承和の変(2)

 嵯峨上皇の体調が優れない日が続いているとの噂があった。みかども嵯峨上皇の住む嵯峨院へと足を運ぶなどしており、様態の悪化が心配されていた。


 絶対的な力を持つ嵯峨上皇にもしものことがあった場合、帝の周りの力関係が変化する可能性があった。

 それを特に懸念しているのは、淳和じゅんな派と呼ばれる淳和上皇を支持していた人間たちであり、藤原ふじわら北家ほっけ式家しきけを中心にたちばな氏やとも氏といった殿上人てんじょうびと東宮とうぐうに仕える人々である。


 特に現在の東宮(皇太子)である恒貞つねさだ親王しんのうは淳和上皇の子息であり、嵯峨上皇が推して東宮としたという経緯がある。

 もし、嵯峨上皇の身に何かがあれば、東宮の座をみかどの子息である道康みちやす親王に奪われる可能性も考えられるのだ。そのようなことが起きれば、淳和派は朝廷から一掃され、肩身の狭い思いをして過ごすこととなるだろう。そういった懸念から、淳和派の公卿たちが裏で何やら動き回っているというまことしやかな噂が朝廷内で広まりつつあった。


 噂の出元は嵯峨派である。たちばなの逸勢はやなりは明言していた。実しやかな噂を流すことによって、嵯峨派は淳和派の動きを混乱させようとしているのだ。そして、動きがある者がいれば監視し、そこから淳和派を崩そうと企んでいるに違いない。

 逸勢は、そう淳和派の人間たちに言い聞かせ、噂に惑わされて妙な動きをしないように伝えていた。


「勘の鋭い男がいるようだな」

 嵯峨院からの帰り道。中納言、藤原ふじわらの良房よしふさは、牛車の中で配下の者からの報告を聞きながら、ひとり呟いていた。


 噂の出元。それは、逸勢の言葉通りであった。すべてを絵に描いたのは、良房である。良房はどうにかして淳和派を一掃して、道康みちやす親王を東宮にしたいと考えていた。


 道康親王は、帝と藤原順子の子息である。そして、良房の甥にあたるのだ。藤原順子は良房の妹である。もし、道康親王が東宮になることができれば、良房の地位は安泰するといえるだろう。そうなれば、同じ藤原一族の中でも藤原冬嗣の流れである北家が政権を握ることとなり、その力を天下に知らしめることができるのだ。

 良房には大きな野望があり、その野望のためであればどんな手でも使う覚悟であった。


 そんな良房が篁のことを屋敷に招いたのは、暖かな春風の吹く三月のことであった。

 良房の屋敷は、寝殿造しんでんづくりの大きな屋敷であった。その敷地は広大であり、中央には大きな池が存在している。その池に舟を浮かべて桜を見るといった遊びに、良房は篁を誘ったのだ。


「なにか桜で春の歌でも詠もうではないか」

 舟の上でご機嫌な良房は篁にそう言うと、筆を片手に桜の木をみつめた。


 この頃、嵯峨上皇の体調は持ち直してきており、神泉苑へと出向いたりしている。もちろん、そこには良房の姿があり、嵯峨上皇と共に歌を読んだり、酒を飲んだりとしていた。

 その時の良房は、中納言良房であり、あくまで公務の一環であった。しかし、いまの良房はただの藤原良房であり、旧友である篁と楽しみながら歌を詠んでおり、心の底から笑って過ごしていた。


 たらふくの料理と酒をご馳走になった篁は、良房が牛車で送るという申し出を断り、歩いて自分の屋敷へと戻ろうとしていた。


 すでに日は暮れ、辺りは闇に包まれている。


 篁は偉丈夫と呼ばれるほどに背が高く身体も大きいため、特にその姿は目立っていた。

 身長六尺二寸(約188センチ)とただでさえ大きな背丈で、さらには頭に立烏帽子を被るという姿は、見るものに圧迫感を与えるほどだっただろう。

 当時の平均身長といえば、160センチ前後である。ただでさえ、見上げるほど大きい篁が高さ30センチ近くある立鳥帽子を被っているのだから、相当なものである。


「待たれよ」

 辻を曲がったところで、声をかけられた。

 相手は四人。篁のことを囲むような形で立っている。


「なにか、御用かな」

 落ち着いた口調で篁は男たちにいう。

 男たちが武芸達者であるということは、その気配でわかっていた。


「中納言の縁者だな」

 正面にいた男がそういった。顔は全体を隠すように布で覆っており、はっきりと見ることはできない。


 自分は誰かと勘違いされているらしい。篁はそう思ったが、何の否定もせずに黙っていた。

 男たちは、篁のことを囲むようにしてじりじりと近づいてくる。あと一歩近づけば、刀を抜いて刀身が身体に触れる距離となる。

 篁はいつでも腰に佩いている太刀を抜ける状態にあった。


「待たれよ。すまぬ、人違いだ」

 背後からさらにもうひとりが近づいてきて言う。その声にはどこか聞き覚えがあった。

 誰であったか。そう篁が考えていると、篁を取り囲むようにしていた男たちは後退りするようにして闇の中へと姿を消した。


「小野殿、失礼いたした」

 その言葉に篁が振り返ると、そこにはともの健岑こわみねが立っていた。


 伴健岑が現れたということで、篁は自分のことを取り囲んだ者たちの素性がわかったような気がした。おそらく、あの者たちは春宮坊とうぐうぼう帯刀舎人たちはきのとねりの連中だろう。

 帯刀舎人は春宮坊の武官であり、東宮様の身辺警護を行う者たちである。腕が立たないわけがない。囲まれた瞬間に彼らが武芸達者であると篁が見抜いたのは、間違いではなかったようだ。


 健岑は篁に頭を下げると、そのまま去っていこうとして、途中で足を止めた。


「つかぬことを伺うが、小野殿と良房殿のご関係は?」

旧友ともといったところですかね」

「なるほど」

 篁の答えに健岑は呟くようにいうと、そのまま闇の中へと消えていった。


 一瞬ではあったが、健岑は闇の中で刀の柄へと手を伸ばしていたようにも見えた。

 なんと答えたら斬るつもりだったのだろうか。篁はそんなことを思いながら、闇の中へと消えていった健岑の姿を見ていた。

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