吉備真備(2)

 吉備きびの真備まきびは奈良時代の公卿であり、官位は正二位・右大臣であった。

 遣唐使船に乗って二度の入唐を果たしており、最初の入唐は留学生として十八年もの年月を唐で過ごした。二度目の入唐時は遣唐副使としての入唐であり、一度目の入唐時に共に唐へと渡った阿部あべの仲麻呂なかまろの尽力により、破格の厚遇を持って迎え入れられていた。また帰りはあの鑑真和上と共に遣唐使船に乗り、無事に帰国を果たしている。


 真備には友と呼べる男が一人いた。一度目の留学の際に共に入唐を果たした阿部仲麻呂である。仲麻呂は帰国をせず唐で科挙に合格し、唐で高官となった。そして、真備の二度目の入唐を手助けしたのだが、この時にはすでに仲麻呂は真備の知る仲麻呂では無くなっていた。

 仲麻呂は唐では晁衡ちょうこうと名乗っており、完全に唐の高官となっていた。ただ、それは表向きの姿である。仲麻呂は自分の夢を叶えるために、鬼に身体を乗っ取られていたのだ。その鬼の名は鍾鬼しょうきといった。鍾鬼は唐に住み着く悪鬼であり、鬼神とも呼べる存在である。鍾鬼は人の夢を喰らうことによって力を蓄える鬼神であった。仲麻呂は、唐の科挙に合格するという夢を叶えるために鍾鬼と契約をし、その夢を叶えて唐の高官まで昇りつめた。そして、身体を鍾鬼に乗っ取られたのである。


 ある時、真備が唐の役人との行き違いから、恨みを買ってしまうということが起きた。真備はろう(高い塔のような建物)に閉じ込められてしまったのである。そこへ駆け付けてくれたのが阿倍仲麻呂であった。しかし、この時の仲麻呂はすでに鍾鬼に身体を乗っ取られており、中身はまったくの別人であった。


 鍾鬼が真備を助けに来た理由。それは真備の身体を手に入れるということだった。鍾鬼は夢を喰らって生きていく鬼である。すでに仲麻呂の夢は喰らい尽くしてしまったため、新たなる野望に満ちた夢を真備から喰らおうと考えていたのだ。


 そして、真備は鍾鬼と契約を結んだ。もちろん、ただで契約を結んだというわけではない。真備は鍾鬼に金烏玉兎集きんぎょくとしゅうと呼ばれる陰陽道にまつわる秘伝書を持ってこさせ、その金烏玉兎集を日本へと持ち帰った。


 日本に戻ってきた真備は、朝廷で右大臣にまで出世し、八十一歳で現世を去った。

 そして、その肉体は鍾鬼によって冥府でよみがえり、現世へと姿を現したのだった。

 それが篁の知る、吉備真備という人物である。



「一体どういうことなんだ」

 冥府にある閻魔大王の屋敷で、篁は思わず声を上げてしまっていた。


 宴の席が開かれていた。出席しているのは、閻魔大王と花、篁であり、そこへ吉備真備がやって来るという話であった。

 酒を飲みながら話をすればいい。閻魔はそう篁に告げて、盃を傾けていた。


 しかし、蓋を開けてみれば、やってきたのは篁の息子である利任くらいの若い女であり、彼女は篁の前で頭を下げて名乗った。


「吉備真備にございます」


 何が起きているのか、篁には理解ができなかった。

 私は騙されているのだろうか。篁はそう考え、隣に座る花の顔をじっと見つめるが、花は笑みひとつ浮かべずに篁の顔を見返してきた。


「一体どういうことなんだ」

「落ち着け、篁。お前の言いたいことはわかっている。だが、彼女が吉備真備だ」

 閻魔はそう説明したが、篁の頭は一向に追いついてはこなかった。


「輪廻転生という言葉があるのは存じておるな、篁」

「知っている。仏教の言葉であろう」

「左様。この冥府には六道というものがあり、そこで生まれ変わりの道を決めている。吉備真備の魂はこれまでに三度輪廻転生を繰り返してきた。そして、四度目の姿が、この姿となったのだ」

 閻魔の説明を聞いた篁は理解をすることはできた。しかし、現実に考えが追い付いてこないのだ。


 かつて篁が死闘を繰り広げた吉備真備という人物は、烏帽子を被り、道服を身に纏った男であり、雷を操る陰陽師でもあった。あの時の真備の身体はすでに鍾鬼に乗っ取られていたが、あれこそが吉備真備であった。

 それがどうなれば、このような若い女となるというのだろうか。


「安心せい、篁。は、前世の記憶を持ち合わせておる。だから、篁のことは存じておるぞ」

 そう口にするのは若い女である。

 篁は頭を抱えると、閻魔の方を見た。


「問題は無いであろう。真備の陰陽師としての腕も健在だ」

「そういう問題では無い」

 篁はそう言うと、盃を呷った。飲まなければやっていられない。


 閻魔からの依頼。それは吉備真備と共に、六道のひとつである地獄より現世へと逃げ出した牛鬼うしおにを退治してほしいというものであった。


 牛鬼というのは、冥府にいる牛頭ごずのような牛の頭をした羅刹らせつとはまったく違った存在である。牛鬼は、牛の頭で体が蜘蛛のようであったり、頭が鬼で体が牛という場合もある。また牛鬼に関しての伝承は各地に残されており、その大半で牛鬼は非常に残忍で獰猛な性格であり、毒を吐き、人を食い殺すといったものが伝えられている存在だった。


「篁よ、は何の問題もない。さっさと牛鬼とやらを退治しに行くぞ」

 若い女の姿をした真備は篁に向かって言うと、席を立ちあがった。


 これは参ったな。篁は苦笑いを浮かべながら、閻魔の屋敷を出ていこうとする真備の後を追った。

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