吉備真備(4)

 牛鬼が姿を現したという噂があったのは、右京の外れにある、名も無き寺の古井戸であった。


 平安京へいあんきょうは朱雀大路を挟んで、右京と左京にわかれている。それは大内裏から見た右と左でわけたものであり、東側の左京には多くの公卿や朝廷関係者たちが屋敷を構えていたが、西側の右京は土地が低く、川の氾濫なども多いことからあまり人気ひとけがなかった。右京の辺りは、元々湿地帯であった。そのため、家などを建てる場所としても適しておらず、平安京に住む多くの人が東側の左京に住居を構えるようになっていた。


「酷い臭いだな、ここは」

 扇子で顔の下半分を隠すようにして真備が言う。

 その臭いは長期間放置された汚泥が放つものであり、コバエなどの羽虫が飛び交っている。


「本当にこんなところに牛鬼とやらがいるのか、篁」

「三日ほど前に、この先にある寺で見たという者がいる」

「それは本当に牛鬼だったのかのう。見間違いだったとかでは済まされんぞ」

「まずは己の目で確かめる必要があるだろう」

「まあ、それはそうじゃな」

 そんな会話をしながら篁と真備は、その寺に向かって進んでいった。


 時おり、すれ違う人もいた。右京といえども、住んでいる人間もいるのだ。現に篁も無位のころは右京に住まいを構えており、そこで暮らしていた。


「あの寺ではないか」

 篁が指さした場所には、半分朽ちかけている門扉を構えた寺が存在していた。寺の周りには雑草が生い茂っており、どこが道なのかわからないような状態になっている。


「酷いのう。誰も管理をしておらぬのか」

 雑草をかき分けるようにしながら篁と真備は道を進んでいくと、寺の敷地内に足を踏み入れた。寺の敷地内には、嫌な臭いが立ち込めている。


「おい、篁」

「わかっている」

 ふたりは身を構えた。そこには不穏な空気が漂っているのだ。


 噂の古井戸というのは、すぐに見つけることができた。井桁いげたの部分は木が腐ってしまっており、周りは苔むしていて変色している。

 牛鬼の姿はどこにも見当たらないが、その井戸周辺には黒い霧のようなものが立ち込めていた。瘴気しょうき。そう呼ばれる魔のモノが現れる際に出てくるものである。


 真備はその場に立ち止まると、口の中で何かをブツブツと唱えだしており、指を何度も組みなおしたりしている。それは陰陽道に伝わる印を結ぶという儀式らしい。

 篁は腰に佩いている太刀である鬼切羅城へと手をのばした。


「準備はいいか、篁。邪を払うぞ」

「ああ」


 その篁の返事を聞いた真備は指を弾くようにして鳴らした。

 パンッという空気が裂けるような音が辺りに響き渡る。

 その刹那、目の前にあった古井戸が逆流したかのように、古井戸の中から瘴気があふれ出してきた。その勢いは凄まじく、一瞬にして辺りが瘴気に包まれて行く。


「動くでない、篁。ここは結界を張ったら大丈夫じゃ」

 真備はそういいながら、また指をせわしなく組み替えていく。


「わしの邪魔をするのは、誰だ」

 地の底から響くような声が聞こえてきた。

 しかし、その姿はまだ見えては来ない。


「姿を見せよ、牛鬼」

「誰じゃ、お前は」

「吉備真備よ」

「聞いたことのない名だな」


 井戸の中から細長く黒い腕のようなものが姿を現す。

 どうやら、牛鬼は井戸の中に姿を隠しているようだ。

 二本の腕が出てきた後、鬼の角に似た尖ったものが見え、ついには顔が現れた。

 目は黄色く濁っており、牙の生えた口がある。

 その姿は鬼そのものであったが、さらに現れた身体を見て篁と真備は度肝を抜かれた。

 腕とも足とも思えるものが全部で六本。まるで虫のように体の脇から生え出ている。胴体は牛のように大きく黒光りしていた。


「なんなんじゃ、あれは」

 思わず真備がつぶやく。


 どことなく、牛鬼の姿は鬼の頭をした牛というよりも蜘蛛に近い形をしている。しかし、蜘蛛のように手足が八本あるわけではなく、手足は六本であり、その手足はどこか人間に近いものであった。


「なんじゃ、吉備真備というからどんな男がいるのかと思えば、女子おなごではないか」

「女子だからなんじゃ。お前はその女子にこれから退治されるのじゃぞ」

 真備は笑いながら言うと、再び指を使って印を結びはじめた。


「篁よ、下がっておれ。ここは我がやる」

 その言葉に篁はどうするか迷ったが、真備がどのくらいの力を持っているのかを見てみたいという思いもあり、ここは真備に任せることにした。

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