 阿保あぼ親王の五男であり、名を在原ありわら業平なりひらといった。


 この在原業平を表す言葉に『体貌閑麗、放縦ほうしょうにしてかかわらず、ほぼ才学無く、善く倭歌わかを作る』というというものがある。これは、現代風に訳せば『美男で気まま、官人として必要な漢詩文などの学才はないが、恋情などを書いた和歌を得意とする』といった感じだろうか。この在原業平の評については、日本三代実録という史書に書かれていることなので、本当のことなのだろう。

 また在原業平は、伊勢物語の主人公である昔男と同一人物ではないかとされてきていたが、近年の研究では、伊勢物語は業平自身の物語ではなく、業平が作った和歌をもとに書かれた作品であるとされる。

 

 業平は左近衛府将監しょうげんという役職についている武官であり、内裏の警護を行うのが主な職務である。

 その姿をひと目見ようと、昼間から女官や女房たちが用もないのに左近衛府を訪れてみたり、竹垣の隙間や生い茂る木々の向こう側から覗いてみたり、中には職務を終えて内裏から出てくる牛車の後をつけたりと、業平の体貌閑麗なその姿をひと目見よう女たちが大騒ぎしているという噂があった。


 このような噂は、内裏にある昭陽舎しょうようしゃにまで届いていた。

 昭陽舎は東宮御所として使われており、庭に梨の木が植えられていることから梨壺なしつぼという通称で呼ばれていた。


「このところ、女どもが騒いでおるようじゃな」

 そう篁に告げたのは、道康みちやす親王だった。


 篁は東宮学士の職についており、東宮である道康親王に対して梨壺で学問を教えていた。


「阿保親王のところの五男である、在原業平殿ですな」

「そうじゃ。業平は良いのう。まつりごとは気にせず、歌を詠んでおればよいのじゃから。羨ましいかぎりじゃ」

「なにをおっしゃいますか。東宮様は次のみかどになるという重要な役目があるのですぞ」

「いっそのことすべてを投げ出して、私も臣籍降下をしてしまおうか」

「冗談でも言ってはならぬことがございますぞ」

 篁はきつく道康親王にいう。


「わかっておる。しかし、あやつが内裏におるというだけで、女官どもが騒ぐのだから、羨ましい限りよ」

「東宮様」


 篁は道康親王に書を読むことに集中させようと、部屋のすだれをおろすように下官たちに命じた。


 在原業平は阿保親王の五男、すなわち平城天皇の孫に当たる人物である。

 道康親王は平城天皇の弟であった嵯峨天皇の孫であることから、ふたりとも桓武天皇のひ孫という立場にあった。しかし、東宮(皇太子)という立場の道康親王と臣籍降下し在原という姓を手にした業平とでは格が違い過ぎた。

 業平は臣籍降下したことを良いことに、あちこちの女に手を出しているという噂もあったが、実際には眉目秀麗であり、気品あふれる立ち振る舞いをする業平のことを追いかけている女たちが居るといった方が正しかった。


 篁が業平と出会ったのは、内裏を出て大内裏内を朱雀門に向けて歩いている時であった。篁はいつものように牛車には乗らず、広い大内裏内を徒歩で移動していた。


「もし、小野篁殿ではございませぬか」

 後ろからやってきた牛車の中より声を掛けられ、篁は足を止めた。


「いかにも、私は小野篁ですが」

「このような場所から失礼いたします。私は阿保親王の五男にて、在原業平と申します」

 牛車の簾を開け、業平が顔を覗かせる。その顔立ちは美しく整っており、牛車の中に座っている姿を見ただけでも気品が漂っていた。在原業平は、噂通りの体貌閑麗な男である。


「お初目に掛かります、業平殿」

 篁はそう言って、頭を下げた。たとえ臣籍降下をしたとしても、業平はかつての帝の血を引く人間である。そういったところを弁えている篁は、相手が若くともきちんと礼を尽くすようにしていた。


「お顔をおあげください。少し、お話をしたいのですが……」

 遠慮がちに業平は言う。


 その言葉に、篁はなにか嫌な予感を覚えつつも、無下に断ることもはばかられるとも思い、篁は業平の牛車へと乗り込んだ。

 篁が牛車に乗り込むと、業平はすぐに簾を下ろして、外から中の様子が見えないようにした。


「して、お話とはなんでございましょうか」

「篁殿は、様々な教養があると聞いておる。漢詩に歌、そして……」

「そして?」

物怪もののけにも詳しいと聞いた」

 業平は何かをうかがうような表情を浮かべながら、篁に言った。


「何か、お困りごとでも」

「それが……」

 業平は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

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