ウソつききんぎょ

紫陽_凛

※バウムクーヘンは何も悪くありません

 朝起きたら、水槽の中でいちばんでかい金魚が死んでいた。真っ白な腹を浮かせて、濁った眼で俺を睨んでいる。そんなに睨んでくれるなよ、もうお前死んでんだから。独り言は水槽のポンプの立てる泡の音に消えていく。浮かべておいても仕方がないので、ティッシュでくるんで、迷わず生ごみの袋に混ぜた。ばれないように口を結んで、そのまま処分してしまおう。

 金魚の死体みたいに俺の心も処分できないかな、と思う。心が有機物だったなら、切り離してティッシュにくるんで捨てるんだが、どっこい心は有機物とは言えないシロモノなので、俺の五体をじんわりと侵食している。今も、昨日も、その前からずっと。

 手足が重く、身体は怠い。どうしようもなく泣きたくなっては、プライドってやつがうまく作用して泣けない。


 今日、あいつが結婚する。結婚するんだって。俺以外のやつと。

 いや、もう婚姻届は出してるそうなんだけどさ。不定形な「心」ってやつの問題だ。なんでよりにもよって俺に友人代表のスピーチなんか頼むんだよ。

 仲がいいから? そうだよな。お前にとって俺は仲のいいオトモダチだ。


 出会わなきゃよかったなんてとこまで悲観的になることはないが、出会わなきゃこんな感情を知ることもなかったろうなとは思う。認めるよ。認める。だからさ。

 結婚なんかするなよ。俺が悪かったよ。悪かったから。




「結婚おめでとう、。昔から何かと面倒を見てきた俺からしたら、感慨深い以上の言葉が出てきません。ほら、緊張して敬語になんかなっちゃって……」



 ぶっちゃけ何も覚えてない。原稿用意しなくてもいけるいける、とか笑って、マジで行けちゃった、だから俺の手元には何も残らなかった。感極まって泣いてる稲荷の顔だけぼんやり覚えている。何言ったかも何を贈ったかもなんでこいつが泣いてるのかもわからないまま、全ての記憶を酒で流して俺は家に帰る。


「ただいま」

 って言うと、奥から彼女が出てきて俺の手荷物を受け取ってくれたりする。ひどく酔ってるから、具合が良くない。目の前が若干ぶれている。

「よかったねえ紺ちゃん。よかったねえ。ずっと心配してたもんね。ほんとによかったねえ!」

 この女、たぶん金魚が減ったことにも気づいてないんだろうな。

「引き出物なにかなぁ?」

 それ、かわいいと思ってんのかよ。

「そのサイズだから、バームクーヘンとかじゃね」

「そっか! じゃあたべよ! りん食べたい!」

 目も合わせないカレシのこと、どう思ってるんだろ、こいつ。

「……ああ」

 ああ、世間体のための彼女だよ。告白するよ、稲荷。俺はお前より器用だったんだ。ただそれだけなんだ。

 器用な、だけなんだ。生殖と愛を分けることができるくらい、器用なだけだよ。


 ソファに沈み込んでいる俺の目の前に、切り分けられたバウムクーヘンが置かれるんだが――俺の目にはそれが今朝がた死んだ金魚に見えて、どうしても食べる気にならなかった。


 ――死んでるんだよな。全部。 


 一方で彼女はその金魚にしか見えないそれをばくばく食っている。

「幸せのおすそ分けって感じでいいね。しゅうくんも食べよーよ」

「……」

「しゅうくん、それでさ。……あたしたちはにする?」


 俺はそれを聞いて、金魚の死体にしか見えないバウムクーヘンにかじりついた。応えたくなかった。何一つこたえたくなかった。だから食った。死体を喰った。味がしなかった。甘いのかもしれない。美味しいのかもしれない。だが、味がしなかった。俺の頬からは次々涙が流れて、口の中に流れ込んできた。



『金魚すくったんだけどさー』

 記憶の中の稲荷が言う。困ったように。

 季節は夏で、彼は浴衣で。あいつは女にバックレられて、途方に暮れてたから――当時のカノジョと一緒に三人で夏祭りを回っていた。

『飼えるかどうかまで考えなかった』

『あ、ダイジョブダイジョブ。俺んち、すでに金魚飼ってるから。任せろよ』

『そう? じゃあ姫路にあげちゃう。頼んだ』

『頼まれたー』


 なあ、あの時の金魚は死んじまったんだよ、稲荷。もう死んじまったんだよ。


「ねえ、どうしたの」

 彼女が訊く。俺は何も言わずにバウムクーヘンを喉の奥まで押し込もうとし、強烈な吐き気に見舞われ、トイレに行って全部吐いた。


「しゅうくん、ちょっと大丈夫!?」


 彼女の小さい手を振り払って、俺はありったけ――バウムクーヘンとか、さほど食えなかった披露宴のご馳走とか、朝食っぽいなにかまで――洗いざらい全部吐き出して、そして便器を抱えて泣いた。

 俺がこんなに、こんなになってまで誰か一人のことを考えるなんて稀なんだ。本来ありえないことなんだ。俺はみんなのおれであって、俺はおれのものであって、だからこんなことは本当はありえない。

 うそ。

 ごめん、嘘ついた。稲荷、本気にするなよ。

 今のは嘘だよ。


 ごめん。

 いままでたくさん嘘ついてごめん。だから。


 結婚したなんて、嘘だ、って、言え。



 トイレの中にまた金魚の死体が見えた。俺は黙って洗浄ボタンを押す。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ウソつききんぎょ 紫陽_凛 @syw_rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ