無位、篁(8)

 淳和じゅんな上皇が崩御された。

 その話は無位である篁の耳にも入ってきた。

 体調を崩されていたという話は、たちばなの逸勢はやなりより聞かされていたが、まさかこんなにも早く崩御されるとは思いもよらぬことであった。


 東宮であられる恒貞つねさだ親王は、淳和上皇の子息である。淳和上皇は生前より自分の死後、恒貞親王の後ろ盾となる人物がいなくなってしまうということを危惧されていた。

 ただ、恒貞親王を東宮とするように強く推したのは、嵯峨さが上皇であった。そのため、嵯峨上皇がいる限りは恒貞親王の東宮は安泰だというのが恒貞派の人間たちの考えである。


 恒貞派は春宮坊帯刀舎人であるともの健岑こわみねが筆頭とされていた。そこに橘逸勢や元東宮学士である春澄はるすみの善縄よしただなどが加わるほか、東宮や春宮に仕える者たちも含まれていた。

 内裏だいり内には様々な派閥が存在しており、どの派につけば出世争いで勝ち残れるかといった貴族たちの闘争が裏では行われているのだった。

 恒貞派の母体としては、淳和上皇派が存在していた。淳和派には大納言である藤原北家の藤原ふじわらの愛発ちかなりや中納言である藤原式家の藤原ふじわらの吉野よしのといった錚々そうそうたる面子が揃っており、現政権の中心を担っているといっても過言ではない。


 篁は特にどこかの派閥に属しているというわけではなかったが、かつては嵯峨上皇からの寵愛を受けており、嵯峨派であるという見方をされている。しかし、篁を無位とし隠岐へ遠流にしたのも嵯峨上皇であり、篁も特に嵯峨派であるという意識はしていなかった。


 嵯峨上皇は現在の平安京みやこで一番力を持っている者といえるだろう。今上天皇きんじょうてんのう仁明にんみょう天皇)の実父であり、上皇となったいまでもまつりごとを動かしている印象が強い。

 崩御された淳和上皇は、嵯峨上皇の弟であった。嵯峨上皇はかつて薬子くすこの変の際に、兄である平城へいぜい上皇に責任を取らせ、平安京みやこから追放し、絶対的な力を手に入れていた。

 恒貞親王が東宮となった際も、父親である淳和上皇は恒貞親王の東宮を否定したのだが、嵯峨上皇の鶴の一声で決まっていた。


 嵯峨上皇を支える嵯峨派の中でも、特に目立った存在の人物がひとりいる。中納言、藤原ふじわらの良房よしふさである。良房の父は元右大臣の藤原ふじわらの冬嗣ふゆつぐであり、名門藤原北家の出であった。良房は嵯峨上皇からの信頼も厚く、嵯峨上皇の娘を妻として貰い受けるほどである。また、今上天皇との仲も良好であり、今上天皇が東宮だった頃に春宮亮とうぐうのすけを務めていたことから、今上天皇からの信頼も厚いといえる人物であった。


 そんな藤原良房が篁のもとを訪ねてきたのは、淳和上皇が崩御されてから数か月後のことであった。

 良房と篁。ふたりには面識があった。かつては大内裏で顔を合わせることも多く、歳も近いことから、よく話をしたりしていた。また、共に嵯峨上皇に可愛がられていたという点では同じである。

 ただ、篁の場合は、その反骨精神が仇となり遠流にされるなどといったことがあったが、篁はそのことで嵯峨上皇を恨んだりはしてはいなかった。


「久しいな、篁」

 篁のあばら家を気にすることも無く良房は床に座ると、土産だと言って酒の入った小ぶりのかめを差し出した。


 椀を用意した篁はその酒を注ぐと、夕食のためにと買っておいた川魚の干物を肴として良房に出す。


「最近はどうだ。忙しいのか、良房よ」

「まあまあだ。色々と面倒ごとが多いかもしれないな」

 良房は含みのある言い方をする。


「私のように無位であれば、一日中好きなことをやって過ごせるぞ」

 篁はそう言って笑ってみせる。


「その話だが、篁の耳に入れておこうと思ってな」

「なんだ?」

「近々、お主の復位が行われるとのことだ」

「本当か」

 思わず篁は身を乗り出すようにして、良房に問う。


「ああ。冗談が好きな私でも、こんな冗談を言ったりはしないさ」

「……そうか」


 その良房の言葉を聞いた篁は、感慨深い思いに浸っていた。

 隠岐への遠流を許され、平安京みやこへ入ることも許された。それだけでも十分だと思っていたのだが、今度は復位まで許されるというのだ。


「きょうは、その前祝いだ。飲もう」

 良房はそう言って篁の椀に酒を注いだ。


 椀を持った篁は、それを一気に飲み干すと、あばら家の天井を見つめた。

 また朝廷に戻ることができる。

 その嬉しさを篁はゆっくりと噛みしめるのだった。

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