承和の変

承和の変(1)

 小野篁が正五位しょうごいのげに復位したのは、九月のことだった。そして、その翌月には刑部ぎょうぶの大輔たいふに復職が認められ、篁は朝廷へと戻ることが許された。


 刑部省で復職の挨拶を済ませた篁は、その足で妻であるふじの待つ左京にある屋敷へと足を向けた。この一年、篁は妻にふみは送っていたものの、妻の住む屋敷に足を運ぶというようなことはしなかった。元罪人であり、無位である。そんな自分が妻に会いに行くということが許せなかったのだ。


 妻の屋敷の前に篁が立つと門のところにいた家人が驚き、慌てて篁を屋敷の中へと案内した。

 普通の貴族であれば牛車などを使い、妻のもとへと通うのがこの時代の常識であるが、小野篁という男はそういったところにこだわらない人間だった。できるだけ質素倹約を心がけ、牛車などは本当に必要な時以外は使わないのだ。


「篁様……」


 ひさしぶりに篁の顔を見た藤は大粒の涙をこぼしながら、篁のことを迎え入れた。

 しばしの妻との抱擁をし、続いて子どもたちとの再会を果たした。


 小野篁には、記録に残されているだけで子が六人いる。おそらく当時の記録なので、子息だけしか書かれておらず、他にも子女がいたはずである。当時の貴族は一夫多妻が認められており、多くの貴族に複数の妻がいたとされている。しかし、篁に限っては、妻の記録が藤原三守の娘と、この物語でいうところのふじだけしか記録としては残されていない。後世に書かれた物語では、創作としての小野篁の恋物語が複数書かれたりもしているが、記録としては妻はひとりしか残されていないのが現実である。


 せっかく篁の子どもについて触れたので、脱線ついでに子どもたちについても書いておきたいと思う。


 長男である俊生としなりは大内記となり、その子として小野おのの美材よしきがいる。

 美材も大内記となったが、その名は書や漢詩、和歌で残されている。書に関しては、大内裏の西面三門の額字を書いたとされており、和歌に関しては古今和歌集にその歌が残されている人物である。


 次男の良真よしざねは出羽守となり、その子として小野おのの小町こまちがいる。

 小野小町に関しては諸説あり、篁の娘であったという説もあるが、篁の年齢からしても小町の年齢とは計算が合わないので、良真の子と見る方が正しいと考えられる。小町については、ここで書く必要が無いくらいに有名な歌人であり、篁の和歌の才能は小町が受け継いだといっていいだろう。


 三男の葛絃くずおは大宰大弐となり、その子として小野おのの好古よしふる道風みちかぜ(とうふう)の兄弟がいる。

 好古は、武人としてその名が知られており、藤原ふじわらの純友すみともの乱の際には朝廷軍を率いて鎮圧に向かった。

 またその弟の道風は和様書道の基礎を作った人物とされており、書の天才として三跡のひとりとして数えられている。


 四男の忠範ただのりは出羽守となっているが、それ以外の情報が記された書物は見つかってはいない。


 五男の保衡やすひらは安房守となっており、その子孫が武蔵七党の横山党となったとされている。


 六男の利任としとうに関しては、残念ながら特に記録は何ものこされていない。


 このように小野篁の息子六人については記録が残されており、またその孫たちに関しては篁の才能を引き継いで各方面でその名を残していたりするのであった。


 閑話休題。


 妻と子どもたちとの再会を果たした篁は、しばらく藤の屋敷で過ごしたあと夜中にこっそりと姿を消した。

 いつものことだ。藤はとこの中で、猫のように音を立てず、こっそりと抜け出していく篁の背を見つめながら、そう思っていた。


 屋敷を出た篁は自宅へは戻らず、そのまま朱雀大路を真っ直ぐに進んだ。

 羅城門を通り抜け、外界へと出る。

 鳥辺野とりべのの辺りを歩いていると、篁は妙な気配を感じた。

 誰かに見られている。それは現世うつしよの者では無いように思えた。

 鳥辺野は平安京みやこの風葬地帯であるため、現世と常世とこよの区別が曖昧になっているのだ。そのため、あやかしや物怪もののけといった連中が現れることが、しばしばあったりした。


 これは無視をしよう。篁はそう決め込んで、視線に気づかぬふりをして歩みを進めた。


 六道辻に差し掛かる道を歩いたところで、篁の目の前を何かが横切った。

 それは白い霧のようなものに包まれた光のように見えた。

 この時ばかりは篁も足を止めたが、それが一匹の狐であるということに気づき、篁は口元に笑みを浮かべた。


 何を警戒しているのだ。物怪の類かと思い、神経を尖らせていた自分を篁は笑った。


 その狐は白い毛をしており、月明かりをまとうように輝いて見えた。

 なんと美しい。篁がそう思いながら狐のことをじっと見ていると、狐もじっと篁のことを見ていた。

 しばらく狐は篁のことを見ていたが、急に興味を失ったかのように視線を外すと、茂みの中へと消えて行ってしまったのだった。


 不思議な狐よ。篁はそう独り言をつぶやくと、何事もなかったかのように六道辻にある珍皇寺の境内へと入っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る