余談、承和の変について

 今回は「承和の変」について少々語ります。

 学校の日本史の授業には出てこないであろう「承和の変」。

 そもそもどういったことが「承和の変」だったのかを説明しながら書いていきたいと思います。


 本編では歴史のお勉強とならないように、気を付けながら物語として描いてきました。そのため、少々「承和の変」が何だったのかがわかりづらかったのではないかと思いましたので、ちょっとした解説を書かせていただきます。


 あ、歴史の勉強とか興味ない人は読み飛ばしてしまっても、物語本編への影響はありませんので大丈夫です。ここで語っているのは、ほぼ作者の趣味みたいなものですから。

 それでは、承和の変について語っていきましょう。


 承和の変。そもそものきっかけは、嵯峨上皇の崩御でした。

 嵯峨上皇は天皇から退いた後も上皇として、かなり権力を持った人でした。

 天皇時代には、兄であった平城上皇一派が再起を図ろうと「薬子くすこの変」を起こしました(薬子というのは、平城上皇の愛妾であった藤原ふじわらの薬子くすこらが中心となって企てた謀反であったため「薬子の変」と呼んでいたが、2003年頃の高校の教科書より「平城太上天皇の変」と呼ぶように変わったらしいです)。いわば、謀反未遂というやつです。この時、嵯峨天皇は坂上田村麻呂に軍を率いさせて謀反を未然に防ぎ、平城太上天皇(上皇)を出家させて力を削いだということがありました。


 それから三〇年あまり、嵯峨天皇の統治下の平安京では大きな事件や反乱、謀反などは起きてきませんでした。それは嵯峨天皇が強い力を持って、朝廷を支配していたからでしょう。


 嵯峨天皇は退位して上皇になった時、弟である淳和じゅんな天皇に天皇の座を譲りました。淳和天皇は温厚な人間で、嵯峨上皇のような強い力を持ってはいませんでした。そして、淳和天皇は自分の東宮(皇太子)として、嵯峨天皇の子息である正良まさら親王を立てたのです。正良親王は後の任明にんみょう天皇であり、物語内での今上天皇、すなわちみかどですね。

 その後、淳和天皇も退位して任明天皇に天皇の座を譲り上皇となりました。その際に、次の東宮は淳和上皇の子息である恒貞つねさだ親王とするべきだと、嵯峨上皇が口出しをしました。淳和上皇は恒貞親王を東宮としても後ろ盾となる人間がいないので、恒貞親王は東宮とすべきではないと異論を唱えましたが、嵯峨上皇は聞く耳を持たず、そのまま恒貞親王を東宮としてしまったのです。

 これが、承和の変の最初のきっかけとも言えるでしょう。


 嵯峨上皇が生きている間は、これでも良かったかと思います。恒貞親王は嵯峨上皇が推して東宮となったのだから、次の天皇となるべきだという考えが人々にはありました。


 しかし、その後ろ盾であった嵯峨上皇が崩御したため、話が変わってきてしまいました。


 実は仁明天皇は、自分の息子である道康みちやす親王を東宮としたかったのです。それはそうですよね。親であれば、自分の子に後を継いでもらいたいという気持ちはあるでしょう。仁明天皇の考えもそうだったのです。その考えは仁明天皇だけのものではありませんでした。

 仁明天皇の母親である檀林だんりん皇后(嵯峨上皇の妻。たちばなの嘉智子かちこ)も同じ考えでした。そりゃあ、自分の孫を次の天皇にしたいですよね。

 それに呼応するかのように、中納言だった藤原良房もその意見に賛同したのです。


 藤原良房に関していえば、父は左大臣・藤原冬嗣。妹は仁明天皇の妻。そして、自信の妻は嵯峨上皇の娘(降嫁してみなもとの潔姫きよひめ。臣籍降下後の結婚だが、現存している史料では、臣下の妻となった初めての皇女)。さらに自身は、仁明天皇がまだ東宮だった頃の春宮亮とうぐうのすけ(皇太子の政治を司る機関である春宮坊の次官)として仁明天皇を支え、非常に親しい間柄だったという、篁に劣らない、いやそれ以上のチート野郎なんです。


 道康親王の母親は、良房の妹であり、良房からすれば道康親王は甥だったのです。誰だって甥っ子が皇太子になった方が嬉しいですよね。


 といった感じで当時権力を持つ者たちが、実は道康親王を推していたのです。ただ、彼らは嵯峨上皇の手前、道康親王推しを公言出来ずにいました。


 そして、嵯峨上皇の崩御がすべてを動かしたのでした。


 ただ、承和の変には諸説あります。

 今回は物語の流れ上、橘逸勢と伴健岑が反乱を企てていて謀反未遂を犯したとしました。これは続日本後紀に書かれているものを採用しているためです。

 続日本後紀は史書であり、当時の朝廷の出来事などが色々と書かれています。

 しかし、その後の研究で「承和の変」は橘逸勢と伴健岑の謀反未遂ではなく、先に書いたように仁明天皇一派が道康親王を東宮の座に就けるために企てた陰謀だったのではないかという説の方が強くなってきています。


 この陰謀論を裏付けるかのように、承和の変以降の朝廷の面々は様変わりします。

 一番の立役者として出世を遂げたのは、いうまでもなく藤原良房でした。良房は最終的には、官位は従一位・摂政太政大臣まで昇り詰め、皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた人となり、その後の藤原北家最盛期を築き上げました。

 良房が朝廷で出世するためのライバルであった他の藤原家や橘家、大伴(伴)家などの人間は、皆この承和の変で左遷されて行ったのです。


 また、良房が右近衛大将を代わった、たちばなの氏公うじきみですが、承和の変以降に従二位・右大臣となったのですが病気がちになり、ほとんど朝廷には出廷していなかったとのことでした。


 この承和の変で、罪人として流罪となった橘逸勢と伴健岑ですが、橘逸勢については姓をと改めた上で伊豆へ遠流おんるという思い刑罰を与えられています。この姓を「非人」としたというのは、江戸時代の身分の「非人」ではなく、人にあらずといった仏教の教えから来ている非人であるとされています。


 そして、老年であった逸勢は伊豆へと行く途中の遠江で亡くなったということです。刑罰が決まる前、謀反の首謀者であるということに対してなかなか口を割らなかったことから、拷問を受けたという話もあります。


 橘逸勢については、死亡してから八年後に罪を許され、平安京に埋葬されたとのことです。

 また、伴健岑については隠岐へ遠流されたのちに出雲へ流刑地を変更されたとの記録しか残されてはいません。


 このような陰謀があったにも関わらず、なぜ「承和の変」について続日本後紀では橘逸勢と伴健岑が謀反を起こしたと一方的に悪人として書き残されたのか。

 それは帝であった仁明天皇や、後の摂政太政大臣となる藤原良房の行いを正当化するための処置だったのでしょう。まかさ陰謀渦巻く状態で、次の天皇となる皇太子を決めたとは史書に残せませんからね。

 

 承和の変について、色々と書いてきましたが我らが主人公である小野篁は、この「承和の変」には一切絡んではいません。なぜなら、陸奥太守だったからです。その辺は史書通りで物語も描かさせていただきました。


 どうしても、この後の物語に影響するために「承和の変」については書かさせていただきました。

 そして、少しでも歴史的なところで興味を持っていただけた方がいらっしゃったらと思い、承和の変についての解説コラムも書いてみました。


 それでは、引き続き『SANGI 小野篁伝』をお楽しみください。

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