吉備真備(7)

 冥府裁判所へと辿りついた篁と真備は別棟の部屋へと通され、そこで待つように指示された。

 この部屋は、篁も初めて入る部屋だった。

 しばらく待っていると、部屋に赤ら顔で顔の下半分を髭で覆った道服の偉丈夫が入ってきた。閻魔大王である。


此度こたびのことは、ご苦労であったな」

 そうふたりをねぎらいながら、閻魔は倚子いしへと腰をおろす。

 閻魔の身体は巨体であり、座っていても立っている篁の身長よりも大きかった。


「ほれ、返すぞ」

 真備はそういって、包みの中から琵琶を取り出して閻魔に渡す。

 その琵琶を見た閻魔は眉間に皺を寄せて、苦い表情を浮かべた。


「王貴人程度では、をどうすることも出来ぬわ。そう女媧に伝えよ、閻魔」


 渋い顔をしながら、閻魔は受け取った琵琶の前で手をポンと叩く。

 すると琵琶は見る見るうちに人の形となり、王貴人の姿となっていった。琵琶から人となった王貴人は先ほどのような鎧を着こんだ姿ではなく、唐人の女性が着るような薄い着物を羽織っている。

 王貴人は真備の姿を見ると怯えるように、閻魔の座る倚子の後ろへと隠れてしまった。


「牛鬼はどうなった?」

「そういえば、目的はそっちであったな。あの物怪は木っ端みじんに砕け散ったわ」

「そうか。ご苦労だった」

 閻魔はそう言うと話はこれで終わりと言わんばかりに、倚子から立ち上がろうとした。


「おい、待て。それだけなのか?」

 立ち上がろうとした閻魔を真備が呼び止める。


「それだけ……というのは?」

「どうせ、あんたが女媧と相談して、我に王貴人を差し向けたのであろう。そこまでして、女媧は金烏玉兎集きんうぎょくとしゅうを取り戻したいのか」

「しかし、盗んだのはお前だ、真備」

「己で取り返しにくれば、返してやるものを」

 真備はそういって、懐から巻子本かんすぼんを取り出し、机の上に置いた。


「これは……」

「紛れもなく、金烏玉兎集じゃ。もう、我にこのような物は必要ない。すべて頭の中に入っておるし、様々なものを組み合わせた陰陽道に比べれば、過去の遺産に過ぎん。返しておいてくれ、閻魔」


 真備はそういって、部屋から出て行ってしまった。

 残された篁は閻魔と顔を見合わせた後、慌てて真備の後を追うように部屋を出た。


「真備、良いのか。あれは阿部仲麻呂から託されたものではないのか」


 金烏玉兎集は陰陽五行の秘術が書かれた書物であるとされており、吉備真備が唐より持ち帰ったものだった。当初、真備は唐でこの金烏玉兎集を見せてほしいと頼んだのだが、それを断られたため阿倍仲麻呂に頼んで持ってきてもらった(盗ませた)という話がある。金烏玉兎集は後に安倍晴明が編集し、陰陽道の秘伝書となったという話もある。そして、阿倍仲麻呂の子孫が安倍晴明であるという説もあり、吉備真備が晴明の代まで金烏玉兎集を伝えさせたといった伝説も残っている。


「問題ない、写しがある。巻子本のような古臭いものではなく、草紙にしてあるわ。それに、金烏玉兎集に書かれているような古臭い術ではなく、いまの陰陽道の方が優れておる。もちろん、古臭い術でも廃れてしまった術式もあるがな。それに関しては我が阿倍仲麻呂の子孫に伝えればよいだけじゃ」

 そういうと真備は、にっこりと笑って見せた。


 中身はあの吉備真備であることは間違いないのだが、外見はどこからどうみても美しい女子おなごであり、篁はどこか複雑な気持ちになっていた。


「おい、篁。我は腹が減ったのじゃ。さっさと、お主の屋敷に戻って飯をたらふく食わせてくれ」

「わかったよ」


 こうして、ふたりは現世へと戻っていくのだった。

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