第32話 私はゴリラなの?
こうして、ぼんやりとした面持ちで手渡された鍵を見つめる春花。その意味を理解し得ると、合鍵を胸元にそっと押し当てる。そんな感慨深い姿に、夏樹は慌てた様子で声をかけた。
「――あっ、今のは変な意味じゃなくてね、単に何かあった時のため。だから構えなくても大丈夫だよ」
「そっ、そうなのね。私ったら変な勘違いをしていたわ、ごめんなさいね」
初恋の相手を目の前に、込み上げる想いは少なからずある。けれど、このまま流れに身を任せてもいいのか、大切な人だからこそ自らが決めた場所で伝えたい。こう考えた夏樹は、切なる心情を必死に抑え込む。
「いいよ、気にしないで」
「うん、ありがとう。ところで、さっきの言葉って、どういう意味なの?」
「さっきの言葉?」
「ええ。寝坊した時のためって、言ってたじゃない。ここで待ち合わせするなら、別に合鍵なくても良くない? さすがに、ドアを叩けば夏樹くんも起きるでしょ?」
春花は合鍵の本当の意味を、どうしても知りたかった。何故このタイミングで渡すのか、その真意を知りたくて仕方がなかったのだ。
「まあ、普通なら起きると思うんだけど……」
「普通なら?」
「なんて言えばいいんだろう……春花と出会って以来、なぜか目が覚めるのが夕暮れ時で、中々起きれないんだよね」
「夕暮れ時…………」
夏樹は春花の瞳を直視し、真剣な眼差しで話す。この意味深な言葉に、彼女は思わず言葉を失い呆然とする。
「そう。いつもの待ち合わせ時間は大丈夫なんだけど、それ以外だと全然目が覚めなくてね。だから色々と試しては見たけど、全く効果なし。正直いってお手上げ状態なの」
「なるほどね。要するに、部屋へ来て寝てた時は、私に起こしてほしいってことでしょ」
「さすが春花、察しがいいね。加えて言うなら、寝てる間に掃除でもしておいてくれたら助かるよ」
「――ったく、すぐそうやって調子にのるんだから。一緒になら片付けてあげてもいいけど、先ずは自分で片付けてちょうだい。それとね、部屋の掃除は普段からしなくちゃだめよ。たまに片付けるから、こんな風になるの。何度もいうようだけど、毎日の積み重ねが大事。要は、乱れた物を整えて不要なものを処分する。片づけが苦手な人でもこれさえ分かっておけば、簡単に整理整頓ができるものよ」
なにかを刺激して感情を高ぶらせたとでもいうのか、夏樹の一言に呆れた様子でため息をつく春花。物で散乱した状況を見つめると、とめどなく言葉を発する。
「えっと……春花の言ってることは良く分かったよ。これからは日頃から綺麗にするよう心掛ける。だからお説教はそれぐらいで勘弁してよ」
「お説教? ――もう、私が言ったこと本当に理解したの?」
あまりの言葉責めに心でも折れたのだろう。夏樹は宥めながらご機嫌を窺うも、これを不服とした春花は頬を膨らませ唇を尖らせた。
「そっ、そんなことよりも、まさか初恋の相手が春花だったなんてね」
「初恋……? そっ、そうね、私も写真を見たときは凄く驚いたわ。だけど、いまは出逢えたことがとても嬉しい。ほんとに涼風くんだなんて、今でも信じられないくらいよ」
上手く話題を変えることに成功した夏樹は、春花と共に過去を懐かしみ想いを馳せた。こうして、暫く見つめ合う二人。事実を知り得て我に返ると、急に頬を赤らめ目を逸らす。
「まぁ……なんて言うんだろう。初恋と言っても幼い頃の話だから、お互い気にしなくてもいいんじゃないかな?」
「そっ、そうだよね。あれから随分と経つもんね」
照れながら同意を求め合い、二人は動揺した素振りで俯いた。――すると、ふと何かを思い出した春花は、唇を尖らせながら記憶に残る言葉を問いかける。
「そういえば、誰かさんが私のことをゴリラみたい。そう言ってたような気がするんだけど、気のせいかしら?」
「えっ、ゴリラ? えっと……コアラの聞き間違いじゃなくて?」
「いいえ、確かにゴリラって言ってましたが」
「あれ? おかしいなあー、そんなこと言った覚えはないんだけど」
冗談交じりに語る春花。気まずそうな表情の夏樹。運命の人と出逢えた喜びだろうか、二人からは必死に胸の高鳴りを抑える様子が窺えた…………。
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