無位、篁(4)

 被衣かづき姿の女だった。

 しだれ柳のところから、こちらをちらちらと見ている。

 篁はそのことに気づいていたが、気づかぬ振りをして餅屋の軒先で白湯を飲んでいた。


 橘逸勢との待ち合わせであった。

 しかし、約束のときを過ぎても逸勢は姿を現さなかった。

 なにか来れなくなった事情でもあったのだろうか。

 しばらく待ったが、逸勢が現れないため篁は席を立つことにした。


「もし――」

 篁が腰を浮かそうとしたところで声を掛けられた。あの被衣姿の女である。


「なにか?」

「小野様でございましょうか」

「ええ。そうですが」

 篁はそう答えて、浮かしかけた腰を戻した。


「あの、わたくしはとうの民部みんぶと申します」

 女はそう言って頭を下げた。

 知らない女だった。被衣の間から見える瓜実顔にも見覚えは無い。


「どちらで、私のことを?」

 篁は優しい声で藤民部に問いかける。

 ただでさえ身体の大きい篁である。詰問するような口調で話しかければ、怯えられてしまうことは目に見えていた。そのため、篁は人と話す時はできるだけ、優しい口調で話すように心がけていた。もちろん、それは相手次第ではあったが。


ともの健岑こわみね様です」

「ほう、健岑殿が」

「小野様が朱雀大路にある餅屋にいるので、話を聞かせてあげてくれと」

「そうでしたか」


 回りくどい真似をしてくれたものだ。篁は内心、苦笑いをしていた。普通に藤民部という女性が来るから会って話を聞いてほしいと言えばよいものを。わざわざ逸勢との約束などとしなくても、逃げたりはしないというのに。


「店の軒先では何ですから、中に入りますか」

 篁はそう言って、藤民部と共に餅屋の中へと入った。


「して、どのような話なのでしょうか」

 席に落ち着いた篁は藤民部に声を掛けた。

 被衣を脱いだ藤民部は、美しい顔立ちをした女だった。


「あれは新月の晩だったと思います。わたくしがお仕えしているに供して内裏にあがりました」


 そこまで聞いて藤民部が、健岑の話していた東宮様に仕えている女房であるということに篁は気づいた。おそらく、その父親か親類が殿上人なのだろう。そうでなければ、東宮様に仕えることなどはできないはずだ。


 彼女の女房名からして、父親は藤原ふじわらの何某なにがしであり、民部省の役人を勤めているのだということがわかる。このように平安時代の女性たちは、家族以外からは本名ではなく女房名などで呼ばれることが多かった。


「少し前に、妙な噂がありました。あまり大きな声では言えないのですが、東宮様が夜中に物怪もののけを見たとおっしゃられまして」

「その話ならば、健岑殿より聞いている」

 篁がそういうと、藤民部は表情を緩ませて少し安心したような顔をした。


「それでしたら、話が早いですね。実は、その話を聞いた数日後にわたくしも見たのです」

「その見たというのは、どのような物怪だったのでしょうか」

「小さき鬼です。わたくしのひざ丈ほどの大きさでした」

童子どうじのような感じですかね」

「大きさはそうです。ただ顔は童とは全然違いました」

「どのような顔をしていたのでしょうか」

「思い出すだけでも、震えてきますわ」

 藤民部はそう言って両手で自分の肩を抱くような仕草をしてみせる。


「顔がふたつございました」

「ふたつ?」

「ええ。前と後ろにふたつ。目はぎょろりとしていて、黄色く濁っておりました」

「他には」

「口も前と後ろの顔に、ふたつ。どちらも牙が生えておりました」


 両面の子鬼といったところだろうか。そんな鬼を篁は見たことも聞いたこともなかった。


「その鬼の腕は何本あったか覚えておりますか」

「腕でございますか?」

「ええ」

「普通に左右に一本ずつだったと思いますが」

 どうして、そのようなことを聞いてくるのだろうか。藤民部の口調はそう物語っていた。


 両面宿儺ではない。篁はそれがわかっただけでも、安心することができた。両面宿儺であれば、腕は四本あるはずだ。しかし、安心するとともに、その両面鬼が何ものなのかがわからなくなっていた。


「この話は、陰陽寮には?」

「いえ、言っておりませぬ。健岑様が、誰にも言わぬほうが良いとおっしゃったので」

「ほう、健岑殿が……」

 なにか裏で企みでもあるのだろうか。篁は健岑のことを勘ぐってしまった。

 今回の藤民部との引き合わせ方といい、伴健岑と橘逸勢のふたりの行動には何処か怪しいところがある。


 藤民部から話を聞き出した篁は、丁寧に礼をのべると、その足で大内裏にある中務省へと向かうのであった。

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