無位、篁(3)

 その日、篁の自宅を客人が訪れていた。

 ひとりは年嵩で白髪の小さな男であり、もうひとりは細面で口ひげを生やした中年の男であった。

 白髪の小さな男は篁と面識あるらしく、親しげに会話を弾ませていたが、細面の中年男はふたりの話を黙って聞き、時おり、あばら家である篁の家を物珍しそうな目で見ていた。


 しばらく篁と白髪の男が話をして、その話がひと区切りついたところで、ようやく細面の中年男は口を開いた。


「小野殿は、東宮学士をやっていたことがあったな」


 東宮とうぐう学士がくし。それは東宮(皇太子)に学問を教える役職のことである。


「以前、恒貞つねさだ親王しんのうの東宮学士をやっていたことはあったが」

「では、恒貞親王の覚えめでたいというわけだな、小野殿」

「どうでしょうかね。いまの私は無位でありますし」

「そう謙遜するでない、篁」

 白髪の男が口を挟むように篁へいう。


 この日篁を訪ねてきた客人、それはたちばなの逸勢はやなりともの健岑こわみねであった。白髪の方が橘逸勢であり、細面の方が伴健岑である。

 逸勢とは以前より親交があり、篁にとって逸勢は気軽に話のできる年上の友人という感じであった。


 伴健岑とは、朝廷勤めの頃に顔を合わせたことはあったが、このように言葉を交わすのは初めてのことであり、なぜ逸勢が健岑を連れてきたのかと疑問に思っていた。健岑の現在の役職は、春宮坊とうぐうぼう帯刀たちはきの舎人とねりであり、無位の篁にとっては縁も所縁もないような人物である。


 いつもと変わらず、散歩のついでにふらりと寄ったといった感じで篁のところに顔を出した逸勢であったが、連れの健岑の顔を見て篁は、なにやら面倒ごとでも持ってきたかなと思っていた。


「最近、妙な噂が内裏だいりで流れておる。小野殿はにも強いという話を逸勢殿に聞いてな」

物怪もののけでございますか」

 篁は苦笑いを浮かべながら、健岑の言葉に答えた。


「実はな、東宮様が内裏で物怪を見られたと言っておってな、それ以来、物怪の影に怯えておられるようなのだ」

「そういったことでしたら、私などよりも陰陽寮おんみょうりょうの方が……」

 きな臭い話だ。篁はそう思いながら答えた。


 陰陽寮とは、中務なかつかさしょうに属する機関のひとつであり、天文やこよみなどに関する事柄を司る役所であった。陰陽寮に所属する者たちを陰陽師おんみょうじと呼び、陰陽師たちは陰陽道と呼ばれる不思議な術式を扱ったりしている。


「怪しい術など、私は信用できないのだよ、小野殿」

 健岑は吐き捨てるように言った。


 健岑の役職である春宮坊帯刀舎人というのは、東宮(皇太子)の護衛役であり、内裏だいりの中でも帯刀たいとうを許された存在であった。その役に就くにはそれなりに武芸の腕がなければならず、武を重んじる健岑にとって、陰陽師の使う奇妙な術のようなものは認めたくはない存在なのだろう。


「小野殿は、物怪を太刀で斬られたことがあると聞き及んでおる」

「そのような噂があるのですか……」

 篁はそういって、ちらりと逸勢の方をちらりと見たが、逸勢は白湯さゆの入った椀を手に取り、目を逸らしていた。


「して、東宮様が見られた物怪というのは、どのようなものなのでしょうか」

「それがな……小さな鬼だというのだ」

「小さな鬼ですか」

「ああ、それも前と後ろの両方に顔があったそうだ」

「両面……」

 篁はそう自分で呟いて見て嫌な予感を覚えた。


 両面の鬼には、覚えがあった。かつて飛騨ひだのくにで対峙した、両面りょうめん宿儺すくなの存在だった。両面宿儺は前と後ろに顔を持つ鬼神であり、腕が四本存在している化け物でもあった。その両面宿儺は、篁の祖先である武振たけふる熊命くまのみことによって退治されたという伝承が残されており、封印が解かれた際には篁によって退治されていた。


「両面の鬼とは奇妙なものよのう」

 逸勢が呑気な声を出す。


「して、私に何をしろと言われるのでしょうか」

「なに、簡単なことよ。東宮様の不安を取り除いていただければ良いのだ。別に鬼退治などを小野殿に頼むつもりはない。そういうことは、陰陽寮の連中がやれば良いことだ」

「はあ……」


 健岑が何をしたいかということは理解ができた。鬼を払ったということにして、自分の名を東宮様に覚えてもらい、出世の糸口としたいのだ。

 しかし、それは頼む相手を間違っているというものだろう。現在の篁は無位で庶民と変わらぬ状態である。内裏おろか、大内裏にすら入ることの許されぬ立場なのだ。


「その小さき鬼というのは、東宮様以外に見られた方はおられるのでしょうか」

「東宮様のところに仕えておる女房にょうぼうのひとりも夜中に、その鬼を見たと騒いでおったことがある」

「さようでございますか……」


 どうしたものか。篁は悩んでいた。この話に首を突っ込んでも良いものなのだろうか、と。きな臭い話ではあるが、東宮様が見たという小さな鬼についても気にはなる。それにもし東宮様に危害が及ぶようであれば、それはそれで問題であろう。


「……では、その女房に話を聞かせてはもらえぬでしょうか」

 篁がそう言うと、逸勢と健岑が顔を見合わせた。


「なんでございましょうか」

「いや、こちらに来る前に逸勢殿に聞いておった通りだと思ってな」

「どういうことですか」

「篁は必ずや解決策を導き出してくれると、健岑殿に言ったのじゃよ」

 逸勢は笑いながら言うと、満足そうに自分の膝を叩いた。


 そうか、逸勢にめられたのか。私は良き友人を持ったものだ。篁はそう思いながら、苦笑いを隠すように、白湯をひと口飲んだ。

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