第31話 君に伝えれなかった想い

 何かしら心へ受けた傷跡というのは、いつまでも深く刻まれるもの。快復するまでには幾日もかかり、忘れられない記憶として残るだろう。症状に段階はあれど、成人した者ならば、ある程度の精神は保てるのかも知れない。


 ところが、それが幼子であったらどうであろうか。長い年月を一人で抱え込み、誰にも話せなかった心の痛みは計り知れなかったはず。とはいえ、こうして再び出逢えたうえで、想いを伝えることが出来たのだ。


 これにより春花の瞳から零れ落ちる涙は、やがて感涙の雫へと変わり始めた……。そんな辛く悲しい過去の心情を受け止め、夏樹は全ての想いを優しく包み込む。そして抱き寄せた身体をさらに近づけ、何かを伝えようと耳元で囁きかけた。


「春花、聞いて欲しい事があるんだ」

「……なぁに」


 春花は真っ赤に染めた目で、夏樹を少し見上げながら小さく呟く。


「じつはね、いままで春花に言えなかった事があるんだ」

「言えなかったこと?」


「そう。それを花火大会の時に伝えたいと思う。だから……だからね、その日は僕と一緒にいてくれないかな」

「わたしと、一緒に…………」


 伝えられた言葉に驚きの表情を見せる春花。大きな瞳を見開き、呆然とした状態で言葉を失う。


「やっぱり、だめ……だよね」

「そんなことないよ。お誘いの言葉、とっても嬉しい」


 いまひとつの反応に、がっかりとした夏樹の姿。この素振りに、春花は涙ぐむ瞳で喜びの想いを伝えた。


「えっ、だったら今の沈黙はなんだったの?」

「だってね、夏樹くんから誘うなんてこと、いままで一度だってなかったじゃない」


「なるほど、そういうことね。――ということは、僕と一緒にいてくれるんだね」

「うん。大丈夫だよ、特に予定もないし。それに、私も夏樹くんと花火が見たかったから」


 届けたい想いがあると、夏樹は少しだけ心の内を話す。その意味は分からなくも、デートのような誘いが嬉しかったのだろう。春花は少しだけ頬を緩め快く了承した。こうして経年の想いを清算し喜びを分かち合う二人。やがて穏やかな会話に、彼女の心も落ち着きを取り戻し笑顔を見せた。


「じゃあ……せっかくだから、待ち合わせ場所は立浪荘にしない?」

「えっ、ここ?」


「そう。偶には気分転換に、違う場所で待ち合わせするのも良くない?」

「それって、いつもの場所まで歩くのが面倒くさいだけでしょ」


 春花は夏樹が面倒くさがり屋なのを良く知っている。だからこそ、その提案に呆れて笑いだした。そんな他愛もない会話だが、二人にとっては楽しいひと時。こうしてまた出逢えた喜びは、二人の心を大きく揺れ動かした……。


「あはは……やっぱりバレた?」

「バレるもなにも、魂胆見え見えよ。まあ、私は別にいいけど」


「ほんとに?」

「ええ」


「だったら、ちょっと待って。もしもの時のために、渡したい物があるから」

「渡したい物?」


 春花の了承を得た夏樹は、突然にも机の引き出しを開き何かを探し始めた。


「あった! これこれ、寝坊した時のために、これを預かっといてくれない」

「えっ? これって、部屋の合鍵? ということは…………」


 夏樹が差し出したのは、部屋のスペアキー。春花は渡された鍵を見て驚きを隠せないでいた。まさか、こんな物を渡されるとは思いもよらなかっただろう。それはつまり、いつでも好きな時に部屋へ来ても構わないとのこと。


 言葉を深く読み解けば、告白にもとれるような愛の形。そんな意味を含ませた行動に、春花は戸惑いを見せる。けれども、夏樹の顔つきを窺えば、平然とした素振り。もしかしたら、何気なく言葉を発したのかも知れない。


 だが、春花は鍵をジッと見つめ、期待を寄せた表情で鍵をゆっくり握りしめる…………。

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