無位、篁(6)

 人の心は、その時の状態により見えぬものを見えるようにしたりもする。

 物怪もののけ、あやかしといった普段は目には見えぬ存在が、突然見えるようになったりするもの、その人の心の状態が安定していないからであると考える人間もいた。

 しかし、篁のように幼き頃から今に至るまで、物怪やあやかしが目に見えてしまう人間もいることは確かである。

 東宮である恒貞つねさだ親王しんのうも同じように常に物怪やあやかしが見えるような人間であれば、このような騒ぎにはならなかったかもしれなかった。

 ただ、内裏には人と人ではないものが交わる空間が存在していることは確かである。


 祭祀などで行われる神降ろしの儀は、まさにそういった空間の力を利用しているのだ。かんなぎは、その空間の力と己の持つ力を合わせて、その体に御神を降ろし、神の言葉を告げたりする。

 東宮様と藤民部が見たとされる物怪の正体は、滋岳しげおかの雄貞おさだが推測したように巫である可能性もあった。確かに両面をつけた巫は存在するのだ。

 しかし、その正体は巫でもなければ、物怪でもないということがわかった時、篁はこの話に首を突っ込んでしまったことを後悔していた。


 その童子が篁の家を訪ねてきたのは、西の山に日が沈み、夜の帳がおりはじめた頃であった。


「こちらに小野篁様という方はいらっしゃいますでしょうか」

 男児とも女児とも取れる中性的な声。その声は透き通っており、どこか人間離れしているようにも感じられた。


「小野篁は私ですが」

 呼びかけに応じて篁が顔を出すと、そこには5、6歳くらいの朱色の水干を着た童子が立っていた。


「篁様に我があるじがお会いしたいとのことです」

「ほう。どちら様かな」

 篁はそう尋ねたが、童子はじっと篁のことを見つめるだけで、その問いには答えようとはしなかった。


「わかりました。会いに行きましょう。どちらへ向かえばよろしいのかな」

 再び篁が尋ねると、童子は辻の向こうを指さした。

 すると、と静かな鈴の音が一度だけ聞こえ、闇の中から牛車がゆっくりと姿を現す。


「お乗りください、篁様」

 そう言ったのは、牛車を先導していた牛飼童うしかいわらわであった。この牛飼童は顔の前に布作面ふさくめんをつけており、どのような顔をしているのかはわからなかった。


 奇妙な連中よ。篁はそう思いながらも、何の警戒心も持たずに牛車へと乗り込んだ。これは普段より六道辻の井戸より冥府へ通ったりしている篁だからこそであろう。


 牛車はすだれがおろされており、外の景色をうかがうことはできなかったが、途中で地面の質が変化したことに篁は気づいていた。


「着きました」

 先ほどの牛飼童に声をかけられて、篁は牛車から降りた。


 そこは大内裏に似た場所ではあったが、大内裏ではないことは確かだった。その証拠に見たことのない大きな建物が目の前に存在していた。


「小野篁様をお連れいたしました」

 どこからか現れた先ほどの童子が建物の入口で声をかける。


 すると不思議なことが起きた。篁はその場から一歩も踏み出してはいないというのに、周りの景色が変わり、いつの間にか建物の中に立っていた。

 そこは書画で見たことのある唐の宮殿のような場所であった。

 中央には唐の帝が座る椅子と呼ばれるものに似たものがあり、そこにはひとりの女が腰を下ろしていた。


「ひさしぶりですね、篁」

 女はそう篁に語りかけてきたが、篁にはその女に見覚えはなかった。

 一体、誰なのだろうか。そう篁が考えていると、こちらの心を読んだかのように女は言葉を続けた。


「貴方は覚えておらぬかもしれませんが、わたくしはしっかりと貴方のことを覚えております」

「これは失礼いたしました」

「良いのです。貴方は私のことを記憶に留めることができませんから。そのようになっているのです」

「はあ」

 篁には、女が何を言っているのか理解できなかった。


「まあ、良いでしょう。貴方をこちらにお呼びしたのは他でもありません。恒貞つねさだのことです」

 女は東宮様のことを恒貞と呼び捨てにした。ただ、それが当たり前のような口調であり、篁はそれを指摘し、訂正させる気にもならなかった。


「恒貞が見たという物怪は、わたくしが遣わした者。ただ恒貞には、それが理解できなかったようですね。ですので、貴殿には伝えておきます。、と。貴殿は宮殿ここから出たら、ここでの記憶は失います。ですが、私が告げた言葉は心に刻まれるはずです」

 女はそう言うと持っていた扇子で口元を隠した。その姿はとても妖艶であり、ただならぬ色気が溢れ出ているように感じられた。


「私の記憶が消えるのであれば、貴方の名前を教えてもらえませぬか」

「なかなか賢いな、篁」

 そういって女は笑う。


「良いでしょう。私の名は九尾きゅうび。この平安京みやこを護る者です」

「九尾……」

 どこかで聞いたことのある名だ。篁はそう思いながら、九尾の妖艶な笑みを見ていた。


 九尾狐きゅうびこ。またの名を九尾の狐。

 その名は平安中期にまとめられた法典『延喜式えんぎしき』の治部省式じぶしょうしき祥瑞条しょうずいじょうに神獣として記載されている。

 ただ、平安末期には邪悪な妖怪として描かれ、鳥羽上皇の寵姫ちょうきである玉藻前たまものまえの正体であるとされた。

 また、那須野原の殺生石になったという伝説も残っている。


「それでは、伝えましたよ、篁。決して、貴方は動いてはなりません」

 九尾は念を入れるようにもう一度繰り返したのだった。

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