承和の変(3)

 篁のもとに朝廷からの使者がやってきたのは、六月の暑い日のことであった。

 その年は空梅雨であり、雨が降らないことから飢饉が発生すると懸念した帝が、各寺の僧や陰陽師たちに命じ、雨乞いの儀が何度も行われていた。

 しかし、その雨乞いの儀も虚しく、雨が降らない日が何日も続いている。

 そんな中で内裏だいり紫宸殿ししんでんへと呼び出された篁は、まさか次は刑部ぎょうぶの大輔たいふである自分に雨乞いをせよとの命令が下るのではないかと、おかしな想像をしながら帝の待つ間へと歩みを進めた。


「よく来たな、篁よ」

 御簾越しに帝は篁へと声を掛けてくる。

 篁は床にひれ服し、顔を上げずに帝の言葉を聞いていた。


「本日そなたを呼んだのは他でもない。そなたを陸奥むつ太守たいしゅに任ずる」

「陸奥でございますか」

 篁は思わず驚きの声をあげた。


「なにか、問題はあるか」

 篁のその言葉に、脇にいた中納言・藤原良房が口を挟んだ。

 良房は帝のお気に入りの臣であり、中納言という立場にありながらも帝の側に仕え、何かと帝から意見を聞かれたりする立場にあった。


「いえ、問題などございません。陸奥は若き頃に、父岑守みねもりに従って赴いた地にございます。懐かしき地の名を聞き、驚いておりました」

「そうか。それは良かった。では、行ってくれるな、篁」

 篁の言葉に帝も安心したような声でいう。


「陸奥太守という大任、確かに承りました」

 篁は再び低頭すると陸奥太守の任を受けたのであった。


 紫宸殿を後にした篁は、内裏を出る際に見覚えのある男とすれ違った。

 どこぞで見た男だろうか。その男が何者なのかすぐにはわからなかったが、その男の後ろからやってきた人物を見たことで男が誰であるかを思い出した。

 あの晩、辻で自分のことを取り囲んだ人物のひとりである。

 そして、その後ろから歩いてきたのは、ともの健岑こわみねであった。

 健岑とその男は同じ格好をしていた。すなわち、男も春宮坊とうぐうぼう帯刀舎人たちはきのとねりだったということだ。

 そのことに気づいたかどうかはわからないが、健岑は篁に声を掛けて来た。


「これはこれは、小野殿。本日は何かのお役目か?」

此度このたび、陸奥太守の任を帝より承りました」

「おお、それは目出度めでたい。そうか、小野殿は陸奥へ行かれるのか……」

 健岑は何か含みのある言い方をした。

 どういうことだろうか。篁が訝し気な顔をしていると、健岑が再び口を開いた。


「目出度いことにケチをつけるわけではないが、これはどこぞの誰かが我らを分断する策に出たということだろうな」

「はあ」

 篁は何も知らぬ振りをした。どこで誰が聞いているかはわからないと思ったからだ。


 健岑が口にしたのは、淳和派と嵯峨派の争いのことであろう。篁はどちらにも属した覚えはなかったが、健岑は勝手に篁が自分と同じ淳和派に属したと思っているのだろう。そして、淳和派を切り崩すために嵯峨派である藤原良房が、篁を陸奥太守にするよう帝に進言し、それに成功した。そう言いたいのだ。


「篁殿、そこにおりましたか」

 背後から声がした。振り返ると、そこには藤原良房の姿があった。

 健岑は良房の姿を見て、あからさまに嫌悪感のある顔をする。


「伴健岑殿もご一緒でしたか。どうかいたしましたかな?」

 良房は屈託のない笑顔を浮かべ、健岑に話しかけた。


「いえ、ちょうどそこで会いましたので。陸奥太守になられると聞き、お祝いを申し上げていたところにございます」

「左様か。めでたきことだからな。篁殿、伝え忘れていたことがあるゆえ、帰りの牛車で話しましょう」

「わかかりました」

 篁はそう良房に返事をすると、健岑には頭を下げた。


「また、いずれお会いしましょう、健岑殿」

「そうじゃな」

 健岑は篁にそう答えると、良房のことは無視するかのように背を向けて去って行ってしまった。


 内裏から出た篁は、良房と共に大内裏で待っていた良房の牛車へと乗り込んだ。

 牛車の中に乗り込むと、良房は簾を下ろして中の様子がわからないようにした。いわば、密室である。牛車の屋形内には篁と良房しかいない。


「まさか、あそこで健岑に会うとは思わなかったな」

 良房が笑いながらいう。

 表では良房と篁は敬語を使い話すが、二人きりの時は気を遣うことなく話した。


「私をおかしな政争に巻き込まないでほしいな、良房」

「すまぬ、篁。しかし、お前は優秀な人材だからな。皆がお前のことを欲しがるのだよ」

「だから、誰も手の届かない陸奥太守にしたのか」

 笑いながら篁はいう。


「馬鹿なことを申すな。お前を陸奥太守にしたのは、陸奥でちょっとした面倒ごとが起きており、お前しか解決できる人間はいないだろうと思って、帝に推薦したのだ」

 やはり篁を推薦したのは良房であった。このところ、良房は以前以上に朝廷内での発言力を増していっている。いまや、良房のひと言で帝が考えを変えると、皮肉を言われるほどである。


「ここのところ続いている日照りのせいで、陸奥国にいる蝦夷えみしたちが暴れておってな」

「なるほど。その蝦夷たちをどうにかしろというのが、私に課せられた任をということか」

「そういうことだ」

「まあ、よい。良房たちの政争に巻き込まれるより、そちらの方が気が楽が」

 篁はそう言うと大声で笑った。

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