吉備真備(5)

 古井戸から這い出てきた牛鬼の身体は巨大であった。

 そして、その身体からは何とも言えぬ独特な臭いを放っている。それは人を喰らう物怪もののけが発する特有の臭いであるということを篁は知っていた。


 牛鬼と対峙した真備は口の中で何かをぶつぶつと唱えながら、印を結ぶ指をせわしなく組み替えている。


「若い女を喰らうのは、ひさしぶりじゃぞ」


 牛鬼はそう言うと四本の足を凄い速さで動かし、真備へと距離を一気に縮めてきた。

 しかし、真備はその場から動かず、まだ印を結んでいる。


 真備の目の前に迫った牛鬼は、その大きな口を開けて見せた。

 口の中には大小さまざまな牙が生えており、ひと口で真備の身体など真っ二つにしてしまうことができるほどに、開けた口は大きかった。


 そして、その大きな口は真備の身体を飲み込もうとする。


「愚か者め」

 真備は大きな口を開けた牛鬼を見てそう呟く。


 蒼い光が見えた。その光は真備の指先から発されている。

 真備がその光る人差し指と中指を揃えて牛鬼のことを指すようにすると、空で雷鳴が轟いた。


 その光景に篁は見覚えがあった。

 藤原広嗣の亡霊を爆死させた召雷の術である。


ばくらいしょう


 真備がそう言葉を発すると同時に、辺りは蒼い光に包まれる。

 それと同時に轟音が響き渡り、牛鬼の身体がぜた。


 あまりに一瞬の出来事で、篁は呆然としながらそれを見つめていた。


 牛鬼であった物体の肉片は辺りに飛び散り、少し遅れて天から血の雨が降り注いだ。

 先ほどまで大きな口を開けていたはずの牛鬼が居た場所には、何も残されてはいなかった。


「終わったぞ、篁」

 真備はそういうと、つまらなそうな顔をして篁の前にやってきた。


 もし、吉備真備と争うことになったとして、自分は勝つことができるだろうか。篁はそんな想像をして、じっとりと背に嫌な汗をかいていた。


「さあ、引き上げようぞ、篁。は腹が減った。お主の家で何か食わせてくれぬか」

 真備はそう言い、さっさと廃寺の敷地から出ていこうとする。


 次の瞬間、篁は腰に履いていた鬼切羅城を抜き放っていた。

 青白い光をまとった刀身は、邪のモノに対して反応を示すとされている。


 真備は跳び下がるようにして篁から距離を取った。


「まだ、終わってはいないぞ、真備」

 篁は真剣な顔で真備を見ながらいう。


 真備も気づいたらしく、にやりと口元に笑みを浮かべる。


「そのようじゃな、篁」


 地響きに似た振動が足に伝わってきていた。

 先ほど、爆ぜて散らばったと思っていた牛鬼の肉片はそこには無く、朽ちた井戸からは再び瘴気があふれ出してきていた。


「あの井戸ごと吹き飛ばしてやるわ。爆・雷・召っ!」

 真備はそう言うと、再び印を結び召雷の術を使い、井戸に向かっていかずちを落とした。


 轟音が響き渡るかと思っていたが、真備の放ったいかずちは井戸に届く前に、周りを覆っている瘴気によってかき消されてしまった。


 どこからか琵琶びわに似た音色が聞こえてくる。

 その音に篁と真備は顔を見合わせたが、警戒は緩めなかった。


 瘴気の中に白い影が浮かび上がってくる。

 それは次第に人の形を成していった。


「吉備真備か……。その名は聞いたことがあるぞ」

 白い影の中から聞こえてきたのは、透き通るような女の声だった。


「たしか100年ほど前に、我が国より道教の秘伝を盗んだ者も同じ名だったな。しかし、それは男だったと聞いたが」


 瘴気の中から現れたのは、唐の武官が着るような鎧に身を包んだ、髪の長い女だった。


「吉備真備とは、のことよ」


 真備はそう女に告げると、持っていた扇子を女に投げつけた。

 女はその扇子を腰に佩いていた剣を抜いて斬り落とす。


「無礼な女だ。やはり盗人ぬすっとか」

「どっちが無礼じゃ。名ぐらい名乗られよ」

「我が名は、ワン貴人グェイレン。女媧様のめいを受け、お前の盗んだ金烏玉兎集きんうぎょくとしゅうを取り戻しに来たのだ」

 女はそう名乗ると、持っていた剣の先を真備に突き付けた。


 金烏玉兎集とは、吉備真備が唐より持ち帰った道教の陰陽五行説の秘術が書き記されたとされる秘書であった。真備はこの金烏玉兎集を手に入れるために、阿部仲麻呂の中に入り込んでいた鍾鬼に嘘をついて自分のもとへと持ってこさせ、そのまま日本へと持ち帰ったのであった。


「わざわざ金烏玉兎集を取り戻すために、唐から出向いてきたというわけか。ご苦労なことじゃな」

「先ほどお前の使った爆雷召の術。あれは金烏玉兎集に書かれていた秘術のひとつ。お前が盗んだということは術が証明してくれたわ」

「黙っておれば人聞きの悪いことを。我は盗んだりはしておらぬ。阿部仲麻呂から金烏玉兎集を受け取ったに過ぎぬ」

「お前が晁衡ちょうこうを騙して盗ませたのであろう、真備」


 晁衡というのは、阿倍仲麻呂の唐での名前である。仲麻呂は唐で科挙に通り、唐の高官となっていたため、阿倍仲麻呂という名を捨て晁衡という唐名を名乗っていた。


「だったら何だというのじゃ」

 まるで開き直ったかのように真備はいう。

 その様子に王貴人も驚いた顔をしてみせた。


「おのれ、真備。許さんぞ。金烏玉兎集を返せ」

 王貴人はそう言うと剣を振り回して、真備に襲い掛かった。


 繍鸞刀しゅうらんとう。王貴人の持つ剣はそう呼ばれる宝剣であり、王貴人の愛刀でもあった。鸞刀らんとうとは中国の想像上の赤い羽根を持つ鳥である鸞鳥らんちょう鳳凰ほうおうたぐいとされている)の形の鈴をつけた刀であり、古代中国では祭祀の生贄いけにえを裂くのに用いたものであった。


「返してほしくば、奪ってみせよ」

 真備は王貴人を挑発するように言うと、素早く印を組みなおして、地の中より一本の剣を出現させた。

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