吉備真備

吉備真備(1)

 小野おののたかむら東宮とうぐう学士がくしに就くのは、二度目のことであった。

 東宮学士というのは、簡単にいってしまえば東宮(皇太子)に学問を教える役職のことである。


 皮肉なことに一度目は恒貞つねさだ親王の学士であり、二度目となる今回は此度の承和の変によって東宮の座を恒貞親王と代わった道康みちやす親王の学士として選出されたのだった。

 二度も東宮学士に選出されるということは、それだけ篁の知識が優れているということを示しているといっていいだろうし、帝からの信頼が厚いということなのだろう。


 新しく役職に就いたのは、篁だけではなかった。承和の変によって、大きな朝廷内の人事入れ替えが発生したのだ。特に東宮に関係する役職は総入れ替えとなり、恒貞親王についていた者たちは全員が左遷となるか、罪に問われて流罪となった。

 また帝は、これを機に自分の意に反する者たちの一掃も図った。特に嵯峨上皇の意を受けて朝廷の重臣となっていた者たちである。


 そういった大きな人事の中で、ひと際目立って出世した者がいた。藤原ふじわらの良房よしふさである。良房は新たに東宮となった道康みちやす親王の外伯父という立場と、承和の変での功績を称えられ大納言へと昇進をはたした。大納言であった藤原ふじわらの愛発ちかなり、中納言であった藤原ふじわらの吉野よしのらは、承和の変の責任を問われて失脚しており、良房は朝廷内での影響力を一段と強めていっていた。



 八月の蒸し暑い夜。

 篁は屋敷にある小さな池を見ながら、ひとりで盃を傾けていた。


 式部しきぶ少輔しょう。それは東宮学士と共に篁に与えられた新しい役職であった。

 式部省は、文官の名簿管理や朝廷の儀式、官吏の登用試験などの教育全般を司る機関である。篁はいままで刑部省や弾正台といった罪人の処罰や役人の不正の処罰などに関する仕事を多くしてきたが、式部省のような仕事はまったく毛色の違ったものであり、それはそれで面白いものだと思っていた。


 池の周りには、いくつかの小さな明かりが見えた。蛍である。篁はその蛍の姿を見ながら盃を傾け、なにか良き歌でも思い浮かばぬものかと考えていた。

 しばらく蛍の姿を見つめていた篁であったが、ふと何かの気配に気づき、床に置いていた太刀へと手を伸ばした。


「お待ち下さい、篁様」

 声が聞こえた。女の声である。

 その声を聞いた篁は、太刀へと伸ばしていた腕を止めて、笑みを浮かべた。


「なんだ、か。脅かすでない」

「失礼いたしました」

 そう声が聞こえたかと思うと、一匹の蛍が篁のすぐ近くまで飛んできて姿を消した。

 すると不思議なことがおきた。

 篁のいる縁側に、いつの間にか水干に烏帽子という男装姿の女性が姿を現したのだ。

 その女性は男装姿であるにもかかわらず、どこかあでやかであり、なまめかしさを感じさせた。


「篁様、朝廷への復帰おめでとうございます」

 花は朱を差したような唇に笑みを浮かべながらいう。


「して、何のようかな。まさか、私の朝廷への復帰祝いに駆けつけたというわけではあるいまい」

「まあ」

 篁の口から出た皮肉に、驚いた様子で花はいう。しかし、その唇には笑みが残ったままであった。


「どうせ、閻魔が私に仕事をさせようというのだろう」


 花は閻魔大王の眷属けんぞくであり、冥府では司命しみょうという書記官を務めている。


「そこまでお読みでしたか、篁様」

「やはり、そうか」

 半分冗談で言ったつもりだったが、まさか本当に閻魔の頼み事を花が持ってくるとは。篁は苦笑いをしながら盃を一気に呷った。


吉備きびの真備まきびのことは覚えておいででしょうか」

 その名前を花の口から聞いた時、篁は盃を持っていた手を止めた。


「……真備がどうかしたのか? あれは鍾鬼しょうきに身体を乗っ取られて」

「身体は乗っ取られ、そして滅びましたが、魂はいま冥府におります」

「なんと……」

「閻魔が篁様にご説明したかと思いますが、吉備真備は生前は篁様と同じように閻魔の仕事を手伝っておりました」

「ああ、聞いている」


 吉備真備は篁よりも一〇〇年以上前(奈良時代)の朝廷で活躍した人物であった。遣唐使で唐に渡り、帰国後の朝廷では右大臣にまでなった人物である。しかし、真備は唐にいた頃に自分の夢を叶えるのと引き換えに、鍾鬼と呼ばれる鬼と契約を交わしてしまった。その契約というのが自分の死後に肉体を鍾鬼に与えるというものであった。

 鍾鬼は約束通り、真備の夢を叶え、そして真備の死後に肉体を乗っ取った。そして、その肉体を使って現世うつしよ常世とこよの王となろうとしたのだった。

 しかし、その鍾鬼の企みは、隠岐の島でスサノオの力を借りた篁によって打ち破られた。


「真備が是非とも篁様にお会いしたいと申しておりまして」

「それと閻魔の仕事が関係しているというのか」

「そんなところでございます」

「ふむ……」

 篁はため息交じりに呟いた。どうせ断ることはできないのだろう。それに閻魔のことだ、面倒事を持ち込んできたに違いない。それは、そんな色々な気持ちが混じり合ったため息であった。


「では、参りましょうか、篁様」


 花は微笑むと篁の手を取って立ち上がる。

 仕方ない。篁は諦めたように盃を置くと、立ち上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る