1F原発復旧3号機カバー酔夢譚

@syllable31

第1話

1F原発復旧3号機ドーム建設酔夢譚

はじめに

私は1Fで原発復旧作業の放射線管理をしている青成瓢太(以後瓢タン)といわきの居酒屋とか寮の部屋とかで飲むことがあった。瓢タンの話は例え話を交えており酒の力によってどこまでが事実かどうか、作り話のようにも思えるが、それなりにリアリティもあって面白くもあった。


【プロローグ】ガーガの呼び声

【1】 武道の猛者に泣き出す女子事務員

【2】Jヴィレッジのレトルト食品

【3】重症災害の嗚咽と逃げるドライバー

【4】大物搬入口の不気味な風

【5】ビビりの初回測定

【6】巡礼

【7】あっちもこっちも警報だらけの現場

【8】全面マスクは水中マスク

【9】オペフロ線量低下と地上線量上昇

【10】除染電離測と帰還基準


【11】役所の指導通知には勝てない

【12】「命を削って仕事するのですか?」

【13】彼女はあんたのなんなのさ?

【14】無骨伝1

【15】カタコル遮蔽スーツを脱ぐときは月面歩行

【16】唐獅子も神妙な顔つき、一日で一番長い1.5分

【17】無骨伝2

【18】「203高地」

【19】「203高地のウルトラマン作業」

【20】靴から汗100CCドバっと流水落下


【21】いわきの夏2011

【22】無骨伝3

【23】緑人間とコンクリート人間と泥んこ人間

【24】帰省直後のがん死

【25】若社長の急死

【26】遮へいスーツと被ばく隠し

【27】靴と怪我

【28】警報無視という違反

【29】お漏らし

【30】首根っこ掴まれるゼネコン派遣社員


【31】釣り道具のオモリとAPDの鉛隠し

【32】2011夏が過ぎてボランティア

【33】春夏秋冬ボランティア

【34】熱中症とWBGT値

【35】秋風と引っ越しとホテルの人間模様

【36】作業員宿舎とパチンコ屋の復活

【37】二度目の夏 スリーマイル巨大床掃除機とコーヒー園長

【38】他人の不幸は蜜の味 落ちた?落とした?

【39】作業員の告白 APD被ばく隠しの発覚

【40】APD鉛による被ばく隠しの顛末


【41】作業者と不在者投票と健康診断

【42】特別手当(危険手当て)の看板とロシアンルーレット

【43】なんちゃってWBCホールボディカウンタ

【44】俺は建築家、コンクリート床除染屋ではない

【45】鬼の寝ている間に

【46】無骨伝 違法な鮭漁

【47】松阪さんの終の住処

【48】いつものことだから安全です?

【49】ちょび髭のオイちゃんの終の棲家

【50】クレバス



プロローグ

大地震後の大津波が襲ったその時、機械保守担当川中真一は建屋の外でまさかそんなことになっているとは思わずに建屋内のタービンを点検していた。

 タービン建屋は原子炉建屋の隣で海抜約10mにある。通称「10m盤」と呼ばれているが、津波の際は徒歩で30m盤と呼ばれている通称「高台」まで歩いて逃げることになっている。 機械保守のグループ長は地震後すぐに高台の免震棟内に退避していたが、津波と言っても通常の数mくらいとしか考えていなかった。だから誰も速やかに退避の指令を真一に出していなかった。

 真一は10m盤のタービン建屋内点検中に、突然屋外から押し寄せる圧倒的な海水の流転の渦の中で意識を失い、複雑な機械空間の中で機器に叩きつけられ、最初の一撃によって水中で息を引き取った。

 その亡骸は正門から搬出され富岡町体育館に一旦安置された。瓢タンは幼馴染でもあり津波後に真一が帰ってこないことを知った。遺体安置まで付き添った瓢タンの目の前の遺体は前進紫色のうっ血で、痣だらけであり、もし自分が彼の代わりに保守点検を行っていたらどうなっていたか、と、たらればの答えのない問答が頭の中を駆け巡った。

 遺体が原発最寄りの体育館で安置されたことを母親に連絡をして、それを受けて一目散で駆け付けた母親を入り口で迎えた。すると母親は瓢タンに会うなり、すがりつくようにしてこう言った。

「息子は生きてるよ。生きているんですよ、さっき電話があったんですよ」

 母親のあまりのとっさの言葉にたいして、瓢タンは答える言葉がみつからなかった。安置室に一歩入れば紫色の遺体を目の前にすることになり、現実を理解するだろう、そう思って黙っていると、母親はさらに続けた。

「さっき妹と電話してたんですよ、そしたらガーガと聞こえたんですよ。」

「ガーガ?ってそれは電話のノイズですか?」瓢タンは聞き返した。

「違いますよ、あの子は幼いころからずっと私をガーガと呼んでいたんですよ。いまでも。それがさっき電話の中で聞こえたので、いまガーガって真一の声がしたよねと妹にいったら妹もそうだねと言ったんですよ。だから電話の声はノイズではないんですよ、真一は生きているんですよ。」

 真一の魂が電波となって電話に現れたのか?瓢タンはそう思って気が動転したが、しかし次の瞬間母親は目の前の遺体安置室の中の現実に出合うだろうと自分に言い聞かせるのだった。

 しかし母親が聞いたと言うガーガの呼び声と、部屋に入れば紫の遺体があるというこの酷い現実の状況を素直には受け取ることはできず、もし~だったらの、答えようのない不条理にうろたえ、免震棟からタービン建屋に向かうとき見た彼の最後の微笑みをフラッシュバックさせながら、瓢タンはそれ以上真一の母親を直視することはできなかった。

 その後60日くらい経って瓢タンが母親を尋ねると、彼女は四国巡礼の旅支度をしているところだった。「ガーガ!」の呼び声のあとに何が続くのだったろうか?その疑問の答えを探すために。


【1】武道の猛者に泣き出す女子事務員

3号建屋のドーム建設は2011年6月にJVとして立ち上がった。JVとはジョイントベンチャー、共同事業体といって、今回は大手ゼネコン6社の共同企業体で、幹事企業は鹿山建設だった。作業を請け負う下請け企業も決まって、いわき市内の作業員用プレハブの宿舎も完成した。しばらくは調査目的で原発構内に入り作業計画を立ててゆく。

 3号機のオペフロ、原子炉建屋の最上階、使用済み燃料プールのある壁や天井は水素爆発で吹っ飛んだ。原子炉圧力容器を囲む原子炉格納容器とそれを囲むコンクリート建屋、そこまでは頑丈に作られているが、その上のオペフロは鉄骨梁にコンクリートの壁材を張り付けたものだった。水素爆発では簡単に破壊され、骨組みの鉄骨は恐竜の背骨のように折れ曲がっていた。オペフロの壁材はいったん垂直に吹き上がったあと粉々になって落ちた。無残な残骸というしかない。

 オペフロ壁材は板材を重ねたもので原子炉までの壁材よりは爆発には弱いので、爆発の際に吹き飛ぶようになっていた。逆に言えばオペフロ壁材破壊で吹き飛んだことにより原子炉建屋には応力がかからず守られていた。

 3号機JVのルールでは30歳前は原則として事務所勤務であった。瓢タンは現場採用の現場放管(放射線管理)なので32歳でも現場に行くが、法令上の被ばく基準を守っていればいい。事務所には全国の工事現場から職員が3か月交代でやってくるが、年寄りから先に派遣されてくる。若手は家族の同意が有られそうにもなかったからだ。亭主元気で留守がいい、ってことで年寄りになると家族の同意も得やすい。孫の写真を忍ばせて北海道から沖縄より遠路はるばるやってくる者もいた。他のゼネコンも同様だったし、全国からやってくる下請けの作業員も年寄りが多く、事務所の平均年齢が60歳に近い。

 まずはゼネコン職員が50人、下請け作業員が50人。それだけの人数が集まったが、ここで問題はかき集めた皆が原発を初めて経験することだ。原発で仕事する場合はまず中央登録といって一元管理元から登録NOをもらうこと。

 原発作業従事者の被ばく管理は中央登録が一元的に行っている。併せて電力会社に作業者証を発行してもらう。そういう事務業務を専門で行う事務放管がある。3号機JVは事務放管のできる経験者を雇ったが急場拵えで作業員を集めているので電力会社も業務進行が遅れて、手続きに二週間ほどかかった。その間は作業員には日当、職員にも日割りの給料を払う。しかし日当もらってもなにもすることがないのは人間は一番苦手であり苦痛だ。避難者が補償金もらってもストレスで病気になったりするのと同じだ。

 何もせずに一週間も経った。JV職員のなかで佐木っつぁんは武道の猛者で、力ずくで事務手続きが進むんではないかと思い、事務放管に怒鳴り込んだ。事務放管手続きは女性が数人でやっており、彼女たちは放管手続きの経験者で中央登録から電力会社登録そして放管手帳発行までと原発への入構証発行までを行い、原発で作業するためのAB教育、新規入所時教育の申し込みまで行う。専任の経験者でなければ進まないので経験のあるいわき市在住の事務員を募集して集めた。

 ただでさえ原発入門は手続きが厳しいのに、一気に増えた人数を大量処理するシステムはなかった。しかし現場の猛者たちは事務所で二週間も待たされるなんてのはいままでの一般の現場では経験がない。

「なんでそんなんに時間がかかるんじゃあ!われわれはいつまで事務所待機すればいいんじゃあ!」

 佐木っつぁんはいかめしい赤レンガのような顔つきで言った。

 すると対応の女性事務員は泣きだしてしまった。

 女を泣かせてもどうにもならない。ますます手続きが遅れることを佐木っつぁんは理解した。

 原発で作業する手続きの面倒なことが強面の猛者たちも肌でだんだんわかってきた。できないものはできないと。

「そっかあ、彼女たちはするべきことはやってるんだなあ。問題は手続きが煩雑なんだな。そこが一般の現場と違うところか。事務所で待機しているしかないんだな」

 佐木っつぁんは腕組みしながらそうつぶやいて事務所の待機を覚悟した。

 当初の作業者証には写真がついていなかった。ある外人記者が偽造作業者証で入門したことがあった。正門の警備で見つかった。それからは写真つきになってますます手続きに時間がかかるようになった。


 一方、現場放管担当として採用された瓢タンの当面のやることは毎日全国から集まってくる作業員やJV職員の放射線教育だった。一般の現場しか知らない作業者たちに原発構内での放射線管理ルールを教えるのだ。教育はまず電力会社が全企業対象にJヴィレッジで毎日百人単位で教育する。これをAB教育という座学でJヴィレッジの会議室で行った。

 そして各企業単位でそれぞれの仕事に合わせたルールを教育する。土木もあれば建築もあれ、汚染水の装置系、電源系など復旧工事は様々だが主として当初は土木建築の人数が多い。日立東芝などが活躍できるのは原子炉周りの作業だから設備土木建築の後になる。

 国内作業者も千差万別で、下請け作業員の中には多重下請けの構造で、反社組織から派遣された全身唐獅子のタトーなどはありふれた光景だった。電力会社からは下着も支給されるので着替えの時に裸になったときにわかる。

 タトーがあるからやくざ者とは限らない。とび職人にはタトーが多い。見分けは、目を合わせるかどうかだ。多重下請けの反社組織から来た者は目を合わせなかった。

 免許証が身分証明だったが、その免許証も仮免の写真のないもので偽造を提出するものもいた。とにかく手と足があれば汚染した高線量瓦礫の撤去運搬くらいはできる。空間線量3mSvの3号機周辺では一か月で40mSv被ばくして交代する作業員もいて、若い人は集まらないし、猫の手も借りたいくらいだった。



【2】Jヴィレッジのレトルト食品

原発で作業するには正門をくぐらなければいけないが、手前20k圏内は警戒区域だから一般服では行けない。まず20k離れた広野町と楢葉町に跨っているJヴィレッジまで一般バスで行き、そこで防護服を着て全面マスクを抱えてから1F往復専用のバスに乗り継いで行く。Jヴィレッジは電力会社が資金をだしてつくったサッカー場だ。今回の事故のために中継所に変貌した。サッカーグランドは駐車場と電力職員の宿泊プレハブに埋め尽くされた。

 Jヴィレッジの先は全面マスクを抱てデュポン製品の紙のようなつなぎ服であるタイベック(デュポンの商標)を着て綿手、ゴム手、軍足を付ける。その格好でバスを乗り換えて原発構内へ向かう。原発正門手前1kmのところでバスを停車させて、車内で全員が全面マスクを着ける。いわき市の事務所からJヴィレッジまでは40分かかる、着替えが20分、バス待ち時間が20分、Jヴィレッジから免震棟までは40分かかる。つまり毎日二時間かけて1F構内休憩所の免震棟までたどり着く。往復4時間だ。昼の休憩が1時間、都合5時間。免震棟の中で現場へ行くための着替えをして、現場から帰ってきて着替えをして、それが40分、免震棟から現場までが構内専用車両で往復20分、計1時間。ここまでで6時間。これに打ち合わせや待ち時間を加えるから実質の作業時間は1時間。

 放射能の飛散した3号機周りの現場では、その1時間もたたないうちに1mSv被ばくしてしまい、そそくさと帰ってくるのだった。なぜなら1日の被ばく線量は最大値が決まっており、年間も制限がある。企業によって異なるが3号復旧工事の場合は1日3mSvの制限があった。年間40mSv に達すると作業者証を返却して地元へ帰郷しなければならない。毎日3mSvの被ばくをすれば13日間で限界ぎりぎりの39mSvに到達して荷物をまとめて作業員宿舎を出ていかなければいけない。そこで作業員は収入を安定的に確保するためにはなるべく被ばくを抑えることを考える。

 APDという被ばく線量測定器を身に着けるがそれは警報設定値3mSvの1/5ごとに短いプレ警報音を出す。一回目の警報は0.6mSvだ。だいたいの作業員はその短いプレ警報を聞けば仕事を終わらせようとする。無理して頑張って3mSv警報まで作業を続けると13日で田舎へ帰らなければいけない。日当5000円と手当て併せて2万円。26万円で出稼ぎ仕事が終わってしまう。もし細く長くということで一か月2mSv以内で要領よくやれば1年で24mSv。限度は5年で100mSvだから約5年は毎日2万円の仕事が継続できる。月に25日として50万円になる。残業追加すると70万円前後になる。    

 しかし工事ストップがあるとその日の収入はない。日当は雑作業で1万円、特殊技能のクレーンオペで2万円。これに被ばく危険手当が東電から作業者へ2万円支給されるが、鹿山の契約社員は2万円そのまま支給されるが、下請け業者の場合は、5000円が一般的で、鹿山から支給される2万円のうち差し引きの1万5千円は下請け企業の積み立てとして内部留保される。積み立てが無ければ明日いきなり仕事がストップされる場合に日当も危険手当も0円になるが、その場合にも日当を支給するためである。


 Jヴィレッジは日増しに増える瓦礫撤去の作業員でごった返した。タイベックや下着の配給のための保管部屋はあるが、着替えの部屋というのは特になく、廊下やロビーなど隙間があればそこで着替える。そして作業から戻ってきてから着替える。概ね1時間で被ばく限度に達するので、昼にはJヴィレッジに帰ってきて、そして昼食をとる。

 昼食は電力会社が支給するレトルト食品で、ミネラル飲料を注いで発熱するカレーや丼物だ。通称モーリアンヒートパックと言われている。

 瓢タンたちは事務所にいてもすることがないのでJヴィレッジまで暇つぶしに往復した。

「おい、瓢タンよ、Jヴィレッジまで行って電力が支給してくれるレトルト食品食べて帰ってこよう」

 昼前になると佐木っつあんは毎日やることがないので瓢タンを誘った。JV職員のうち作業員証発行待ちの者は毎日Jヴィレッジまで暇つぶしの往復をしてレトルトの昼食を食べて帰ってくるのだった。

 1F構内作業できるまでの待機期間は日当が支払われる。

「きょうはレトルトの蒸気を天井まで届かせよう」

 自然飲料を注いで発熱するレトルトはタイミングよく封を開けると蒸気が天井まで届く。

「おい!きょうは天井まで届いたぞ」佐木はそう言って瓢タンに笑いを投げた。

 レトルトの蒸気を競って遊んで帰ってくる、あるいは二階のベランダで、そろそろ燕の季節になっており、ベランダの手すりに止まっている燕が指に止まるかどうかを競って時間を潰す。しがない一日が7月中旬まで2週間以上続いた。

 まだ原発作業する前に、全員が作業登録のためにWBCを受けて内部被ばくの測定をする。人の体は日常で普通は炭素C14やカリウムなど放射性物質を蓄えており、4000~6000CPMはカウントされる。Jヴィレッジの東電WBC(ホールボディカウンタ)はそれらを差し引いてセシウムCsの計数がカウントされる。この時期、作業に入れば誰でも2000~3000CPMはカウントされた。

 体重の多い人は自分の体で遮蔽してしまうので少なくカウントされ、体重の軽い人ほど遮蔽が少ないのでカウント数は高かった。

「おい、俺は1000cpmだ、一番少ないぞ」

 そう自慢する作業員に瓢タンは言った。

「あほか、それはお前が一番肥満だってことだよ」

 この時期にはWBCは毎月一回行った。

 柏から来たJV職員に作業前の受検でヨウ素が検出された。すでに3か月たっており、ヨウ素の半減期は8日なので水素爆発から7月10日まで約120日、半減期が15回過ぎているので0.5を15乗すると0.00003となる。1cpmの計数でも爆発時には33,000cpmのヨウ素内部被ばくしたことになる。10cpmならば33万cpmを当時内部被ばくしたことになる。

 逆に考えれば、登録前のWBCデータを調べれば東日本のヨウ素被ばくの実態がわかるかもしれない。


【3】重症災害の嗚咽と逃げるドライバーと救急搬送

2011年7月に入って、2週間がすぎて先発隊の調査もおわり、すぐに3号復旧の計画が具体化した。3号機復旧とは初めに3号機原子炉建屋の上にある燃料プールにある使用済み燃料を取り出すことが急務であり、原子炉建屋を鉄骨で覆い、その上に同じく鉄骨のドームを設置して、そのドームに組み込まれたクレーンによって使用済み燃料を取り出す計画だ。ドーム設置までを鹿山建設が行う。ドームは小名浜で組み立てて海上経由で1Fの港湾内に会場運搬し、そして陸揚げして10m盤の原子炉建屋まで移動する。そして大型クレーン二機で吊り上げて設置する。ドーム内部には東芝がクレーン装置を組み込んでおく。

 佐木っつあんの懸案の作業員証も全員発行された。まず鉄骨をくみ上げるための遠隔操作の大型クレーン重機が動けるための路盤整備をする。路盤整備とは道路上に散らばった残骸を片付けて、放射線を防ぐために砕石を数十センチ敷き詰め、さらに放射線を防ぐための鉄板を敷き詰める。鉄板は4センチ厚さでセシウム放射線を10分の1に遮へいする。その鉄板の上をクレーン重機が遠隔操作で動き、オペフロ上に無数に散らばった高線量瓦礫をひとつづつ取り除いて地上に下ろす。降ろした瓦礫を原発構内の林を開拓してつくった仮置き場に隔離する。

 オペフロ上に高線量瓦礫がなくなればそこへ分厚い鉄板を敷いて原子炉から漏れる放射線を遮へいし、人が立ち入れるようにする。高線量瓦礫のせいでオペフロ上は1Sv/h以上の高線量であり、そこに作業員が経つために空間線量率の目標を1mSv/hとする。


 4号機はたまたま原子炉定期検査中だったので燃料はすべてオペフロ上の燃料プールにあって、オペフロ階の建屋外壁は吹っ飛んだが、放射線はプールの水遮蔽によって人が入れるようなくらいの線量率だった。そこでまずオペフロ上にクレーンを設置するため、原子炉建屋を鉄骨で囲って補強し、その内部に取り出し用クレーンを組み込むことになった。ゼネコンは竹山建設だった。

 2号機は建屋が外観上はそのまま残っていたが、逆に今後の方針がすぐには決まらなかった。まず建屋内を調査しなければいけないが、線量率が高すぎておいそれとは人が入れない。建屋内の調査をするための構台設置などからスタートする。ゼネコンは鹿山建設だった。

 1号機は3号と同様にオペフロ階外壁が吹っ飛んだので3号と同様に使用済み燃料プールの上にクレーンを据え付ける計画だ。まず順序として取り合えずは建屋全体をオペフロ放射能が飛散しないようにカバーでくるんでしまい、3号の目途がついてからそれを踏まえてオペフロ瓦礫など復旧することになった。

 そこでいち早く外壁をパネルで覆ってしまった。ゼネコンは真水建設だった。クレーンなど機械装置は日立の所掌範囲だった。

 最後のパネルが1号の外観を塞いだ後、あとは道具を片づけるだけの段階で思わぬ重大事故が発生した。クレーンで使う極太の鋼鉄製ロープを移動するときだった。

「おーい!揚げていいぞう」全面マスクで白タイベックを着た作業員が手を上げて合図していた。

「まわりの人は吊り荷の下から離れろ~~」

 そうやって基本通りに揚重作業をしていたときだった。とつぜん何トンもある鋼鉄の太いロープが荷揚げパレットの台座から落ちたのだ。これで作業は最後だと思って安心して、うっかりしたのか?極太鋼鉄ロープをパレット台座に固定していなかった。

 落ちたロープは地上でバウンドして跳ね上がったが、そのよじれを解くように、まるで蛇がくねるように、そして鞭がしなるように地上でバウンドすると一瞬で近くにいた2人の作業員をなぎ倒した。逃げようとしても逃げられない。そのくらいの速さでロープが跳ねたのである。二人は腰の骨、大腿の骨を骨折した。二度と現場に復帰はできないくらいに。

 瓢タンは地元の東芝所属の65歳になる安全管理者の矢作と知り合いだったが、その矢作と重症を負った作業員は知り合いで、過去に現場教育をしたことがある。矢作は安全教育でパレットに荷を積んで揚重するときは積み荷をパレットに括り付けることを厳守するよう作業員に教育していたつもりだった。しかし今回の問題点はクレーンで吊り上げる高さの1.5倍の半径を立入禁止にしていないことも原因だった。矢作は「俺がその現場にいればこんな事故など起こさなかったのに」と悔しがった。

 後日、矢作が負傷した重症者のベッドを訪れると、本人は涙目で迎えた。もう二度と現場に立つことはできない。両足切断だった。働き盛りなのに家族とも別れることになった。何が原因で何が悪かったか、病室からはしばらく嗚咽だけが漏れていた。


 3号ではJVの職員が手配した砕石運搬や鉄板運搬のトラックが構内に入ってくるとそれを待ち構えた鹿山職員が荷下ろし場所を指示し、雇った下請け鳶作業員や雑工作業員を使って荷を吊るして下す。

「お~い!そこへ」と言って65歳の通称チョビチョビひげのオイちゃんが指示用旗を振った。言葉は全面マスクで遮られて相手にはそのままの音量では伝わらない。チョビひげのオイちゃんは福島県双葉郡富岡町で飲食店を経営していたが、爆発後に仮設住宅に住んでいる。

 彼は若い頃後楽園でキックボクサーをしており、キックボクシングで一時代を築いた沢村の試合の切符を売りさばいて生活費を稼いでいた。

「昔、若い時は切符売るだけで高収入だかんね、こんな仕事やってられないよ」

 と言うのが口癖だった。

 砕石を積んだトラックはチョビひげのオイちゃんの指示を無視していっぺんに砕石を下して走り去った。

「あ!こら~~、そこへ全部下すな~~。お~い!」

 しかしトラックはそのまま逃げて帰ってしまった。白タイベックと全面マスクとゴムの1F専用どた靴を履いているチョビひげのオイちゃんが慌てて追いかけるがトラックには追い付かない。

 チョビひげのオイちゃんは携帯電話で下請けの運送会社に文句を言った。すると理由は運転手の被ばく線量にあるらしい。運送会社の運転手は1日0.5mSvという社内規定があった、それを超えたら原発構内にはとどまることができない。だから積み荷をすべて降ろして去ったと。

 原発では放管(放射線管理)ルールが最優先される。この場合、鹿山建設の計画に問題があったことになる。荷運びは前の作業が終わって荷下ろし要員が玉掛け、安全誘導など3名くらい揃って初めて荷下ろしができるから、前の作業が終わるまで待たされることになる。そのときに被ばくする。1F現場の放射能は半減期約2年で放射線が強いセシウム134と半減期30年のセシウム137だが、2011年はセシウム134の影響が強く、トラックの運転席でも外でもあまり変わらない。待つことが多いドライバーは無防備のまま被ばくしてしまうことが多い。待つ時間が多いのは計画が悪いことになる。

 構外休憩所近くで資材荷下ろししていた3号JVの下請け作業員の石塚は平トラックのタイヤに足をかけて1mくらいの高さから飛び降りたときに踵を骨折した。瓢タンは救急車に乗り込みいわき市の病院に運んだ。原発ルールでは元請け企業の放管は救急車に付き添わなければいけなかった。搬送先の病院では1Fから運ばれた負傷者は院内に入る前に医師の立ち合いの元で、汚染がないかどうか測定するルールになっていた。

 搬送中は石塚が痛い、痛いと叫びが止まなかった。

「骨折と言っても踵だから大げさだよ」そう瓢タンが言うと石塚は「そんなこと言っても、車が上下にガタガタする度に痛いんですよ」

 国道6号は地震でひび割れや穴があいてデコボコしており車が走ると頭が天井に着きそうになることもある。

 1Fで汚して救急車でいわき市の病院で診てもらうためには身体サーベイして記録を持参していないといけない。記録は東電がサーベイして作成する。病院の救急口で石塚を搬入しようとすると医師がでてきて言った。

「入れちゃだめだよ。その患者が放射能汚染していないかどうかサーベイしてください」

「東電がサーベイした記録があります」と言って瓢タンはそれを医師に見せた。

すると医師は、「いま目の前でサーベイしてください」

 瓢タンは手持ちのサーベイメータで汚染のないことを示して、石塚は病院の中に入ることができた。診察の待ち時間の間に瓢タンは東電の付き添い担当に言った。

「記録があるんだからそれで信用してもらってもいいと思うけど」

すると東電職員が言った。

「東電と言っただけで信用されないのが実情でして。自分も普段は極力東電ユニフォームを着ないようにしているんです。肩身が狭いんです」


そんなふうにして現場は混乱の中で始まった。



【4】大物搬入口の不気味な風

瓢タンは2011年6月から8月までつぎつぎと送り込まれる新入り作業者たちの教育に追われた。実際には現場の放射線測定をしなければいけなかったが、測定器の読み方を教えれば職員が代行してくれた。測定記録は夕方職員が事務所に持ち帰るが、その記録を判別する作業があった。

「あの~、この0.3(mSv/h)という数字は3(mSv/h)ではないですか?」と瓢タンが測定してきた作業員に聞いても答えがなかった。

 簡易測定器は表示単位自動切り替えだが、放射線測定専門ではないので単位を判別せずに数値だけを記録してくる。そこで10ポイントある測定点を確認しながら記録の訂正をする。

「単位を記録してもらえませんか?」そう依頼すると思わぬ答えが返ってきた。

「そんな悠長なことやってられないんだよ。そこの大物搬入口の前を車で通過しただけで数値がぐんぐん上昇するんだよ。」

 海側から風が吹いているとそういうことがあるらしい。そして車から降りて線量率測定したらさっさと車に乗ったままその場を去るらしい。JV職員も被ばく線量を気にしている。とくに派遣会社から来ている職員は現場ジプシーでありJV正社員にとっては被ばく要員でもあった。それでもなるべく末永く日当や現場手当てがほしいので被ばくしないように焦って走り去るのである。

 この時期は乗用車の外も中も線量率はあまり変わりなかったので社内で測定してもあまり変わりはないが、測定記録として残すためには外の空間を測るように指導した。

 放射線が乗用車内外であまり変わらない原因はセシウム137の割合が多かったからだ。セシウム137の放射線は強くてフロントガラスや車体ではあまり低減しなかった。半減期が約2年だから事故後半年くらいはそんな状況だった。

 3号機大物搬入口の前で風が吹くと線量率が上昇するのは、原子炉建屋内には粉塵の放射能が大量に残っていてそれが風向きに依って噴き出してくるのか?ともかく現場作業員によれば原子炉建屋から噴き出す風とともに線量率がぐんぐん上昇するらしい。

 ヨウ素131の半減期は8日だから3か月もすればほとんど消滅する。しかしなにせ原子炉建屋に残ったヨウ素の母数が大きい。あるいはセシウムが気体中の塵に付着して飛んでくるのか。

 原子炉建屋の大物搬入口は海と反対側の建屋西側にあるが、風が吹けば燃料デブリに暖められた蒸気と一緒に核分裂生成物であるセシウムも混じってくるということか。原子炉建屋は水素爆発以来瓦礫撤去作業は一切行われていないため、大量の粉塵が積もっているはず。

 開口部の扉は水素爆発で吹っ飛んでいたので応急にビニール製のカーテンを付けてある。風が吹くとカーテンがひらひらなびき、それに合わせて原子炉建屋内に残ったヨウ素かセシウムが粉塵と共に噴き出してきてそれで大物搬入口を横切ると測定器の値が上昇するのだろうか。

 いずれにしても教育講習で忙しい瓢タンは、被ばく低減のために慌ててそそくさと測定をしている作業員の小数点間違えがないかどうか、記録とにらめっこしながらの毎日だった。

 ところでその空間線量率の調査記録はなんのためか?マップを作成して作業員に現場の作業指導、つまりどこに立っていると1時間で何mSv、一番高い場所はここ、とか教育するためだった。それと線量率の低下推移によって今後の計画の被ばく線量の計画をするためだった。


【5】ビビりの初回測定

事故時、非常時の高線量下では年寄りから先に被ばくしていった。中には100mSvの年間限度を超えたものもかなりいた。ず~と原発で作業してきた放管の中で、600mSvを超えた者もおりそういう場合、仕事(放射線作業従事者)での被ばく線量が生涯1Svという制限があるので差し引いて残りを計算する。

仕事での被ばく線量が生涯1Svという制限は宇宙飛行士も飛行機操縦士も同じである。むしろ宇宙飛行士のほうが制限が厳しく、800mSvを超えると飛行はできない。緩慢な被ばくと短期の被ばくでは短期の被ばくのほうが放射線感受性が強い、宇宙飛行は短期に300mSvなど被ばくする、という理由だ。同じように子供や若年者のほうが年寄りより放射線感受性が強いと言われている。しかし放射線作業従事者は18歳以上なので一律で決まっている。

法令では年間最大50mSv。今回緊急時ということで政府が年間100mSvまで許可している。3号機JVの被ばく線量の自主制限は法令の8掛けで、年間40mSv、5年で80mSv。しかし3年で年間100mSv被ばくすればすでに5年間の限度線量に達したので次の2年は現場にいけないから日当も手当てももらえない。

放管は自己管理で年間通して平均値で仕事継続しなければいけないので計画的に週一回だけ現場へ行くことにした。月平均1.33mSvの計算で5年間で80mSvでやっていけるように行動予定を立てた。そこで現場の線量率を測定するときだけ現場へでることにした。しかも測定ポイントは3号周辺の10ポイントを決めてその推移を記録してゆくことにした。


初めての現場は、JV職員としてジョイントベンチャーの真水建設の東海さんと一緒だった。東海さんは3号建屋南側のSGTSエリアの線量率が高いからそこを図りたいと言い出した。そこは瓢タンの個人線量管理計画では被ばく量が大きいので自分が行くことは無理だった。

「それをやるなら東海さんが測定してくれませんか」と瓢タンが言うと東海は気軽に引き受けた。年齢は61歳で定年後の赴任だった。放射線被ばくはあまり気にならないらしい。

「でも念のためテレテクターをもっていきましょう」と瓢タンが提案した。

テレテクターとは釣り竿のように伸縮する測定器である。4mくらい伸びるので被ばく線量は抑えられる。放射線の被ばくを抑えるには、1.距離。2.時間。3.遮蔽物。

「伸ばしたテレテクタより自分が先にいかないようにしてください」

 下請け作業員にテレテクタを持たせて数字を読み上げて、東海は測定ポイントを指示して記録紙に記載する。

SGTS現場の行動は監視カメラで撮影されて、免震棟の遠隔監視盤に映されるようになっている。

いざ現場へ行くと、東海は10mSv/hの高線量地帯に入った。すると東海の心臓の動機は早まった。だれでも経験のない高線量エリアへ初めて足を踏み入れると緊張してそうなるのだ。監視カメラに映った作業員と東海の映像では、東海が高線量ポイントを支持するためにテレテクタの先端に立って「ここだよ」と指示している。監視カメラで見ていた瓢タンが声をだした。現場のスピーカーから東海さんに呼びかけた。

「東海さ~~ん。だめですよ~、テレテクタの後ろに立ってくださ~い」

同時に免震棟の遠隔監視室で見ている職員も声を上げた。

「おい、おい、東海さんがテレテクターの前にいっちゃったよ」

「東海さ~ん、線量計の後ろに立ってください!」

しかし画面が映るだけで緊張して測定手順を忘れてしまった東海にスピーカーの声は届かなかった。

そうやってみんな高線量に慣れてゆくのだった。一旦高線量エリアの経験をすると、体に何も変化がないことを体験する。今度は、逆に高線量に麻痺してしまい、高線量がなんとも思わなくなる。

東海さんは高線量地帯の測定が終わると平然と帰ってきた。

「おう、最高20mSv/hだったよ。」

いままで誰も経験のしていない高線量を測定したことを自慢げに瓢タンへ伝えた。これがその日の鹿山事務所の武勇伝ではあった。

高線量の原因は事故時のSGTS配管やトランス類だった。配管系統に漏れが生じてメルトダウンの影響を受けたのだろう。

しかし20mSv/hなどはまだまだ序の口で線量率測定はこれから先どんどん上昇してゆくのだった。


【6】巡礼

夏の盛りのお盆の頃、真一の両親が四国巡礼から帰ってきた。それを人伝に聞いた瓢タンは仏壇へ線香をあげに行った。3月末の事故の時の真一の両親の落胆の色濃い影は薄れていつもの平凡だが実直で淡々とした人間がそこにいた。

真一はガーガの呼び声のあとに何を言いたかったのだろうか。その答えは見つかっただろうか。

以前と異なるのは家庭の中に光がないように感じた。朴訥誠実な両親は依然のままでも、その家庭にあるべきはずの真一がいない。それが全体の光の華やかさ減じていた。真一がいれば窓に射す木漏れ日は居間の中でもっと弾んだに違いない。今の木漏れ日は木漏れ日そのもので、それ以上でもそれ以下でもない。

仏壇は目立ちすぎずさりとて過不足なくその部屋にしっくりと座していた。その前の派手な置物に目をやると瓢タンの目に入ってきたのは真一のクラスメートたちの名前が付いた供えた供物だった。

実は級友たちが小学校担任の先生と一緒に行かないかと誘いはあったが瓢タンはそれには同意できず、一人で訪問した。小学生を振り返ると津波以外の真一のもうひとつの、もしあのとき、の疑問が湧いたからだ。

幼いころ真一の人生の選択肢は二つあった。運動も勉強も抜群の彼は小学校からいわき市の記録をいくつも持っていた。特に校庭の鉄棒で遊んでいるときの真一はウルトラ技を自分で習得するほどの素質を持っていた。噂を聞きつけて元オリンピック選手がスカウトに来るほどだった。瓢タンもその才能を伸ばしたほうがいいと思っていた。

「中学から全寮制の体育専門の道があるから、特待生でもいい」という誘いだが、担任の教師は運動でのリスクを懸念し、逆に真一の学力を見込んで勉学と言う安全で地道な道を薦めた。

「真一くんにもしも大けがをしたら両親に申し訳ない。先生としては安全な道を進めるよ」リスクを嫌う真面目な教師らしい指導だった。

それがどうしてこんなことになったか、リスクを回避して堅い職業を選んだはずなのにの・・・瓢タンのなかで、仏壇の前でフラッシュバックしたのは幼いころの選択肢の「なぜ」だった。津波の時になぜ真一がそこに?の疑問は消えて、次には、なぜ優秀な人間が不運に出会い、出来の悪い自分が生き残っいるのか?という答えのない問が生まれる。

その「なぜ」の疑問は学校の担任に向けられた。学業で堅実な道を勧めたことが裏目に出て結局は真一を不運にも死なせたのではないか。自分にとって良くしてくれた幼馴染の不運の因果関係の「なぜ?」の答えを探さなければ瓢タンの心は落ち着かなかった。

級友たちと一緒に訪問しなかった理由はそこにある。担任の教師やみんなと真一の辿った過去を肯定できなかったのだ。しかし責任を誰かのせいにしたところで瓢タンの心は晴れるのだろうか、むしろ逆ではないだろうか。瓢タンは真一が体操の先生になって故郷の子供たちを指導してほしかった、過去をそうやってほじくりかえして、~たら~すれば、と頭の中で妄念をめぐらしたとこころで、それは瓢タンの頭の中だけの妄念にしかならない。

供え物に書かれた同級生の名前や、電力会社の機械課の職員の名前をひとつひとつ脳裏に刻むように見つめた後、仏壇に礼をして反転すると真一の両親の淡々とした微笑みが真一を包んだ。その向こうに仏陀の後光が射しているのだろうか、その穏やかな笑みに包まれて真一の実家を出でば淡々として平凡な日常に戻りつつあった。

真一の実家の裏には大利水力発電からほとばしる水流と阿武隈山系汲めども尽きない清流が合流していた。透明な水がとうとうと集まって好間渓流に注いでいる。

好間渓流は浜通りの二級河川である夏井川の支流で上流水源地はいわななどマニアックな釣り人が好むところで、中流の好間団地あたりには鮭の産卵場所がある。

豊富で透明な水の流れはなにひとつ変わっていなかった。どこまでも清々として満々と流転して尽きない源流を見ていると瓢タンの尽きない問いは消えていった。

津波と言う自然の猛威に翻弄されながら、清流のたおやかさに日常を取り戻すようでもあった。


帰り道のバスの中で瓢タンぼんやり景色を眺めていた。ぼんやりしながらとりとめもないことを廻らすのが好きだった。

真一の両親はお遍路でガーガの呼び声のあとに何を言おうとしていたか、その答えは見つかったのだろうか。いや、お遍路とは巡礼のこと。巡礼とは聖域に触れる行いだ。人は行いをしている最中はああだのこうだの考えないものだ。行動していて考えないことが答えかもしれない。

そう言えばクラスメートの桜井理恵の名前で花が飾ってあった。体育館では津波で亡くなった方々の遺体もたくさんあって、悲嘆にくれた遺族や地元の顔見知りの人もたくさんいた混乱の中で彼女と真一が付き合っていたことに気が付かなかった。年齢で言えばそろそろ身をかためる時期だった。

瓢タンの親類には会うたびに早く結婚しなさいと言うのが口癖の叔母がいた。世の中にはおせっかいな人がいるものだ。そういう人は大抵は親類の叔母さんなのだ。黙って聞いているとそのうち見合い相手探してくるかもしれない。非日常の困難な出来事のあとには日常のややこしさが付きまとうが、それも生きているからこその事だと思い知った。


【7】あっちもこっちも警報オーバーの現場

 鹿山建設が3号機JV事務所を開設して1か月は登録証手続きと教育講習などでほとんど現場には行っていない。東海さんの発言を機に、お盆が過ぎるころ瓢タンは週一で現場へ測定作業に出かけることにした。被ばく線量の限度があるのそれ以上は現場に立つことができない。

Jヴィレッジからさらに40分かけて免震棟休憩所に着き、全面マスクや防護服を脱衣して、自分の出番がくるまで私服で雑魚寝スタイルの休憩エリアでごろっとしている。そして出番がくればまた全面マスクと防護装備に15分かけ、構内作業専用車で3号機周辺現場まででかける。免震棟から車で5分くらいの3号現場へ出かけて、30分くらい線量率調査して免震棟休憩所に帰ってくる。

 12時頃には作業員が一斉に帰ってくる。電力会社下請けの放管員たちは免震棟休憩所、実際は免震棟に併設した建屋の帰還入り口に5か所の汚染検査ポイントを設置して、1か所を作業員の前後2人で測定し、計10人くらいが作業員を前後に挟んで身体汚染検査をする。通称手サベと言う。機械で測定するのをHFCM(ハンドフットクロズモニタ)という。それは入退域箇所であるJヴィレッジの体育館に設置されて一般区域に出るときのチェックをしていた。1F構内免震棟からJヴィレッジまでの通行間に汚染することもある。 免震棟の手サベではつま先から頭のてっぺんまでをサーベイメータをゆっくりすべらせながら検査する。

そんなとき検査を受けていると作業員が身に着けているAPD(アラーム付きポケットドジメータ=線量計)がピーピーとけたたましく鳴る。警報設定の1/5を超えたのだ。現場から鳴らしながら帰ってくる者もいる。5/5の最大値を超えてキュイーンキュイーンと、種類の異なるAPDではピーピーと、いろんな方向から聞こえる。APDの内蔵電池がなくならない限り3分、もう一方の種類では電池が切れるまでは鳴り続ける。

 たちまち放管が寄ってきてどこで作業したのか調書を取る。「工事件名は?なにをしていて警報オーバーしましたか?計画線量は?」この計画線量の質問で作業員は固まる。首をひねってぽかんとする。計画線量は元請けのゼネコンや日立、東芝、三菱が決める。そんな知識まで作業員には必要ない。作業員は警報がなったら仕事仕舞して帰るだけだ。「じゃあ貴社の放管は?誰?携帯電話で呼んで下さい」そして呼ばれた場合、瓢タンはそこへ駆けつけて作業員と電力会社放管の間で通訳となる。

鹿山建設の場合、被ばく線量が計画線量3mSvであり、APD最大警報は×0.7の2mSvに設定しており、3mSvを超えていると事故扱いとなり、いったん工事ストップして経緯と対策の報告書を提出し東電の承認を得なければ工事続行はできない。それは基本であって、この混乱期では計画線量超えが頻発し電力会社の管理限度を超えていた。電力会社の管理能力にも限度がある。結局、以後は注意してください、で一件落着となる。

 現場でアラームを鳴動すると3分くらい経って鳴りやむ。もう一方の種類APDではJヴィレッジに帰って返却するまで。3分で鳴りやむと作業員は安心してまた作業を継続する。この行為は違反行為で、最大アラーム鳴動したらただちに作業仕舞ってAPDを返却して管理区域から退域することを徹底させるのが現場放管の仕事だ。

 しかし、そこかしこで警報オーバーが鳴動するような、そんな混乱期が爆発後半年くらいは続いた。 基本年間平均20mSv(安全目安で鹿山建設では16mSv)の被ばく線量基準値を超えた作業員でも、以前から原発ジプシーを続けているベテランの場合は、他原発に移動して食口をつないだ。

相馬出身の野馬追馬主の遠藤が川内原発へ移動していった。瓢タンに電話がかかった。「エンちゃんですか、げんきですか。川内はどうですか、汚染無いでしょう」

「当たり前だよ通常運転なんだから、汚染しているのは俺だけ。内部汚染はまだ残っているからHFCM通るたびにアラームが鳴るんだよ。それで俺の首にプラカードつるしてんだ、汚染有りって、な。」

「ありゃりゃ、風評被害ですか?」

「風評っていうかな、実際まだ内部汚染してるのは事実だけど、プラカードぶら下げるのはどうかと思うよ、見世物に近いな、情けなくて泣けるよ。」

 HFCMモニタが放射能を基準値以上検出すると警報が鳴るから放管員は事情調査し、記録をして提出しなければいけない。しかし遠藤の場合は川内原発で汚染したわけではなく、福島から移動してきたときすでに内部汚染している。セシウムの内部汚染はガンマ線が体の外に出てくるのでHFCMや手サベで検出される。いまさら調べても意味がない。それで放管員が調書を取らなくていいようにプラカードを下げるように指示されたわけだ。

「瓢タンよ、俺は汚染の差別なんてことより、いま気にしているのは馬だ。」

 遠藤の場合、野馬追のために自分が飼っている馬が問題だった。自分のいない間家族が馬を養うが、家族は野馬追参加していないのでいやがっているという。

「おせん泣かすな馬肥やせ」は戦国時代の話で、汚染で泣いてるエンちゃんはそろそろ馬を手放す時期かと考えていた。野馬追もできなくなる、それが寂しい。

 エンちゃんは言った。

「汚染泣かすぜ馬放せ、だろう」


【8】全面マスクは水中マスク

 瓢タンは鹿山建設に派遣採用だったので鹿山社員と同じホテル住まいを選択した。鹿山職員と同一行動ができるし、地元の叔母と会うたびに結婚をせかされることも疎ましい。

東北のハワイと言われるくらい温暖な気候のいわきだが7月末から酷暑がやってきた。

JR常磐線いわき駅は地名から言うと平(たいら)であり、平の呼び名が昔から使われている。磐城平城、別名龍ヶ城のあった場所である。そのJRいわき駅前の日の当たる信号下には電光温度計があるが、10時からすでに30度を記録した。2011年の夏である。

鹿山建設の3号機JVの休憩所は原発構外隣接地に設置した。プレハブの備品倉庫では瓢タンが白い防塵用の通称タイベックスーツに身を包み全面マスクをつけて、作業員が着る遮蔽スーツの修理をしていた。

遮蔽スーツはアメリカ製であり、一着定価80万円もするので補修して再利用する。ガンマ線被ばくを防ぐための遮へいスーツは重さ14kgだ。エアコンなど無い、密閉されたプレハブ倉庫の中で革製品用の手縫いストレッチャーを使って手縫い補修するのだが14kgを持ち上げたり降ろしたりで一気に汗がでる。顔を下に向けての軽作業だが、14kgを何度も上げ下げするのは実は原発での最もきつい作業である。

1Fでは空間線量率の高いエリアの作業は被ばくに縛られて短時間で終わる。構外のような線量率の低いところは被ばく制限に達するまで長時間作業となる。

縫製作業していると全面マスクに溜まった汗がみるみる増えてきてまるで水中マスクに海水がしみ込んできたようだ。全面マスクの中で水面が視界に入るほど上昇してくるや否や鼻にも水が浸入してきた。息ができないので顔を上げると溜まった汗が全面マスクの吐気口からドバーと流れ落ちる。

 そんなことを二、三回くりかえすともう暑さで耐えられなくなり、隣接の休憩所へ引き返してエアコンの効いた部屋で休憩して、それで一日の作業は終了だ。正味2時間。構外休憩所の隣接倉庫なので空間線量は低い、だから軽作業なら4時間でも可能だが熱中症の危険性があるため2時間で終わらせた。

 構内現場での夏季は作業員の身体はずぶ濡れ状態。タイベックと遮蔽スーツを着用して、長くつを履いている者は作業終わって長くつを逆さまにすると片足1Lの汗が落下する。作業は1時間以内だが、15分で終わる作業もある。被ばく線量管理が時間を決めている。

 タイベックスーツはデュポンの製品で0.5ミクロン以上の粉じんの侵入を98%防ぐ白いツナギの紙のようなスーツだ。それを原発では放射性粉塵防護用に使っている。透湿で液体は沁み込むが風が吹かない限り密閉サウナ状態である。外界30℃以上では体重が4kg減らす者もいる。休憩所に体重計を置き、出る前と作業終えて帰ってきたときと数値の差を記録している。

 熱中症予防のためいクールベストといって冷却材を背中につけているが、15分もするとその冷却材が湯たんぽのようになり、却って逆効果だと嫌う作業員もいる。

 外気温度25度以上になると休憩所から現場へ出るにはクールベストを着ているかどうかもチェックノートに記入しJV職員が確認する。

「あれクールベスト着ないと現場に出ること出来ないよ」

「じょうだんじゃないよ、いっしょに作業してみろよ。15分で湯たんぽだよ。着けないほうが楽だよ。こんなん付けたら余計熱中症になる。殺す気か」

 現場の最先端は作業員だ。自分の身は自分で守る。その作業員に断固として拒否されたらゼネコン職員は説得できない。なぜならゼネコン職員は現場で監視指導あるいは周辺の準備や配膳作業するだけで実際の作業はしていないのだ。

 それは電力会社も同じで、原発の計画運営業務ではあるが、電力会社の社員は作業しないことが原則である。厚労省のWBGT熱中症対策指導というのがあり、電力会社もそれに準拠しているが、WBGT値は気温と湿度の関数表がありWBGT値30℃を超えたら安静を保ちなさいと言う。湿度が80%を超えたあたりから5度毎に約0.5度の割で気温よりもWBGT値のほうが高い。

 更にビニールの防水アノラックを着ると補正値が10℃で、WBGT25℃でもアノラックを着れば35℃となってしまい作業はできずに安静にしていなければいけない。それでは仕事ができないから例えば15分とか時間制限でやりくりする。現場の車の中でエアコン効かせて休み、15分出て行って作業し、また車中エアコンで体を冷やす。

 WBGTが25℃の雨の中、アノラック着て補正値足せばWBGT35℃で作業中止となる。しかし雨のときはだいたい気温は20℃くらいになる。補正して30℃。これで中止していたら梅雨から夏季の工程が捗らないので15分刻みとか作業員任せの管理になる。したがって過酷な条件でも作業はするし、要するに、作業員は日当と手当を得るためには自分で自分を守らなければいけない。


【9】オペフロ線量低下と地上線量上昇

6月から8月までは大型クレーン重機が動くための路盤整備に明け暮れた。3号原子炉の使用済み燃料はオペフロ階のプールに保管してある。その使用済み燃料を取り出すためにはオペフロにクレーン設備を設置しなければいけない。そのためには水素爆発で吹っ飛んで落下したオペフロの瓦礫を取り除いて更に分厚い鉄板を敷いて原子炉からの放射線遮蔽をすることが必要だ。クレーンを吊るすためのドーム建設のためにどうしても人の作業は必要であり、その為には人が作業可能な空間線量率まで下げなければいけない。現状10Sv=10,000mSv/hから1mSv/h以下が目標だった。

3号原子炉建屋の屋根や壁が吹っ飛んで残った竜骨のようにぐにゃりと折れ曲がった鉄骨や、吹っ飛ばずにまたは吹っ飛んだけど重くてそのまま落下した瓦礫を取り除くことからスタートだった。地上に降ろすまではクレーンとその先にカッターやバケット、ショベルなどのアタッチメントを付けての遠隔操作だった。

操作は免震棟の一区画に設備した数台のモニター画面をみながら行う。

クレーンの先に油圧開閉可能なバケットを吊下げてオペフロ上から瓦礫を掴み取って降ろす。地上に降ろした瓦礫は地上部隊がトラックに積み込んで原発構内の山の中の廃棄仮置き場に捨てに行く。

せっかく路盤を整備して線量率も2mSv/hくらいまで下げたのにオペフロから降ろしてくる瓦礫はその百倍もあった。

地上瓦礫撤去チームはオペフロ瓦礫撤去チームに皮肉まじりに言った。

「我々はこの地上のの放射線を下げようとしていままで路盤整備してきたのに、オペフロ瓦礫撤去チームってその逆だね。地上のの線量率を更に上げるのが仕事かよ。」

地上では線量率を下げるためにひたすら高線量高汚染物を山の中に廃棄して、そのあとオペフロ撤去チームはひたすらオペフロの桁違いの線量を持った瓦礫を地上に下ろして地上の線量を上げた。そんないたちごっこがその後何年も続くのだった。

3年で3号機建屋を鉄骨で覆いオペフロ階を使用済み燃料取り出し用のドームで覆うという計画は全く達成できそうにもなかったのだ。計画は見直されて7年かかることになった。

原子炉自体は高さ20m直径4mの鉄の容器だ。そこから漏れた放射性物質が東日本を震撼させた。20km圏内の森林は放射性物質を被って人も避難した。瓢タンは3号機建屋のまえで、こんな建屋ひとつが東日本、いや太平洋を渡って北米西海岸やさらにはシベリアを超えて欧州にまで放射能を届けたのかと思いながらつくづく見上げた。と同時に涙がでてきた。3号の崩壊した建屋の上に竜骨のようにぐにゃりと曲がった鉄骨、その無残な姿と、たったこれだけの20m×4mの大きさから出た放射能が太平洋側東日本の延々と続く原野に降り注いで、放射線専門の原発専門家たちから大丈夫ですと言われつつ20k圏内の人たちが生活を奪われた。ヨウ素もセシウムも東京まで南下してホットポイントが計測された。何が大丈夫なのか? 

瓢タン自身も常々、災害が起きたら原発が一番安全と思っていたし、そのように周囲に話していた。どこが安全なのか・・・3号オペフロ崩壊の無残な姿を見る度に情けない気持ちが押しては引く波のように何度も繰り返された。



【10】除染電離測と帰還基準

原発事故によって東日本に広範囲に飛散したのは核分裂生成物質の中の放射性物質で一般的には放射性同位元素と言われる。とくに福島県の相馬から浜通りと呼ばれるいわき市北部の太平洋側に高濃度に飛散した。それは風向きに依るもので爆発初期に伊達方面の北西に飛散し、その後は反時計回りに南向きに変化して霞ヶ浦のほうへ向かい、柏や足立区墨田区、新宿にも降下し、神奈川県にも届き、その後太平洋を北上してアラスカ方面まで到達した。列島では山脈に隔てられて日本海側には到達しなかったが太平洋沿いの南側では宮崎まで飛散し検出された。偏西風に従って放射性物質はハワイやカリフォルニアでも検出された。

飛散した核分裂放射性物質であるセシウムの量は広島原爆の約160倍。

原爆では瞬間の中性子線と熱波によって多数の死者をだしたが核分裂自体は一瞬なのでそれに伴う核分裂放射性物質は今回の原発事故よりも極端に少ない。だから10年で広島、長崎は復活した。

事故後には法令上は原発構内も避難区域も放射線管理区域と見なされるが、構内は管理対象区域と命名された。放射線管理区域の法令着て規定は3か月で1.3mSvを超えるエリアを指す。1300μSv/91(日)=14μ/日。通常ならそこは事業所内であり住居ではないから、その事業所で決めた一日の仕事の滞在時間で割れば時間当たりの放射線量率数値が決まる。例えば作業時間が一日6時間なら1300μSv÷91(日)÷6(時間)≒2.4μSv/時間となる。

放射能(線)を扱う事業者はその事業所の放射能(線)を使う管理区域ではでこの数値を守っている。そして法令では事業所外の一般公衆人(18歳未満の児童や妊婦など)への被ばくをさせないように事業所の境界の数値を年間1mSvとして周辺住民の被ばく線量を年間1mSvを超えないように担保している。

この法律は原発の他にも病院や大学、放射性同位元素を扱う事業者(大学、医薬メーカーなど)に適用される。今回は東日本一帯にまで放射性物質が飛散したので電力会社では手に負えず、国が管理することにとなり住民にはまず大まかな範囲で避難指示をだし、自治体がそれを受けてエリアを設定し住民の避難指導に当たった。

避難区域を管理する法令がなかったので除染電離規則という法令を作った。

年間1mSvは365日24時間で割れば0.11μSv/時間となるが、家屋の中にいる時間と屋外に居る時間を考慮して、政府は0.23μSv/時間以上の地域を除染調査対象区域に設定した。

避難民の帰還基準は初年度20mSv、将来的に年間1mSv以下を目指す方針を謳った。しかし初年度20mSvであればセシウム137の場合は半減期30年だから、自然に減衰を待てば年間1mSvまでは120年かかる。実際にはセシウム134の半減期が約2年なので3年で自然減衰して約半分になる。放射能と言うのは時間だけがそれを消すことができる。

原発の核分裂放射性物質の代表的なものはヨウ素のほかにセシウム、ストロンチウム、ウランなどがある。ヨウ素131は半減期8日なので除染電離規則が決まる頃にはほぼなくなっていた。ストロンチウムやウランは存在比率がセシウムの100分の1以下であり問題とはならなかった。

しかし原子番号55のセシウムには質量数134のものと137のものがある。その二つが事故で飛散した。134Cs、137Csと表記するが134Csの半減期は約2年でエネルギーが強く、137Csは約30年でエネルギーは134より弱い。そこで二つを合わせて計算すると134Csの減衰の影響によって初めの3年で半分つまり約0.5になり5年で0.4になる。その後134Csはほぼなくなるので137Cs だけがのこり30年単位で半分に減ってゆく。

除染をしなくても3年経てば放射能は約半分に減るのである。帰還ができないのだから3年経ってみてから除染しても良かったが政府は国民の目を気にして大規模な予算を組んだ。避難して生活権利を奪われた人たちが一刻も早く帰れるように。ニュースでは殊更に半分に減りましたと言っているが、何もしなくても3年経てば約半分に減るのである。

さて、政府は市民を帰還をさせたくて除染をしているが、市民からすると帰還出来ないうちは補償金がでる。帰還すれば補償金はでないので困る人もでてくる。

月8万円の清掃仕事の人はその仕事を奪われており、帰還してもその8万円の収入が戻らないからだ。

一般公衆以外の放射線作業従事者(18歳以上)は生涯1Svまでの被ばくでを政府は許容している。年間20mSv で5年間100mSv、50年間1000mSv=1Sv。20歳で放射線従事者作業始めて50年間の70歳になったら1Svに達する。

放射線は大量に被ばくするとその時点で数値に応じた身体の反応がでる。皮膚のケロイドや嘔吐、7Svで約50%の即死率。

しかし平均年間20mSVの低線量では5年で100mSvとなり晩発性影響といって発癌症状が遅れて出てくる。それは癌細胞などで、最初の癌細胞が分裂発生してから繰り返して増えてゆき10年、20年で発症、発見されるまで成長するからだ。

 晩発性影響は統計的には100mSv被ばくすると致死癌のリスクがある。しかし100mSv以下ではその統計が明らかではない。リスクが無いと言う証明もできない。だから安全側に配慮して100mSv以下でも致死癌リスク=確率があるとして放射線を防護する立場では考えている。これをLNT仮説と称して比例計算できる。

 発癌しないように放射線防護基準で可能かなぎり被ばくを避けて、もし発癌したらそれが放射線によるものか生活習慣に依るものか証明はできないので、統計的な基準で妥当性を審査する。それが労災認定だ。

しかし児童に対してはその基準が定かではない。

1Sv=1000mSvで5%の致死癌リスクだから100mSvで0.5%の致死癌リスクの追加となる。追加と言うのはもともと日常の生涯で考えると約26%が致死癌を発生している。それに0.5%追加される。政府は日常のリスクに1%までは変動範囲であり市民に許容されると考えている。

低線量被ばくに閾値はないが許容値はあるというのが政府の考え。

一般公衆1mSv/年間が許容されるかどうかと言うと、日本では通常自然から受ける被ばくが2~3mSVであり1mSvは地域誤差の範囲であり許容されるだろうと考える。

年間1mSv被ばくした場合100歳では累計100mSvとなりそのリスクは致死癌が0.5%追加となる。100歳時点の致死率は26%だから放射線で1Sv被ばくしても致死癌発症0.5%追加なので、1%以下は変動範囲であり、市民は許容できるだろうというのが政府の考えである。

政府は年間20mSvで帰還可能、将来1mSV/年間に戻すと決めた。

しかし問題は放射線の影響リスクが年齢に応じて放射線感受性が異なる。帰還基準にはその年齢別区別がないことが欠点であり、母親たちの不安感を誘う元になっている。

年間20mSvを上限として帰還できるとしても大人も子供も同一だから親としては不安である。どんな物質規制でも子供のほうが弱い。薬も子供の服用は量が少ない。

また親にとっては、生涯の致死確率が0.05%としても親は子供場子供でいる間は子供には判断選択できないのであり、親はその0.05%であっても避けられれば避けたい。

被ばくを避けられれば避けるという親の直感は放射線防護基準の「ALARA=as low as reasonably achievable、合理的に避けられれば避ける」に適っている。

従来から原発は事業所境界を1mSvの更に1/10とか殊更に報告しているが、やればやるほど費用が嵩みそれを電気料金に乗せていることになる。そもそもなぜ1mSvの1/10に下げなければいけなかったのか。そして一旦事故が起こると1mSの20倍でもやむを得ぬことになった。

帰還基準が当初年間20mSvであればセシウム半減期30年によって生涯約600mSvとなり放射線作業従事者の1Sv=追加致死癌リスク0.05%より低い。屋内に8時間はいるだろうからそれを考慮すると500mSv以下になるだろう。大人にとっては追加リスクは0.05×5=0.15% <1%。通常の生涯致死癌リスク26%に比べれば政府の言うところの許容範囲かもしれない。

児童や子供はどうだろうか。

生涯癌死亡率26%

80歳までの癌死亡率26%

70歳までの癌死亡率10.0%

60歳までの癌死亡率2.9%

20歳までの癌死亡率0.00%

20歳までに癌で死亡する確率はほぼ0%に近い。

だから親は子供が大人になるまでは日常以外の新たに加わる追加リスクを0で育てたいと思う。日常でさえリスクを0で子供を育てたいと思うのが親心だろう。

年齢別の放射線感受性を、例えば年齢別に児童、幼児は放射線感受性が20歳以上の4倍にした場合、20mSv/4=年間5mSvとなる。単純な掛け算で18歳までに90mSv。これが安全かどうかは証明できないが感受性の違いを数値で表現すれば例えばこうなる。

病理的な因果関係はさらに不明で、その癌がストレスかタバコか他の要因か、癌が発生した時点を捉えることができないから、何が原因か証明できない。

作業従事者の放射線労災認定は可能性として妥当と思える条件を設定しており、因果関係の証明ではない。逆に、放射線影響ではないという証明もない。疑わしきは排除せずという科学的態度である。

現実に市民が直感的判断によって児童、子供や孫を帰還させないことは統計的な疫学事実(年齢が低いほど放射線影響が高い)に基づいたALARAとしての安全行動と言えるだろう。

60歳以上は放射線作業従事者の基準で年間20mSVでも20年間の80歳までに最大400mSv、80歳過ぎれば癌より老衰死のほうがリスクが高い、だから帰還自由とすればより現実的だったのではないだろうか。ただし、生活に必要なサプライチェーンがないしインフラも整備されていないので日帰りか、数泊とかして避難場所との往復になる。それでも、畑仕事や故郷の慣れ親しんだ場所で過ごせるほうがストレスがすくなく、避難に依るダメージがすくない。墓参りもできる。花見もできる。

 帰還規制によって福島県の避難関連死者数はその後2,300人以上になった。ちなみに震災死者数は2,686人だった。



【11】役所の指導通知には勝てない

原発構内の作業のうち一日1mSVを超える場合、元請事業者は厚労省へ作業届を出すことになっている。原発の厚労省の窓口は富岡労働基準監督署で、本来は原発自体は電力会社が事業者だが、復旧作業は労働安全衛生法では作業を受ける事業者が労働者の被ばく線量管理をすることになる。法規は労働安全衛生法下の電離放射線規則、通称は電離測という。

その場合作業の被ばく線量予想が1日1mSvを超えるような企業に絞って、元請け企業毎に労基署へ作業届を出すことになる。

3号機建屋復旧作業の通称3号機瓦礫撤去JVでは最初は鹿山社員の安全長が説明に行ったが話が通じないので放射線管理者である瓢タンが届を作成することになった。届出内容は作業員の被ばく線量合計と個人ごとの数値計画だ。

最初の一か月は工事予定もどこまで進むかわからない状態だったので当月15日に被ばく線量集計して残り15日を比例計算して当月予想の届をだした。

計画を出したら実績との比較で1.5倍以内に入っていない場合、理由書を提出しなければいけにというルールになっているから、実績を見てから出せば差異がすくない。

すると監督署の担当役人が言った。

「3号機JVさんは何を考えてるんですか。届と言うのは予定ですから、前月に翌月の計画を出すんですよ。あなたは当月の終わるころに当月の計画をだしているじゃないですか。それは計画じゃなくて実績でしょう。」

企業にも言い訳がある。

「そうは言ってもですね、高線量瓦礫が散乱している状況で来月の計画なんてはっきりしないんですよ。明日なにをするか前の日の実績によって決まるんですから。」

そもそも事故後の瓦礫はその場に行ってみないとどれくらいの線量率かわからない。石ころ一つが100mSv/hなんてざらにある。オペフロ瓦礫に至っては、降ろしてきて初めてその線量率が測定できる。そんなわけで現場ではあちこちで警報オーバーが鳴り響く毎日だったが、実際に作業員の被ばく管理は年間最大50mSvという法令基準を守っている。

黙々と作業して一か月で鹿山建設上限の年度限度40mSvに到達し、故郷に帰った作業員もいた。一か月限度40mSv=年度限度となっているので一年続けるためには作業員自ら「きょうはこれで上限です」と宣言して仕事終いをしなければいけない。

一年経過して3月末を過ぎて4月になれば年度変わりで被ばく線量の年度限度は0にリセットされる。

作業員の多くは北海道や沖縄から来ており長く現場で働きたい作業員は年間40mSv、月3.3mSv、一日平均0.15mSv以内に自己管理している。空間線量率1mSv/hのエリアで作業しても実質一日平均10分弱くらいしか作業ができない。そこで14㎏の遮蔽スーツは必須になる。空間線量率で1mSv/hのところが被ばく線量は0.6mSv/hになるからだ。


「とにかく厚労省本庁からの通達です。もしそれが守れないのならオタクの社長宛に指導通知を出しますよ。」

 

来月予想を前月末に出す。ルールがそうなっているから守るしかない。不慣れな状況だったが3か月目はこれまでの2か月の実績を元に鉛筆なめなめで1.5倍を超えないように計画立てることにした。

計画は作業員の実績平均被ばく線量を一日平均0.15mSv、月の作業日を25日に計算して計画すれば作業ストップもあるので概ね計画値以下に落ち着く。

要は作業員が年間被ばく線量のぎりぎりまで最前線で働くことを想定して計算するだけの事だった。作業工程とか言っても、所詮は被ばく限度までしか作業できないのだから、監督はぎりぎりまで作業工程を進めようとする。

逆に言えば、放射線被ばく集計で作業工程の進み具合もわかる。被ばくと作業進捗は比例するのだった。


【12】「命を削って仕事するのですか?」

8月末に9月の計画を練ってみると作業員の最大の被ばく予定は最大月20mSvを超えていた。2mSv/hの場所で1時間作業すれば一日2mSvで、20日間継続して40mSvになる。

法令年間限度50mSvに対して鹿山基準年間40mSv以内なので法順守ではある。もっとも40mSv達した時点でその作業員は次の日からその年度終わりまで作業ができない。年度変わりの4月1日にはチャラになってまた新年度0スタートできる。

1日2mSvで作業をする場合、一日の計画線量が3mSv設定、APD警報を計画線量×0.7=約2mSvとして計画線量3mSvを超えないように管理するというのが電力会社原発のルールだ。そのためには最大警報を2mSvに設定しておいて警報が鳴ったら作業を止めて速やかにAPDを返却して計画線量3mSvにならないようにする。

実際には作業員も継続的な日当と特別手当がほしいから5年間で80mSVを5で割って年間16mSVを守れるように自分なりの被ばく管理をしてそれ以上の作業をしたがらない。年間16mSvを月にすれば1.3mSv、一日では0.05mSvとなって守るのはほぼ絶望的な数値である。

日当にプラスされる特別手当は原発構内の汚染度エリアの線量率と装備によって3種類に区分され、それぞれ2万円(高汚染:全面マスク、タイベックスーツ)、1万円(中汚染:半面マスク、タイベックスーツ)、5千円(汚染無し一般作業服)となっている。被ばく線量が予定より進んだ場合は、汚染度の低いエリアに配属を依頼する。


提出した鹿山建設の3号瓦礫撤去の放射線作業届を見て担当官は言った。この担当官は霞が関から短期出張で派遣された厚労省の役人だ。

「一か月で上限40mSvは行き過ぎではないですか。その作業員は1か月で作業終わりですか。」霞が関から来た担当官は質問する。

「それは最大値ですので実際にはもっと軽減しますが、これは計画というか予定なので最大限にしました。」と瓢タンが答える。

提出した予定を1.5倍を超えると経緯と対策レポートを出さねばならない。それがまたややこしい、煩わしい。

「実際にはそうはならないと言ってもねえ、被ばく予定をもっと下げられませんかね。作業員さんたちはそれで良いといってるんですか?」

「うちの工事は3号機周辺の線量率が高いので、月限度40mSvは作業契約に盛り込み済みです」

企業側の瓢タンは答える。

すると霞が関から派遣された役人は言った。

「そうなんですか、じゃあ・・・作業員は命を切り売りしてるんですねえ。」

「・・・・?」瓢タン

作業員の被ばくは法令上年間最大50mSv以下という数値で管理されており、その数値は目の前の厚労省が決めたものだ。その数値を守っていれば安全なはずではないのか?瓢タンは行き場のない憤慨を覚えた。それとも目の前の厚労省の公務員は無知なのか。すくなくとも厚労省の基準を守っているのに、当の役人がそれに対して「命を削って仕事してる」なんて、おかしい物言いではないか。

しかし憤慨とは逆に、これが役人か、実際には現場労働をしない人たちか、という諦めの境地で瓢タンは言った。

「法令基準は守ってやっているんですけどね」

瓢タンは皮肉には皮肉で応酬したつもりだったが、通じてはいないようだった。

一か月で40mSv被ばくしたらその年度は作業できない。次の4年間で40mSv、5年間合計で80mSv以内で管理することになる。法令上は5年間で実効線量100mSv。生涯で1000mSv=1Svが放射線作業従事者の許容範囲だ。

宇宙飛行士の生涯被ばく限度は放射線作業従事者よりさらに厳しい。初回飛行が30歳までは0.8Sv、40歳以上の場合1.2vとなり、年齢に依る。30歳以下で一回の宇宙飛行を経験した場合300mSv だと3回は行けない。鹿山建設も基本的には30歳までは1Fの高線量現場に行かせない。

電力会社が作業員に教える放射線AB教育では放射線の確率的影響(将来の致死性癌など)についてはLNT仮説(すぐに発生する吐き気や致死量の7Svなど確定的影響には閾値はあるが、致死性癌など将来発生する確定的影響には閾値がなく1Svで5%、100mSvで0.5%、10mSvで0.05%、1mSvで0.005%と直線的に確率は存在する。)を採用している。

100mSvでは放射線作業従事者の将来致死性癌確率が0.5%だが、放射線の影響がなくても将来というか生涯の致死性癌確率~26%であって、そこへ0.5%の追加は許容できる範囲とみなしている。つまり閾値は無いが許容値があるということになる。

20歳で放射線作業従事して年間20mSvで50年間作業して70歳で1Svとなった場合、70歳以上で致死性癌確率はもともと26%なので、それに対して追加される5%を許容してもらえるだろうと考えている。しかし平均年齢が100歳になったらもっと厳しくなるだろう。

一方作業者は日当と特別手当を稼ぐために仕事を継続したい。作業解雇されると地元など帰ってもすぐには仕事が無いから困る。自分と家族の生活を守るために一か月で2mSv、年間16mSVくらいに収まるように仕事を終わらせる。年間通じて働くことができて5年でなんとか80mSvにしようとして毎日APDの数値を計算しながら作業するのだった。

法令では放射線作業従事者の上限は年間最大50mSv、5年100mSv、年平均20mSv、であって一か月の法令基準というのはない。

基準を守っているのにそれを命の切り売りと言う人と何を基準に話せばいいのだろうか。瓢タンは届出の受付印をもらって割り切れない気分で富岡労基の事務所をあとにした。

帰りながら霞が関から来た役人に言い忘れたと思った。

・・・「月40mSvが命を削る被ばくならば、厚労省はなぜそれを許容しているのか?なぜ規制をかけないのか?法で許して置いてそれを守っている現場を批判するのか?」・・・

その真意を聞き忘れたと瓢タンは後悔しながらハンドルを切った。


【13】彼女があんたのなんなのさ?

9月末のまだ残暑がぶり返す時期だった。瓢タンは10月の放射線作業予定を届けに労基署へ行った。するとそこにはまた新顔の顔の大きな3頭身くらいの役人が座っていた。

3頭身の大きな顔の霞が関から来た役人の名前は三保(さんぽ)と名乗った。

霞が関から派遣された役人で名刺にはわけのわからないいろんな肩書がついていた。ひととおり来月の計画を説明するとその役人は扇子をひらひらさせながら言った。

「月の被ばく線量の限度が40mSvですって?」

「そうです。年間も40mSvで5年間では80mSvですから、法令基準内でやってますよ。」

すると3頭身の大きな顔は扇子を取り出してパタパタ扇ぎながら言った。

「あのさ、もう冷温停止なんだよね。復旧も安定期に入りつつある。」

冷温停止?瓢タンは3頭身の大きな顔の言うことが寝耳に水の驚きだった。3号機の原子炉建屋の屋上からは、夜になればライトに照らされた湯気が立っているのがわかる。昼間は見えないだけで、見えないところを報道放映している。

こんな状況で安定?冷温?たしかにオペフロの使用済み燃料のプールの水からは湯気は立たなくなったが・・・。

さらに3頭身の大きな顔は聞き手の表情を無視するように続けた。

「政府としても原発の安定を国民に宣言しなきゃならない。」

瓢タンは3頭身の大きな顔を見ながら思った、お前いったい何者?役人は政府なのか?・・・。3頭身の大きな顔は得意満面になって演説調で続けた。

「厚労省も労働者の作業環境を保証しなければいけない。月に40mSvの被ばくなんてのは混乱期の数値だ。いまは安定期に入りつつある。したがってそれなりの基準で作業管理してほしい。」

 3号原子炉建屋ではいまだに湯気が立ち上っている。夜間にははっきりライトに照らされる。そんな状態で安定期?どこを見てそんなこと言えるの?と瓢タンは思いながら受け答えをした。

「しかし3号機周辺の線量率が下がっているわけでもないし、オペフロからの高線量瓦礫が降ろされてきて、逆に線量率が上昇しているんですよ。被ばく制限をこれ以上低くしたら作業進捗の保証ができませんよ。」

すると3頭身の大きな顔は扇子をピタッと止めて瞬きを止めて瓢タンを睨みながら言った。

「小宮山も必死の攻防しているんだよ」

瓢タンは訝しげに思った、小宮山洋子?厚労省大臣?彼女があんたのなんなのさ・・・と。

おそらく国会答弁での与党野党の原発批判とのせめぎあいのことだろう。

それにしても目の前の大顔の役人と大臣の関係がわからん、と瓢タンは思いながら聞いた。

「はい、といいますと?」

瓢タンは厚労省の納得できない理由に対して、一応イエスバットの基本的な応答をした。

「だから月の被ばく制限を20mSvにしてもらわなければ困るんだよ」

 だったら法律をそのように変えればいいだろう、と思いながら、作業員の健康のためとか大儀を理由ならわかる。それならば法律規制の改正につなげていける。しかし国会論争の大臣の面子のためというのは納得できない。

瓢タンは応酬した。

「でもこれは申請~承認ではなく、届出ですね、ということは出してしまえばあなた方は受け取らざるを得ないわけで・・・」

すると3頭身の大きな顔は扇子をパタンと閉じてそれを机に叩いてから言った。

「わかった。それじゃあ、そこに置いて行け。俺は受け取らないわけではない、気づかずにそこに置いたままにする。来月になってもそこに置いたまま。だから届けたことにはならん。」

瓢タンは泣く子と役人には勝てないと思った。届けたとは言っても受け取ってもらえないのでは届けたことにはならない。


富岡労基の事務所を出てから瓢タンは声を出して三歩跳ねてみた。

「一歩、二歩、三歩」

 三歩超えても三保の要求が変わるわけでもない。

この問題を瓢タンは持ち帰ってJV現場代表に相談した結果、とにかく受け取ってもらうためには月の作業員の被ばくを20mSvにせざるを得ず、社内でもその制限の中でやってみようということになった。

そもそも作業員だって年間を通して現場に居たいからひと月40mSvなんて被ばくするのは初期の何もわからないときだけだった。ひと月ふた月する間にだんだん自分の身を守るようになっていった。

その結果、被ばく線量については全員の平均化になるように、一人に偏らないように、極端に被ばくする作業員をなくすように改善することになったので結果的には被ばく管理の改善ができた。

しかし小宮山大臣と3等身の顔の三保との忖度関係はよくわからなかった。


【14】無骨伝その1

現場では事故後3か月間は土木グループがブルドーザで道路の瓦礫を片付けていた。ブルドーザと言っても一般の重機と異なって放射線遮蔽のために運転席は分厚い鉄板と鉛入りガラスのフロントウィンドウに包まれている。セシウム崩壊から出るガンマ線を100分の1まで減衰する代物である。つまり外が100mSv/hの高線量率でも、運転席は1mSv/hとなる。事故直後すぐに製造し電力会社に納入され現場で高汚染瓦礫撤去に欠かせない縦横無尽のフル稼働だった。

そして道路上の瓦礫が撤去されると、政府は冷温停止の発表をいつするか、躍起になっていた。その頃は3号機はまだ湯気を上げており、4号機も余震によっていつ崩れるかもわからない。また大きな津波が来ればそれまでの復旧作業は波とともに消えてゆく。そんな危うい状況ながらも現場には日増しに人数が増えて数千人の作業者が投入されていった。

事故後3か月過ぎて更に6月に3号建屋復旧JVが始まってから3ヶ月は地上の路上整備に明け暮れた。遮蔽ブルドーザで整備した道路に数十センチ厚さの砕石を敷き詰めて、その上を40mmの鉄板を強いてゆくことになった。

 鉄板と鉄板を溶接して並べてその上を大型クレーンや他の重機が走れるようにする。採石敷や鉄板を運ぶユニックや大型フォークなど重機が右往左往していた。そういう状況では、重機一台であっても路上に乗り捨てられると、全体の交通の妨げになる。

重機オペレータの被ばく線量には一日0.5mSvとか企業ごとに定めた上限がある。0.5mSvに達すると乗り捨てて逃げてしまうオペレータもいた。

 瓢タンは同じ安全部にいる3号機JVの佐木っつあんと現場を巡視していた。佐木っつあんは武道八四五段の猛者である。65歳になる彼は鹿山建設定年後の勤め先として本社から派遣された。たたき上げの彼はいわば現場では軍曹だ。いろんな免許を持っているが3号機JV社員が現場で実際の作業をすることは基本的にはない。作業監督するための勉強で免許を持っている。あるいは定年後に鹿山建設の下請けで現場作業に回されたときに役立つ。

 現場ではいろんな業者のトラックや重機が右往左往していたが3号前の南北道路に重機が止まっており、そのせいで南北に重機が停滞していた。

ちなみに復旧現場のルールでは車を離れるときはその車にはキーをつけておき、邪魔になるようなら他の工事件名であっても当該車を移動することができる。

瓢タンと佐木っつあんはちょうどそんなタイミングに現場を訪れた。すると佐木っつあんは大声で叫んだ。

「お~い、このクローラクレーン止めていったのはどこのどいつじゃ!後続の車が身動きとれないじゃないか。」

 そこには各業者の作業者たちが集まってきて同じように文句を言っている。1、2号機の復旧JVや4号機の竹山建設の社員たちもあつまってきた。ヘルメットに全面マスク、白いカバーオールという同じような恰好が集まっている。それらはみなゼネコンの社員である。作業員は指示された作業をするだけであり、見物している余裕はない。

「誰だよ、こんなところに止めたのは」

 口々に同じ言葉が出てきた。しかし現場のゼネコン職員は自分では作業ができないし、作業者はゼネコン社員の指示がなければ運転はできない。現場では当日の計画にない作業はしてはいけないルールがある。

 重機を動かす場合は前後の誘導員と監視員が必要だ。運転者を入れれば最低4人になる。それをするには人員手配と計画を立てなければならない。

 ということで誰も打つ手がなく見るだけ、ゼネコン社員が集まって文句言うだけの状況だった。ゼネコンというのは大企業だが下請け作業員がいなければ何もできないのである。東電はゼネコンなど元請けがいなければ何もできない。

結局現場の最先端の作業者がいなければ何もできない。ちょび髭のオイちゃんの時と同じように当該オペレータは被ばく限度に達して重機を置き去りにして休憩所に帰ってしまったのか?

ふとみると問題の重機が動き出した。誰が運転しているか、目ざとく見つけた3号JVの現場監督は言った。

「おおお~~~あれは佐木っつあんじゃないか。さすが~やるね~~。」

 3号JVの定年退職の佐木っつあんさんが運転していた。全面マスクにヘルメットを着けているが体の前面には名前のシールを貼っている。周囲に集まったゼネコン社員たちから拍手が沸き起こった。重機を脇へ移動したので現場の交通渋滞はあっという間に解決した。

帰ってくると事務所で総務部長が佐木っつあんに言った。

「武勇伝聞きましたよ。でも佐木っつあんさん、3号機JVの社員が現場で重機の実作業していいんですか?」

 すると佐木っつあんは言った。

「ばかもん!良いも悪いもないわい。交通整理をしただけじゃよ。」

 現場作業と事務職との違いは現場は現場主義であって実力主義で作業のできる者が上であり、さらに年寄りでも若者と同じ作業ができることは現場ではリスペクトの対象となる。

計画や設計を担うオフィス業務では担当、課長、部長、取締役という学閥や顧客との人脈によって序列に従うところが多い。

現場主義の世界では、65歳でも現場で若者に負けない作業のできる佐木っつあんにとって、格下の若者も、格上の部長も取締役も肩書に関係なく、同格だった。


【15】カタコル遮蔽スーツを脱ぐときは月面歩行

水素爆発により原子炉から飛散した放射性物質は当初は揮発性の性質があるヨウ素で、次にセシウムだった。ヨウ素の半減期は8日だから8日毎に半減するので3か月もすれば10半減期であり0.5を10回掛ければほとんどなくなる。0.5^10≒0.001つまり3か月で1000分の1になる。

逆に半減期が短いから時間がたつと測定が難しい。外部被ばくはセシウムとヨウ素の合計量を線量率計で測定できるが、内部被ばくを測定する場合は外部の線量率(BGバックグランド)を差し引かなければいけない。今回のような当初東日本一帯の線量率が高い状態、特に福島県では内部被ばくとBGの差を精度よく区別することも難しい。

 ただし、東電では復旧作業従事者に対して、原発に入る前にWBCといって精度の高い測定器で診断して体内被曝があるかどうか、セシウムかヨウ素か分別できる。そこで3か月経過して初めて原発入所する全国から来た作業者を診断しているので、そのデータにもしヨウ素が検出されていれば事故当時のヨウ素体内被ばくの地域的分布がわかる可能性がある。

子供の甲状腺癌の影響を調べるとしてもなるべく早いうちに測定しないといけない。原発再稼働するためには避難者全員の体内ヨウ素測定は必須の条件となろう。

また対策としてヨウ素を吸い込む前に前もってヨウ素剤という非放射性ヨウ素を十分体内に取り込み、後から来る放射性ヨウ素を吸い込んでも体内が吸収せず排泄してしまうようにすること。

 そのほかの放射性物質は主にセシウム134、137とストロンチューム90で、ウラン235、238はほ地上ではとんど観察されなかった。ストロンチューム90は飛散しにくいのでセシウムに比べると飛散するのは極僅かで、ALPS処理水といって原子炉デブリの冷却水の処理プラント濃縮水に多く存在する。

 水素爆発から3か月もするとヨウ素は減衰して残る問題はセシウム134、137だが、その崩壊で出るガンマ線のエネルギーは約0.7Mevであり透過性が強い。医療用のエックス線が0.1Mevだから約7倍である。

 現場では空間線量率が約2mSv/hもあり、そこに1時間立っていれば一日の限度線量に達してしまう。APD警報は3mSvだが、APDは5分割でプレアラーム音を発生し、作業現場ルールは3回で退避だから、5分割0.6の3倍=約2mSv、1時間で作業を終える。

ただし作業員もなるだけ長期間継続したいために、年間継続して作業したい場合は平均一日0.1~0.2mSvくらいで仕事終いして休憩所に戻るのがうまいやり方である。

 作業時間を増やすためには遮蔽スーツを身に着ける。遮蔽スーツの材料はタングステン布であり、素材はアメリカ製だ。アメリカは原発事故に関してはスリーマイル事故経験があり、スリーマイルで開発したところの、それなりの応急の資材がそろっている。遮蔽スーツを素材の別名でタングステンスーツと現場では呼んでいる。タングステンは鉛に近い遮蔽効果があり、タングステン糸は縫い込みやすい。

重さ14kgのもので遮蔽率が40%ある。セシウム134の半減期は2年なので時間と共に割合が減れば逆に遮蔽率は上がる、最終的にセシウム137では50遮蔽%、その散乱線場では60%遮蔽にも達する。

当初は遮蔽率40%、放射線が透過するのは60%なので2mSv/hの場所での1時間の被ばくは2×0.6=1.2mSvになり、2mSvまで2÷1.2=1.7時間作業できる。

当日予定の作業を終わらせるためには手放せない必須の逸材である。

 日当と特別手当を稼ぐために作業員は14kgでへこたれはしない。中には14kgを二枚重ねしている強者もいる。

しかしJV職員のとくに60歳以上の年配者にはきつい。そのせいか事務所では肩が凝るという言葉が流行った。14kgが肩にずっしり掛るからである。

 逆に40代前後の中堅どころでは肩こりが治るという者もいる。首都圏の現場でストレスなどもあり肩こり常習だった者が原発で遮蔽スーツを着てから肩こりが治ったというのだ。

 60歳前後の年配者の中ではタングステンスーツを脱いだ瞬間が最高に気持ちがいいらしい。

「いやー、重たかった。脱いだ瞬間はまるで月面歩行だ。」

 14kgを脱ぐと、それまでの筋肉の反動で一気に体が軽くなる。2~3歩で体の反応はまたすぐに元に戻るが、その2~3歩が軽く飛び跳ねるような月面歩行気分となる。

 しかし事務所に帰ってくる時には「カタコル、カタコル」と言うのが流行った。

 瓢タンは「カタコル」(肩凝る)が建築現場の専門用語だと思っていた。年寄りの常用語であることに、すぐには気づかなかった。


【16】唐獅子も神妙な顔つき、一日で一番長い1.5分間

原発の復旧作業では汚染防護の作業衣は電力会社が支給する。Jヴィレッジで下着上下とタイベックスーツ、綿手、ゴム手二重、軍足二重、安全靴で防護する。それらはみな汚染を防護するためのもので作業着とはみなさない。また放射性粉塵は防護できるが放射線を遮蔽するものでもない。α線は紙で防護できるがβ線やγ線は防護服では防護できない。

 セシウム134、137から出るガンマ線は鉄や鉛、コンクリートでなければ防護できない。放射線の強さを半分にする厚さは鉛で7mm、鉄で15mm、コンクリートで49mmと言われる。

タイベックスーツはデュポン社の製品で1着千円くらいだろう。

 Jヴィレッジから免震棟までに1回、免震棟から現場へでかけるときに1回。一日2回使い捨てする。3千人では、千円×2×3000=6000千円=6百万円を1日で使い捨てすることになる。10日で6千万円、一か月で1億8千万円となる。1年では18億の使い捨てである。

 さすがに予算が途方もない数値なので電力会社としてもノーブランドの中国製に切り替えることを考えていた。

 タイベックは0.5ミクロン以上の粉塵に対し99.2%の高い防護性を有しているために空気中に飛散する粉塵汚染の防護になる。空気中の粉塵のサイズは、通常5~10ミクロンと言われている。しかし同時に通気性があるために汗でぬれると外側の汚染を引っ張り込んでしまう。タイベック外側のセシウム粉塵微粒子は内側にしみ込んでしまい、それが下着や皮膚に付着する。下着を脱いだり、皮膚汚染の除染したりで混雑時にはスムーズな流れを乱すことになる。

現場から帰ってくると自動機のHFCMだけでは足りないので手サベの汚染検査に列をなして並ぶが、そこで汚染が検知されると支給下着を脱がされて汚染浸透度合いによっては自分のパンツを没収されたりする。下着の下の皮膚まで浸透していると皮膚を除菌ティッシュや除染用洗剤拭いて除染することになる。皮膚汚染は体内には入ることは普通はないが、表面汚染密度という法令基準があり、これがなかなかややこしい基準であって、それを超えれば除染をしなければいけない。

汚染したまま家庭に帰って家族が汚染するのも気味が悪い。衣服汚染でも基準以下なら持って帰れるが、宿舎に帰ると汚染していない作業員から風評被害を受ける。当該衣服を共用洗濯機で洗うと次の使用者に汚染が移るから、共用洗濯機を使うな、という風評被害である。

実際には原発から持ち出しできたということは一般生活でも問題ない。まして洗濯すればさらに密度や濃度は格段に低くなる。

 夏場の7月に汚染が急に広がり8月もそれは収まらない。原因は作業員のタイベックは汗でびしょ濡れ状態なので表面の汚染がタイベックスーツを通過して下着や身体に達するからである。

 この時期まで多次下請けのピンハネ問題もあった。暴力団が労務者をかき集めて4次下請け5次下請けとして原発に送り込んできている。それで全身入れ墨のやくざっぽい作業員も多いが、職人なのか反社的組織の派遣なのかはわかる。反社的組織から派遣されたタトーは目を合わせて正面から向き合わない。職人なら目を合わせて話をする。

中には体のタトーを消している作業員もいる。消していることがわかってしまうが。

話していても目を合わせないような作業員者は反社関係で多重下請けと思われるが、汚染検査のときだけは神妙になって一点を見つめている。汚染数値はAPDでは測ることができない。放管員にGMサーベイメータで測定してもらうしかないのである。APDは被ばく線量で単位はmSv実効線量、GMサーベイメータは表面汚染をCPM(カウントパーミニッツ)で測る。法令基準は被ばく線量と表面汚染と空気中濃度、水中濃度のそれぞれで数値が決められている。

汗だくの現場から免震棟に帰ってきて、その入り口で濡れたタイベックを脱衣して、下着姿で汚染検査に並ぶ。汚染は放管員による手サベで測ってみないとわからない、測定時間は基本3分間であり、一日で一番長い時間かもしれない。

誰もが神妙な顔つきで結果を待つ。手サベは基本3分だが、作業者一人を前後二人で測定すれば1,5分で終わる。しかしその沈黙の1.5分が長い。

 神妙な顔つきになるのはもう一つの理由がある。汚染発見されると、同じ検査部屋の隅に移動させられ、椅子に座らせられる。そしてどこで何をしていたか尋問される。さらに汚染を除染してもらう。その様子は、検査を終わった作業員全員に見られるので、知り合いの作業員にからかわれるのだった。

「おーい、Tさ~ん、なにやってんの~?」

「あれ、Tさ~~ん、どうしたの?」

 汚染状況の取り調べを受けている最中に知り合いの作業員がからかい半分に声をかけてくる。取り調べ中なのでTは下を向いたまま答えない。心の中ではこう思っている。

「うるさい!みんなはやく行って休憩しろよ。人の名前を気安く、他の社員のいる前で言うんじゃないよ。」と。



【17】無骨伝2

4号建屋復旧については当初依頼されたゼネコン鹿山建設社が、作業員にとって危険すぎるという理由で辞退したので、竹山建設社に決まった。

4号機建屋は若干曲がっているように見えるので建屋そのままでは余震によっていつ崩れるかわからない。そこでまず建屋を鉄筋で補強することになった。それからその鉄骨の上に使用済み燃料取り出しのクレーン設備を組み立てる。4号オペフロの使用済み燃料を移動することが急務となっている。

原子炉の中には燃料がなく、その使用済み燃料が原子炉上のオペフロ階の保管プールに収められている。そのプールが壊れなかったのは運が良かった。

もともと階下の原子炉には燃料がなかったので、且つ、使用済み燃料プールの水が遮蔽体となって放射線も防いでいるから従来通り、人がその場へ立つことができる。

屋根は水素爆発で吹っ飛んだので、オペフロに立つと隣の3号機が丸見えだ。そこで測定すると4号の放射線はほとんどが3号から発していることがわかる。そこでまず4号側から3号が見えないように遮蔽衝立が必要だった。

同時に、まず建屋内側から鉄骨を立てて補強をする。それから外側周囲を鉄骨で取り囲む。そうすれば余震が来ても持ちこたえられる。

「まず内側から鉄骨組んで支えないといけない。それをお願いします。」

電力会社がそういうと鹿山建設の現場監督が言った。

「とにかく現場調査からですね。」

そして現場監督は調査目的で建屋内に入ったが、その後の地震が大震災より小さいなんて保証もなく、建屋が出てきてから言った。

「こんな仕事やってられるか。おれは辞める」

そういって会社を辞表を叩きつけた。

そこで4号の建屋復旧~使用済み燃料取り出しクレーン設置までは竹山建設が請け負うことになった。

武勇伝とはなにかを成し遂げるものだが、危険を予知して撤退するのもまた武勇伝なのだろう。彼の現場でのポリシーは、「命を懸けてまで仕事をするな!」だった。

4号建屋内側から補強をするとは言えど、ひょっとすると補強中に巨大な地震で倒れてしまうかもしれない。確率はすくないかもしれないがいつ倒れるかわからない。倒れない確率が絶対ならば補強はいらない。

リスク0.000001つまり百万分の1なら安全だろう。しかし電力会社から確率数値が出てくることはなかった。万に一つは鉄骨組んでいるときに運悪く余震が発生して倒れるかもわからない。

命を懸けるな、という現場人のポリシーに徹して彼は自ら辞表を出してけじめをつけた。

人の世はすべて氷河の上を歩いているようなものだ。足元にクレバスがあるかもわからない。仕事に命を懸けてはいけない。命は自分だけの物ではない、待っている家族もいる。   

死亡や重症を伴う重災害を起こすたびに葬儀や犠牲者の家族に見舞いに行った代表者の言葉はみな同じだ。「家族のためにも事故は起こしてはならない。」

これ以上倒れるような地震は来ないと頭の中で想定すれば倒れない。

しかし原発過酷事故も、そのような地震を想定していなかった過酷事故になった。想定していれば対策はできた。結果を見せられればだれでも対策は打てる。

電力会社の依頼を請ける代わりに辞表をたたきつけることで、本人の信念を貫くという彼なりの武勇伝だった。

ただしその後、竹山建設が4号建屋復旧作業を作業員を道連れにして請け負うことになった。そして運よく鉄骨で囲んで4号機建屋復旧計画は終わった。

現場と言うのは、安全手順を守っていても運悪く事故で命を亡くすこともある。逆に安全無視のやりかたでも首尾よく無事に終わることも往々にしてある。


【18】「203高地」

3号では原子炉のオペフロ階は吹っ飛んで跡形もない。かろうじて屋根の鉄骨がぐにゃりと曲がりその竜骨を無残に晒している。水素爆発で真上に飛ばされた大きなコンクリート破片はほぼそのままオペフロに落下して積み上っている。

使用済み燃料を取り出すにはこの瓦礫の山を片付けなければならないが、線量率の単位がSv(=~1000mSv)で、人はその場所に立てない。大型クレーンを遠隔操作で操って遠く離れた免震棟隣接の事務棟に設営した遠隔監視室からぎこちなく掴み取らなければいけない。

使用済み燃料は原子炉から取り出した後、数年間冷却してから更に地上のプールに入れて冷却してから地上保管する。水素爆発時に諸外国からクレージーと指摘されたのはこの使用済み燃料が原子炉の上のプールに保管してあるからだった。プールの水が漏れれば使用済み燃料は溶融してしまう。使用済み燃料は原子炉から取り出したら別の建屋で保管するのが安全だ。

日本式にコンパクトに作り上げた原発だったが、過酷事故が起きた場合はクレージーな構造になっていた。建設段階では過酷事故は起きないと想定していたとしか思えない。

吹っ飛んで落下してきた大きな瓦礫を撤去した後はオペフロの床面コンクリート表面を掃除する。それにはスリーマイル原発事故の際に実績のある機械を輸入してそれを使ってみることになった。機種選定は電力会社で選定し購入した機械を3号JVが操作する。

他に実績のある機械など日本にはない。そこでその機械が届くまでの間の大型クレーンでのオペフロ瓦礫撤去以外にも同時並行で瓦礫を片づけなければいけない。原子炉建屋に隣接のタービン建屋の間の下屋と呼ばれる中間建屋の崩れかかった壁。それがいつ崩れるかもわからない。それでまずその壁を取り壊して撤去しなければいけない。

原子炉建屋はオペフロ階が張りぼての薄いコンクリート板で取り囲んだ作りだから爆発の圧力を逃がしてくれて原子炉建屋自体は生き残った。しかし隣のタービ建屋側や2号機側のRw/B(ラドウエストビル)は見るも無残に損壊していた。

遠隔操作で摘まんだ瓦礫は重機の先にバケットやグラブという先端機器を取り付けて、更に刻んだりした。刻んだ瓦礫はコンテナに入れて撤去する。

クレーンで当該場所のコンテナを地上に下ろして、それを今度は敷地の北の山の中に廃棄する。

人の作業が必要なのはブルドーザ重機の運転と、コンテナの玉掛け玉外しといってクレーンでつりさげるコンテナや機器をクレーンロープの先に取り付け取り外しすることだ。吊りあげる時の玉掛けは整備の終わった地上の鉄板路盤上で行う。揚重してきたコンテナや機器をタービン建屋下屋で待っている鳶職人が玉外しを行う。線量率の高い場所での揚重作業は荷が上がったり、着地するまで手待ち時間が多いので作業するときには放射線遮蔽の避難所を設置しなければならない。

避難所を目的の設置するためにもクレーンで釣りあげた避難所を定位置まで人間が介錯ロープをつかって誘導する。

タービン建屋下屋側は線量率が10mSv/h以上だから分で0.17mSvの被ばく。10分で1.7mSv、遮蔽スーツを着用して1.2mSv被ばく。15日続けると18mSvで労基署に届けた月限度に収まる。それを複数の人数で作業位置をローテーションで代えながら被ばくを平均化して計画が終わるまで現場作業ができるようにする。毎日の被ばく線量の集計は瓢タンが行って結果を鳶の親方に周知する。親方はそれを見てローテーションを考える。

作業を請け負う下請けは土方組だった。鳶職の親方の苗字だった。土方は新選組のイケメンの土方とは逆の鬼瓦のような赤ら顔で、東京から集めてきた手下の職人たちを睨んでこう言った。

「我々が作業するエリアは203高地だ。」と。

戦後生まれの親方はどこの映画やTVドラマを見てその言葉が気に入ったのか思いついたのか、203高地は1904 - 1905年の日露戦争でロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所で、それをパロディで名付けた。

鳶の親方はこの作業を請け負うときに鹿山建設と約束をしてきた。

「被ばく線量が多くて被ばく限度にすぐに達してしまうから短期間の仕事になる。そのときは福島第一現場を離れるが、東京での仕事を保証してください。」

 鹿山建設は月給制だが、職人は日当制で、当日の作業がストップすれば日当は支給されない。だから福島第一の被ばく作業するならば、先を読んで次の受注計画を鹿山建設に保証してもらう必要がある。

 鹿山建設はその約束に応えて次の仕事を保証する。そうしなければ福島第一の瓦礫撤去はできない。鹿山建設支配下のとび職が全国に無尽蔵にいるわけではない。

 幸い東京ではオリンピックの工事が予想されており、福島第一の次の仕事場として、とび職の仕事には困らなかった。

作業員の被ばく管理はAPDというポケット線量計で行うから、2mSvの警報が鳴ったら帰ってくる、単純に言えばそれだけのことだったが、重機作業ではその警報が聞こえない事もある。

そこで203高地のような場所で作業するときはストップウォッチを持った監視員を付ける。あらかじめ分単位の被ばく線量を計算して10分作業をしたら当該作業員に合図し、仕事終いをさせて休憩所に戻る。


【19】「203高地のウルトラマン作業」

タービン建屋側下屋では大型クレーンで吊り上げた物や、吊り降ろす物を人が立って作業しなければ玉掛け玉外しができない。玉掛け玉外しができなければ重機を使って瓦礫を撤去することができない。人が立つためにはその高線量率エリアに放射線を避ける退避所を設置しなければならない。

被ばく線量の限度は一日2mSv。線量率はエリアで平均しているわけではない。ホットポイントと言って1m離れれば倍の20mSvのポイントもある。

実際に事前測定するとタービン建屋下屋上は3分で最大2mSvを被ばくする。そこで現場に退避所を設置して一次的に休憩する。それはコンクリートの四角いボックスに鉄板を張ったものだ。理論的には十分の一にするにはコンクリート16センチ、半分にするには鉄で1.5センチ。それで0.1×0.5=0.05倍=1/20に減らすことができる。

線源は点ではなく360℃に散らばっているし、ボックスは閉じているわけではなく、入り口出口が解放されており、せいぜい十分の1にでも減らせれば退避所として使える。

玉外しというのは重量物が降りる頃に瞬間的に必要で、降りてくるタイミングを見計らうのにはボックス退避所でしばし待っていなければいけない。

朝、毎日その日の作業の説明をする。そのとき土方組鳶の組長の鬼瓦の土方は言った。

「きょうの作業は203高地のウルトラマン作業だ!みんな3分経ったら降りて来い!」

全面マスクに白装束のタイベック、その上に14kgの遮へいスーツ。そして現場につくまでに汗だくになって、クールベストの冷却材はぽかぽか湯たんぽになり、現場の梯子を上り、重機の音量激しい中、ストップウォッチ持った監視員の合図を見て3分で帰ってくる。それが203高地の3分間作業だった。

鳶職人たちは言った。

「インスタントラーメン作業じゃないんですか?」

「カップヌードル作業だろ」

すると親方は答えた。

「ばかも~ん、インスタントみたいに3分待ってるんじゃないんだよ、その間に作業するんだ。ウルトラマンになってみんなで地球を救うんだ。」

その場の笑いによって未知への恐怖と緊張が解ける。

しかし一回高線量エリアの作業を経験すると放射線にたいしての恐怖は免疫になる。逆にそれが被ばく線量を増やす理由にもなる。


【20】靴から汗がドバっと流れ落ちる

福島第一への起点として使っているJヴィレッジでは相変わらずごったがえすような混雑の中で着替えをしていた。着替えるだけで汗かく人もいる。タイベック防護服と綿手、ゴム手二重、軍足二重の出で立ちで全面マスクを抱えてバスに乗り込み、原発ちょっと手前で全面マスクを着ける。

原発構内へ入って免震棟でいったん休み、再度着替えて出て行くが、酷暑には全面マスク内に汗が溜まって息が出来ないので全面マスク顎のところを持ち上げて、ときどき中の汗を出すこともある。全面マスクと顎の間に隙間があるとそこからセシウム粉塵が入り込むので正式にはやってはいけない行為だが窒息してはいけない。

原発復旧の電力会社から支給される靴はつま先が安全保護された長くつと短靴がある。基本的には夏場は短靴、冬場は寒いので長靴がよい。ただし、瓦礫の多いところでは砂が舞い上がって短靴に入るので長靴を履く。

夏場では靴には100CC、200CCの汗が溜まる。タイベックから滴って落ちてくるのが溜まるのだった。

すでに熱中症も何人か発生している。

瓢タンが熱中症の怖さを直接体験者から聞いたのは、いわき平にある3号工事の事務所の守衛からだった。守衛の若者は体重100kgあるが、前年の2010年に熱中症体験者だった。

瓢タンが事務所内勤務で労基署への放射線作業届の計算をしていた。そして休憩で駐車場にでて、屋根の単管パイプにぶらさがって背を伸ばしていると、守衛がやってきた。

瓢タンのほうから話しかけた。

「構内で熱中症だってさ、もう何人目かな。」

すると彼は熱心に話に応じてきた。

「熱中症は怖いですよ。なったらほんと防げないんですから。」

「え?そうなの?」

「僕も去年なったんです。急に筋肉がつって、自分で自分の体が動かせなくなって、倒れたままだったよ。そのうち誰か通りかかってくれて事務所にひっぱってもらって助かったけど。」

「そういうものか、筋肉って水分が不足すると意志ではどうにもならないのか。」

「なんともならないんですよ。自分で自分の体を動かせないんだから」

 瓢タンはその話から熱中症の怖さを知った。おそらく筋肉を動かすのに必要なカリウムや塩分要素が不足して、筋肉を動かすことができなくなるのだろう。だから熱中症になってから水分補給してももう手遅れで、構内で倒れたり具合がわるくなると、救急班を呼んで救急室に運び、生理食塩水を直接体内に補給する。

一方この酷暑の時期に、現場では電力会社貸し出しの作業靴に汗が溜まる現象が発生していた。手には綿手の上にゴム手を二重。足は軍足二重。手首足首は粉塵や砂が入らないようにガムテープでタイベックスーツを密封している。全面マスク周囲もガムテープで密封しているから通気性はタイベックの素材の通気だけだ。そして14kgの遮へいスーツをその上から着ている。これだけの重装備なので汗は上から下の足首を通って靴に溜まる。

作業始めて間もなくクールベストの冷却剤が湯たんぽ状態だ。

作業が終わると「ほい、これ見てみ」と言って作業員が靴を逆さまにした。すると溜まった汗が靴に100ccほど溜まっており、靴からドバっと流れ落ちた。

 作業する前と後では体重差は平均2kg、最大4kgある。夏場の発汗量そのものである。休憩所に体重計があるので作業前と作業後を測って記録していた。

 瓢タンも記録してみたが差は0.5kgだった。

すると職人からからかわれた。

「あ、現場作業してないな。」

 現場で立っているだけで0.5kgは減量するが、作業していないことがわかる。



【21】いわきの夏2011

立葵がてっぺんまで咲くころ梅雨は明けて7月下旬の酷暑がやってくるが、30℃超えの酷暑の期間は一週間だろう。酷暑も収まりだしたころがお盆だ。

いわき市は浜通りであり東北のハワイなどと呼ばれ過ごしやすい気候である。冬はマイナス2度くらいにはなるが八王子レベル。夏は海風と偏西風が渦巻いて北からの風が流れてくることが多い。

福島県外の人はいわきと言えば常磐線いわき駅を指す。地元ではいわき駅の辺りを平と呼ぶ。いわきとはいわき市のことで、南は茨城と接して勿来の関で知られる常磐線勿来駅、北は久ノ浜町の常磐線の末継駅まで直線距離約50km。広野双葉郡広野町と接する。広野町にはJヴィレッジがある。避難区域の楢葉町もJヴィレッジに掛かっている。その先は避難区域だ。西は郡山との中間まで。県内では会津、中通り、浜通りと南北に分けるが、いわき市は浜通りの中心でもある。西の直線距離も40kmある。

観光では、“吹く風を勿来の関と思へども、道もせに散る山桜かな“で有名な勿来の関文学館、平安時代の白水阿弥陀堂、水族館のある小名浜、夏井川渓谷、スパリゾートハワイの湯本温泉とそこにある石炭化石館、沢登りのマニアックな背戸峨廊渓谷などがある。

ただ、県外から観光目的でツアーするにはスケール感の何かが足りない。首都圏や全国からの観光名所と言えばスパリゾートハワイだろう。しかし原発事故で湯本温泉街の営業はストップしている。

常磐線いわき駅周辺には標高605mの赤井嶽があり、閼伽井嶽薬師がある。首都圏にあればハイキングにはうってつけである。

また夏井川には鮭が遡上し支流の好間川が流れる団地付近にも鮭の産卵場がある。そこはアユ釣りもできて、東京からは車と徒歩で行ける最も近い釣り場でもある。冬は白鳥の飛来があり騒がしい。

しかし過酷事故以後は山も川も温泉もセシウム飛散が原因により、どこも人の通わぬ場所になっている。スパリゾートハワイもいままでは東京から毎日バス数台、千葉からも横浜からもやってくるがストップした。

鹿山建設事務所にも関西以西からくる社員がいるが彼らの中には、着任の挨拶で、いわき駅を降りたら市民は全面マスクを着けて歩いているのかと思っていた、と言う者もいる。

「常磐線から降り立ったとき、この格好でいいのかと不安だった」と。

 過酷事故以後にいわき平のホテルには報道陣やタレントが宿泊していた。予約もなかなか取れない。ニュース報道記者、レポーター、ボランティアのタレントたち。ゼネコンや大手メーカー企業の宿泊も定宿としてホテルを使っていた。

いわき駅周辺の繁華街は除染や原発作業員のバブル期だった。

 最もバブルだったのは浜通りの6号国道に沿ったコンビニだ。除染や原発作業員で全国一の売り上げを達成していた。弁当は天井まで積み重なった。

その日は9時から27度を記録し、午後はおそらく30℃は超えるだろうと思われた。

瓢タンが駅前のロータリーを歩いていると突然声を掛けられた。

「すいませんが、原発関係の方ですか?」

「まあそうですが」

「ちょっとアイスコーヒー飲んでいきませんか?」

きょうも酷暑かなと思いつつ歩いている瓢タンは気安く返事をした。

「目の前のラトブの珈琲館でいいかな?」

ちょうどアイスコーヒー飲もうと思っていた矢先だった。

その女性はフリー記者でいわきに取材しにきていた。

「原発の仕事ってたいへんなんですね、いろんな下請け組織があって、給料もかなり違うって新聞で・・」

「そうなんですよ、復旧で数千人の人をかき集めているから。職人とは別の世界の反社関係と思われるような全身タトーとかも入ってくるし。」

「そういう構造で安全なんでしょうか?無関係の外人記者が入構証偽造して入ったとかありましたが?原発ってセキュリティの最先端ではないのですか?」

「セキュリティの最先端と言っても、いまはメルトスルーしちゃった後ですから、守るべきものがないでしょう。セキュリティを突破するって言っても、得る物は被ばくだけですから。セキュリティを突破する動機が見当たらない。逆にいまの時期は、被ばくのための人集めかもしれません。審査を厳しくやってたら被ばく要員は集まりませんよ。」

 実際に現場では、ほぼどんな者でも手足が動けばよかった。高線量瓦礫を運べればよかった。重機運転の免許なくても誘導の立ち仕事でだけでも人は欲しかった。重機運転は放射線防護されているが誘導は遮蔽スーツだけだ。

「被ばくジプシーってこと?」

「いやあれは事故前の通常運転の原発保守作業員のこと。今はとにかく被ばく作業員集め。」

「危険手当はほんとうに出てるんですか?ピンハネが横行しているとかないんですか?」

 野党の中には危険手当が支払え、の活動があるが現実には奥が深い。東電から支払われる日当と危険手当。ゼネコンや日立東芝三菱のような大手企業のような月給保証制度と下請けの日当制の違いがある。そして福島第一の現場では政府や規制委員会や外部団体などの要望などや、東電の工事計画の変更や、元請けの計画変更や、そんなのが重なって変更が多い。そのたびに工事がストップする。

 月給制では途中で作業がストップした場合、危険手当は日当なのでストップするが月給は支払われる。

日当制では作業ストップした日から日当も危険手当もストップする。だから下請けは危険手当をプールしておいて作業員の日当はそこから或る程度補償する。さらに下請けを経由する度に会社経費を差し引かれる。

「そういうことで、税込み月30万円弱で四苦八苦する者もいれば、残業代も含めて百万円稼ぐ作業員もいる。」

女性記者自身がフリーで、月給制ではないので日当制の作業員の立場や実情が理解ができたようだ。

「東電や政府は危険手当を直接作業員に支払うことはできないでしょうか?」

「作業員への個別な危険手当という名目ではないんですよ。ゼネコンや日立東芝三菱など元請けが請け負った工事の全体に掛かっているから、元請けとしては下請けに作業員の合計で日々の計算で支払うけど、いろんな理由で作業ストップとかが多いので、下請け会社が作業員にそのまま支払らうわけではなく、作業ストップの時でも日当を支払うために積み立てている場合もある。ただし中にはそのまま全額2万円を作業員に払っている下請けもあるし、元請けでも大小さまざまあって、上場以外の中小企業では5000円だけ下請けに支払っている企業もある。」

 瓢タンはそんな世の中のありきたりのピンハネ状況を立て板に水を流すように説明したのだった。

 珈琲館のコーヒーは美味かった。


【22】無骨伝3

酷暑で現場では作業員の熱中症が何件も発生した。ゼネコン社員はさすがに肉体労働ではないので熱中症はでないが体調は勝れないようになっていった。というか作業員はゼネコンが建設したプレハブ宿舎で、低家賃月3000円に住んでいるがゼネコン職員はホテル住まいである。そこで毎日いわき平の夜の街へ繰り出すクラブ活動は止まらない。

夏場の原発復旧作業は熱中症防止のため昼間2時以降5時までは禁止になった。そこでみんな1時間早めのサマータイムとなった。宿舎では4時に起きて4時半出発、6時半に構内休憩所に着く。作業前ミーティング、防護服に着替え、8時半に現場、9時半に終了。10時前後に休憩所に戻って作業後ミーティング。11時には帰りの帰途につく。昼飯は宿舎だ。

時間をそれ以上早めると朝食抜きになってしまい、逆に熱中症になりやすい。

復旧作業での私病による死者も数件でている。

マスコミの関心が高まれば世論の注目を集める。したがって政府の目も厳しくなる。そうなると電力会社への政府要求も増してくる。それは末端作業員の安全健康のためと言いながら、電力会社の下につく大手元請け企業へのいろんな手笠足枷となって、さらにそれが下請けへと弱いものへしわ寄せが行く。

熱中症予防の最大の効果は睡眠時間と朝の食事である。それは作業員個人管理となる。現場で管理できることは作業時間を小刻みにしてエアコンの効いた車の中に退避する数を多くすることだが、実際にはそんなことしていると当日予定の作業が終わらないので退避回数は少なくなり、現場での監視役がいるわけではないので作業員任せ、つまり現場も個人管理となり、末端にしわ寄せが行くことになる。

管理を細かくすると作業計画書の内容が細かくなるし、書類の数も量も多くなる。予定していない作業はしてはいけない。となるとゼネコンの業務は図書作成だけでも煩雑なものになる。

電力会社「○×の計画書類ですが、ちょっと矛盾しているところがあるので見直しお願いします。」

電力会社から指摘を受けると再提出~打合せとなる。書類などは、説明なしで書面だけで終わらせようとすればどこかに説明不足や表現不足が見つかる。机上で粗さがし探しをやっていても現実の作業は進まない。ゼネコン社員は電力会社を電力さんと敬称付けることが多い。発注元なので普通の現場では、お客様は神様である、復旧作業では、駄々っ子である。復旧は全国から注目されており、政府や規制委員会からの指摘で方針をころころ変えるからである。

元請け「見直しって、作業はもう明日から作業ですよ。」

電力「じゃあ早朝の作業前に再度打合せしましょうか。」

元請け「早朝?・・・ああ、いいですよ、まだその時間酔っぱらってますが」

電力「・・・それでは来なくていいです」電話は切れた。

この工事監督は深夜というか2時過ぎまで飲んでいる。打ち合わせのために酒を断って出勤するという感覚が無い。仕事をするためにはまず酒が必要である。

9時頃からいわき平の歓楽街に繰り出し、深夜12時頃まで飲んで、店を変えて二次会、そして最後に中国飯店でラーメンたべて2時に締める。飲むほどに仕事が捗るらしい。なので早朝はまだアルコールが抜けない。電力の事務所内でアルコールが検出されればルール違反となる。

打ち合わせは無くなったが、こういう場合、免震棟での作業前確認の際に電力から急遽変更指示がでたりする。

もうひとりのゼネコン社員も監督を見習って強者である。彼が提出した資料に訂正箇所があり電力会社から強く批判されたが電力会社社員のその言い方が上から目線だから嫌いだという。

電力会社「じゃあいまからお話ししますか」

ゼネコン社員「いまから?・・・行けませんね。」

電力会社「どうしたんですか、なぜ来られないのですか?」

ゼネコン社員「体調が思わしくないです」

電力会社「体調?」

ゼネコン社員「はい、そうです。」

原発では老齢の作業員の相次ぐ私病突然死があり、その対策として作業員の健康安全優先。ということで、体調管理の徹底を方針にしている。健康管理最優先である。

電力会社「来ることができないくらい悪いですか」

ゼネコン社員「はい、悪いです、ではまた」

彼は受話器を置いてから呟いた。

“あいつと話していると体の具合がわるくなってくるんだよ・・・”と。



【23】緑人間とコンクリート人間と泥んこ人間

原子炉建屋周辺の道路、路盤上の瓦礫撤去~鉄板敷作業は延々と続くように感じた。600トンクレーンなど大型重機が走るたびに分厚い鉄板が歪むのである。そして敷き直しする。

Rw/Bの屋上からは撤去した瓦礫が降りてくる。瓦礫を片付けるたびに粉塵が飛散しないように緑の飛散防止剤を撒いて粉塵を固着する。

緑の飛散防止剤をホッパーという機械をつかって遠隔操作で撒き散らす。オペフロの上は人間が立てないので遠隔操作で撒く。しかし、道路上では人間がバケツで撒いたほうが早い。バケツで撒けば自分もその緑の飛散防止剤を被ることになる。

道路には飛散防止剤を被って白のタイベックスーツが緑色になった緑人間が歩き回る。現場を移動する乗用車も緑。瓦礫が緑。怪しげな世界になっていった。

モルタル散布で地面を固める作業も続いて、そのため白タイベックスーツは灰色になる。上から下まで灰色だ。

土木工事では関東ローム層の赤土を被って全身土色になる。

昼休み前になれば、一斉に現場から帰ってくる。すると汚染検査が間に合わないから免震棟の復路入口は緑人間、灰色人間、土色人間の行列ができた。誰もが一目散に免震棟休憩所に戻ってくる。

サーベイ要員やサーベイエリアにも限度があって汚染検査まで30分かかる。検査棟入り口は検査待ちの行列ができる。屋外では全面マスクは外せない。検査棟建屋に入ってから外す。屋外で全面マスクそのままの緑と灰色と土色の人間が列を進んでゆく。

昼食はやく食べたい、の思いを全面マスクの中で噛み殺してじっと待つのだった。

 瓢タンが現場測定から帰ってきて全面マスクを外すと隣にはゼネコンのヤッシーこと林田安全社員がいた。彼は瓢タンと同じ派遣社員である。

 瓢タンはタイベックスーツを脱ぎながら、全面マスクを外した隣の男に言った。

瓢タン「なんだヤッシーか。おまえタイベック緑じゃないか。シュレックか、ハルクか。」

ヤッシー「飛散防止剤を重機ホッパーで撒いてるけど、撒ききれないところはバケツで撒くんだよ。手作業だよ。」

瓢タン「重機の遠隔操作じゃないんかい?」

ヤッシー「遠隔操作なんて報道の見出しだけだよ。現場はそんなもんじゃないよ。人間がバケツで散布するんだよ!」




【24】帰省直後のがん致死

タービンとは原子炉で沸かした蒸気により発電する装置であり、原子炉建屋に隣接する。その建屋と原子炉建屋のの下屋と呼ばれる屋上に架台をつくってそれが原子炉建屋を取り囲む際の東側の架台となる。原子炉の燃料をクレーンで釣り上げるためのドームを支える架台である。

 タービン建屋は原子炉隣の台地のようなイメージであり、そのため作業員はそこを203高地と呼んでいた。鬼瓦の親方の土方の命名だった。遮蔽スーツを着てもそこにいることができるのは3分だった。そこでウルトラマン作業とも呼んでいた。

 203高地にゆくためには単管パイプで組み立てた階段をのぼらなければいけないが、14kgの遮蔽スーツを着て一気に登りきるには40~50過ぎの年代にはきつかった。

 北海道からきた50代の作業員が単管梯子の途中まで登って、うづくまった。14kgを背負って階段を登るには体力が不足していた。一度息が切れると回復が難しいみたいで、作業をせずに降りる元気しか残っていないみたいだった。

 その後、その作業員は北海道へ帰って、まもなく肺がんで亡くなったが、これは私病といって持病によるものだろう。原発作業に来る前から癌だったと思われる。なぜなら放射線による晩発性の癌はすぐには現れない。

放射線被ばくの影響は確定的、確率的と二分される。確定的なものは直後に症状がでるから確定的と言う。

確率的な影響で比較的短期間で症状が出るのは白血病だ。そのため厚労省も白血病は5mSvという低線量被ばく歴を妥当性の必要条件としている。放射線の影響か、影響なしか、どちらも証明は難しい。証明ができるとしたら、遺伝子解析によってその癌がいつ発生したか突き止められる頃だろう。原発作業の時期に癌がスタートしたと証明できれば因果関係は科学的に証明できる。

白血病以外の症状では癌があるが細胞が癌と言われるまでには相応の年数がかかる。原発にやってきて誰もがAB教育と言う放射線被ばく防護のための新規入所教育を受けるが、そこでは確定的影響にはそれぞれ症状に応じて閾値があるが、確率的影響で例えば晩発生の致死性癌などには閾値が無く被ばく線量0mSvから直線的に放射線影響の確率があると教える、これをLNT仮説という。1Sv5%で比例計算した致死癌確率はそのままでは評価できず、個々の日常の生活リスクと比較して評価することになる。

比較リスクは児童ではほぼ0であり、年齢とともに比較リスクが高まり、生涯では致死癌26%である。特に児童の親は子供のリスクは0を願って、できるかぎり子供をリスクから守っている。

労災では50mSvを超えると晩発性癌の因果について妥当性のひとつの目安としている。50mSv以下であっても因果関係を否定できないならば、疑わしきは排除しない、ことが科学的態度と言える。

放射線作業従事者は5年間100mSv(致死性癌確率0.5%)、70歳での生涯1000mSv(致死性癌確率5%)は、日常の致死性癌確率26%とそれ例外の死亡率、作業場の死亡率確率合計に比べれば許容範囲としている。統計は広島長崎原爆を元に致死癌だけのデータである。それ以外は検証できていない。

た放射線作業従事者ではない18歳未満(一般公衆)の場合は、もともとの死亡確率はほぼ0に近いので、年間1mSvを超えることがないように、放射線施設の事業所境界の線量率を年間1mSvで規制している。事業所境界から離れれば更に低くなる。1mSvの致死癌確率は0.005%で、比較するべき日常の児童の10年後の致死癌確率0.1%に対して10%未満なので許容されると政府は考える。

原発作業にやってきて被ばく基準を守って作業して、すぐ帰って、すぐに癌になって死亡するということは考えにくい。

原発の復旧作業には全国からいろんな派遣会社を経由して、さまざまな日雇い労務者も入ってくる。そういう人たちの中には以前からの日々の自己管理不足もある。

人口動態では日本の年間死亡数は約120万人前後であり100人に1人がなくなっているが、職業上の年間死亡数は平均約1000人に1人という統計がある。

復旧現場で作業するのは平均年齢が60歳前後なので死亡率は更に高いはず。人口4千万人に対して日常で約2.5%の年間死亡率であり、生涯致死癌率26%である。

原発復旧作業では4千人が従事しており60歳以上が500人いるとして2.5%は12.5人だから、年間数人が私病で死亡しても確率的にはおかしくない。

メディアに発表されているのは原発作業中の死者であって地元に帰ってからの統計は調査していないが、放射線労災認定については富岡労基署の記録を調べればわかるように情報公開されている。



【25】若社長の急死

珈琲館でアイスコーヒーを一緒にしたフリーライターから瓢タンに連絡があったのはお10月だった。いわきでは過ごしやすい気候である。

「原発の作業員ルポルタージュの本を読みました。」

労働者の実態に興味があるらしい。原発の復旧作業ではいろんな労働者の実態がよくわかるのではないか、というのが彼女の興味だ。

・・・

作業員を集める具体的な方法はゼネコンの下請け先による。一次下請けのY工業、T工業など鳶職や雑工といった作業者集団がある。そこへ正社員として就職するか二次下請け、三次下請けからの採用となる。一次下請けの正社員では月給制であり、二次、三次となると日当制となる。

 T工業とY工業では賃金体系は異なる。ゼネコンからは危険手当が一人当たり最大2万円。構内の勤務エリアはそのエリアの空間線量率によって5千円、1万5千円、2万円と異なる。あるいは当人の被ばく線量によって変える場合もある。

また一方は一日1万円の危険手当がつくが一方は5千円しかつかない。しかし一方は基本賃金が20万円で、一方は30万円。というふうに賃金体系も異なる。

多重下請けになると危険手当1000円、日当1万円とかもある。そういう作業員が、まともな手当をもらっている作業員の話をきくと、その途端に自分が下請け構造の下層にいることを嘆く。いろんな事情があろうが、同じ仕事で賃金がおおきく異なると仕事のやる気がなくなる。

ゼネコン職員は全員危険手当の基準は同等だ。東電は危険手当を総請負金額に上乗せして元請けゼネコンに支払うが、現場作業員への支払いを東電が約束しているわけではない。

 労働基準監督署から支払い手当の指導をうけているが、一次下請け、二次下請け、三次下請けは概ね2万円に会社経費を引けば1万円~5千円だろう。

元請けの中にも大手だけでなく、中小企業もある。中小企業の元請けの中には危険手当は支払いませんと言う強者もいる。労基署がその理由を聞くと「お金目当てで仕事をしている作業員なんて集めてもろくなことありません。」と答えた。会社としては個々の危険手当をきちっと2万円東電からもらっている。

実は同じ会社内のいわき事務所内で火力発電現場もあり、そこでは危険手当などない。原発復旧社員だけ2万円付けると、火力現場の社員もみな原発復旧へ行きたくなる。それでは会社の統制がとれない、という理由だった。

ただし中には2万円そのまま手渡す一次下請け企業もある。光電技術はそのひとつだった。

光電技術の二代目若社長は社員の作業現場を確認するために短期間だが1F復旧現場に足を運んでいた。短期間と言うのは年末までのこと。

そして免震棟の休憩所に来て、いつも口癖のように言う。

「うちは危険手当はみんなにそのまま2万円払っているからまったく儲かりません。そもそも一般の現場は請負ですので会社経費も諸経費も資材費もいただいてますが、ここは人件費だけですので、会社経費倒れですよ。ほんとに文字通り復旧作業に協力しているだけ。請負ではなく作業だけだから儲けはないです。本音を言うと撤退したいのです。」

そう言いながら若社長は白いスーツに外車を乗って颯爽としていた。

あとから偶然ネットで知ったが、お別れ会が開かれていたが、その呼びかけ人が有名コーヒーチェーンから参議院になった政治家で、参加者は芸能タレントの神田うのなどがいた。かっこいい若社長だったが社交もかっこよかったようだ。。

だった(過去形)というのは2011年末に東京に帰った途端に急死したのだった。

若くて元気なのに不思議な急死だった。短期間の現場視察なので被ばく線量は数Svくだいだろう。労災申請する基準以下である。

普通40歳前後の日常の年間死亡率は0.1%に近い。だから同級生には見つからなくても同窓生など調べてみれば意外な人が若くして急死していることがある。

その後も不思議な死は瓢タンの周りで起こって、鹿山建設の中で鉄腕レースを趣味にしている中年ランナーが急死した。え?あの元気な人が?と思うような人が急死することが世の中には意外と身の回りにある。



【26】遮蔽スーツと被ばく隠し

3号使用済み燃料を取り出すためには原子炉建屋を覆うドームが必要で、そのドームを支えるための建屋を覆う鉄骨カバーが必要となる。夏を過ぎて原子炉建屋カバーを設置するための地上のエリア平均線量は1mSvに低下したがさらに路盤整備で0.5mSvを目標にしている。

一時間で1mSv被ばくすると作業者がどんどん規定限度に達して現場から去らねばならない。そこで放射線遮蔽スーツを着用して最低でも40%は放射線カットしたい。その場合被ばくは1時間0.6mSvである。

環境を一時間0.5mSvまで低下させれば、作業者の被ばくは一時間0.3mSvになる。

30分で0.15mSv、ひと月10日で1.5mSv、年間18mSv、これが一年を通して作業続けるための上限である。日当で生活する作業員は0.1mSv/h以上の高線量エリアの作業やそれ以下の低線量エリアの作業を入れ替えながら毎日計算しながら一年を凌いで次の一年に食いつないでいかなければいけない。

遮蔽スーツには2つの型式があり、ひとつはワンピースタイプ。もうひとつは頸部スカーフとベストと腰スカートのセパレートタイプだった。しかし使い始めが夏だったのでセパレートタイプのスカート部分は外してベスト(胸腹のチョッキ部分)だけ着用するケースが多かった。

放射線管理上では被ばく線量を正しく反映させなければいけないから、セパレートな遮蔽スーツは作業員個々に付けたり外したりできないように縫い付けることにした。革製品用の手縫い針とストレッチャーを使って手縫いした。そしてベストとスカートは縫製され一体型となった。

首は頸椎の被ばく保護で大事なところだとかいうことで頸部スカーフとベストの組み合わせで作業する者もあった。頸椎には骨髄があって造血機能があるから首を守らないといけない、と鳶職の親方の鬼瓦のような土方が瓢タンに言った。

「俺は調べて知ってるんだ。頸椎を守る鉛入りスカーフがないと骨髄の被ばくをして、白血病になるんだ。」

 203高地の名付け親方が物知り顔に言った。

しかし遮へいスーツを使用した場合の被ばく計算には頸椎の要素はなかった。むしろ造血機能は骨盤のほうが多い。

 スカーフもスカートもあった方がいい。しかし不均等被ばくという計算をする際には首の遮へいは計算ファクターには主として入らない。

そこで瓢タンは言った。

「首も鉛で遮蔽したほうがいいですが、それより骨盤を守るスカートだけは必須です」

どっちも着けるとなると作業員は面倒くさがった。結局どっちか選ぶなら骨盤を守るスカートだということを理解してもらった。

白血病は罹患まで足の速い症状だが、最初の年の夏にはそこまでの事象発生はなかった。厚労省では最低5mSv以上の被ばくと1年以上の経過で労災の条件に入る。そして白血病にも種類があり、骨髄性白血病又はリンパ性白血病であること。となっている。

身体の被ばくを防ぐために遮へいスーツを着用するが、その場合被ばく線量を正しく計算してシステムに反映する必要がある。

単にAPD数値だけ下げたいなら、5センチ四方の鉛板をAPDに張り付ければよい。

しかしその方法は放射線被ばくとそれによる身体影響の統計が合わなくなるという点で違法であって、実際に100mSv被ばくしているのに50mSVと記録されるようになってしまうと疫学統計に生かされないばかりではなく、法定限度の5年で100mSvを守ることもできない。

瓢タンとしては法令に準拠して作業者本人の実際の被ばく結果が正しくになるように放管として指導するばかりだ。

APDを5センチ四方の鉛板で覆うという安易な遮へい方法は誰でも考えるところだが、鹿山建設ではない他の元請け作業では、実際にそれをやった作業員がいて、違法行為という大きな事件となるのだった。

さらにその後、APDをどこかに隠して置くという離れ業をやってのける作業者がいることも発覚したのだった。

それらを監視するために出口管理の放管が目視で検査できるようにタイベックスーツの胸部分を透明ビニール窓を付けるように改善されていったのだった。



【27】靴

 作業員のクレームは自分の足の大きさに合った靴がないことだが、電力会社は靴は揃ってます、と回答する。靴を用意する電力会社も大変で、数、大きさ、そして靴の形状種類。形状種類は短靴、長靴、中靴の3種類あるがいずれも形式はレインシューズで、つま先が安全用鋼板入りのどた靴である。作業者の不満は数ではなく、自分に合った靴があるかどうかだ。ぶかぶかの靴では復旧現場のようなでこぼこの路面はつまずいて転んで怪我をしやすい。

 つま先に安全鋼板を仕込んであり、24cm25cm26cm27cm28cm29cm~とあるが紐もマジックベルトもついていない、見かけはコックシューズとか防止レインシューズとかで、安全ドタ靴だった。 24cm25cm26cmは使用中で27cm28cm29cmが靴箱に余っている状態だとすると、電力会社としては、余っている靴があるから、靴は足りています、という考え方をする。したがって作業員は自分に合わない27cm28cm29cmから選ぶしかない。自分に合わないのでつまづいたりすることが多くなる。

 元請け企業ごとに一般とび職用の靴を用意することもできるが、毎日汚染検査をして管理しなくてはいけない。だからなかなか対応できる企業はいない。東電支給の靴は電力会社が汚染検査管理してくれる。だから仕方なくドタ靴を使う。長くつは比較的脚になじむが夏は暑くて履いていられない。冬は逆に長くつでなければ足指が凍るほど冷たい。

 自分に合わない靴だけが残っていてそれを使わざるを得ない現場の実情について、電力会社は作業の目的で現場に出たことないからその辺が良くわからない。

 転んでねん挫したとか怪我したとかの軽傷事故が毎月のように発生した。「自分の身は自分で守る。これを徹底してください」 電力会社の安全指針は変わらない。 靴底に汚染が残ってそこから放射能が染み込んで軍足に滲みて、足裏表皮が汚染する場合もある。これをもらい汚染という。電力会社の汚染管理と言っても毎日やるわけではないからだ。

 足裏の汚染は作業後に身体サーベイで判明する。処置は除染、つまり洗浄すればよい。問題点は作業員が作業を終えてあとは帰るばかりのときに、汚染が見つかると30分も手間をとってしまう。その結果原発からJヴィレッジ行の帰りの目的時間のバスに乗り遅れる。日常の行動サイクルが変則になるということで作業者もできるだけ汚染はしたくない。

 本来は靴の中が汚染しているかどうか毎日測定検査しなければいけないが、電力会社でも、さすがにそこまでのことは対応できないので一週間に一度くらいで精一杯だ。 靴に針のように穴が開いているかどうかも気になるが、靴を水中に沈めて発泡検査も行っている。そのような穴から汚染が染み込むのならその時点でその靴を廃棄する。 それ以前に、靴の中が汚染しているかどうか、ガンマ線では測れない。外のガンマ線が中まで通過する。ベータ線は通過しないからベータ線を測れば良いが靴の中に入れるセンサーなどは開発していない。

 そこでスミヤ測定法といって靴の中を濾紙で拭き取ってみてから濾紙に付いた汚染(ベータ線)を測る方法を採用するがそれだけ余計な手間がかかる。

「自分に合うサイズの靴がないなら、電力の係員にリクエストして、出してくれるまで待てばいい」

 瓢タンは作業員にそう教える。しかし作業員は暇人ではない。電力の係員が現場に居ないことの方が多い。だんだんリクエストなど面倒になってくる。そして自分に合わないぶかぶか靴で作業して、鉄板の段差に躓いて転ぶ。そして怪我の統計ではつまずき転倒がダントツで多いが、そんなことが実情だった。


【28】警報無視という違反

作業員はタービン建屋下屋を203高地とか、そこの作業をウルトラマン作業とか言っていたが、原子炉建屋の剝き出しのオペフロ上の放射線量はもっと凄い。測定値2.0Sv/hなどの測定値が出たりするとタービン建屋下屋屋上の100mSv/hの数値が可愛く見えてきた。

昨日やってきてまだ二日目の鳶職が3人、原子炉建屋の南側仮設梯子を登って最上段のオペフロ近くの仮設単管パイプの金具を締めに行った。作業終えてから、まだひとつ締めていない箇所に気がついた。そのときAPD警報がキュイーンとプレアラームが鳴動した。ルールでは被ばくを避けるために直ちに作業を終えてその場を仕舞って免震棟休憩所に戻らなければいけない。しかし本人としては、あと一本締めるのは1分もかからないということで引き返して作業を終えた。すると今度はビービービーという最大警報が連続鳴動した。その音は免震等で遠隔監視している監視員にも聞こえた。ちょうど監視員はとび職の親方で鬼瓦の赤ら顔の土方だった。

「おい、おまえ最大警報なってるぞ。すぐに戻ってこい」遠隔監視のマイクから叫んだ。

「は~い、ちょっと工具忘れたんで取ってきま~す」

「バカ、戻れといってるんだよ」

「でも工具が」

「そんなのどうでもいいんだよ!バカ」

そういっているうちに5分もたってしまった。原発復旧にきてまだ二日目であり、本人も焦っており、右往左往して手間取った。

戻ってきた時には作業員のAPDは2.5mSvを示していた。怪我をしたわけではないが、2.0mSVを2割以上も超えると警報無視、つまり故意のルール無視とみなされ、事故事象扱いとなり顛末書対策報告書を電力会社に対して書かなければいけない。

ほんとうに故意の警報無視であれば本人は田舎に帰って一般の工事作業に従事するところだが、今回は遠隔監視でも指導していたし、本人の故意ではなく、右往左往するのは初心者の常、ということで現場に残ることになった。

作業者を帰すことは元請企業の命令ひとつでできるが、その際に十分な納得を得られないといけない。もし本人が納得しない場合には地元に帰ってからメディアに原発現場のことをチクル可能性もないわけではない。

電力会社とそこに従事する作業者全体、元請下請け共に原発内のことは機密情報として公言してはいけない。不本意に解雇された作業者の場合はそんな約束事を無視することもありえるのだった。だから福島原発の復旧現場解雇でも次の現場をあてがうなどして作業員の面倒を見るようにするのが常套手段だ。


【29】お漏らし

3号機現場周りにはトイレはない。というか1Fの構内作業現場にはトイレはまだない。トイレは免震棟や厚生棟と呼ばれる休憩所建物の中にある。

 放射性物質の飛び散った1F現場ではズボンを脱ぐことはできない。白いカバーオールと綿手、ゴム手二重、軍足靴下二重、それに防毒用の全面マスク、足、手とマスクとカバーオールは空気が入らないようにガムテープで密封する。そんな状態では野グソもおしっこもできやしない。

Jヴィレッジで着替えをして構外の仮設プレハブ休憩所で一旦休憩し、そこを出発点として再度免震棟で着替えをして現場へ行く段取りの作業で、瓢タンの面の前で起こった。

 夏のある暑い日、トイレがすぐ近くにないのでおしっこの我慢も限界というものがある。作業員の大黒は構外休憩所に戻ってきて、タイベックスーツを脱いだとたんにその顔の表情が恍惚状態に変わった。床をみたらおしっこが流れていた。

1Fの現場に出るとトイレはない。トイレするにはまず車で免震棟に戻り白カバーオールと全面マスクと綿手、ゴム手、軍足、要はパンツ一枚になって、汚染検査を通ってから休憩室に入り、休憩室のトイレを使わなければいけない。

ところが夏になれば熱中症予防のために沢山の水分を取ることを義務つけられているので、現場でおしっこをしたくなる。そこで免震棟や所定休憩所までたどり着いてからおもらしする者も出てくる。汚染検査受ける手前でタイベックスーツを脱ぐがその時点でタイムアウトしたのだった。

事務所としては、あらかじめ危険予知して、介護用おむつを、依頼した。しかしJV事務所では最初の夏に在庫をたくさん抱えた。

購入したがみんな見てくれや恰好を気にしておむつを使わないので在庫が事務所のスペースを圧迫してしまい、在庫処分のために瓢タンも祖母に配ったりして在庫減らしを手伝った。

その後、山の中の重機廃棄置き場の現場で放射線管理していると、別の作業員が言った。

「瓢タンさん、ちょっと向こう見ててください」

 白いタイベックスーツはチャックのつなぎだからやろうと思えばオシッコは思えば可能だ。しかし汚染しないように、ゴム手袋を新品に代えてから行う。大事なところが汚染したら、報道機関に発表されて、恥ずかしい思いをする。



【30】首根っこ掴まれるゼネコン社員

太平洋に面した原発は海の方から4M(メートル)盤、10M盤、高台(33M)と三段階の敷地がある。Mは海水面からの高さで、4M盤には非常用電源のオイル用タンクやタービン建屋からの復水タンクなどが設置してある。10M盤には原子炉建屋。高台には免震棟など事務所設備。

10M盤といわれる地上道路に3号機入口の大物搬入口がある。扉は爆風で吹き飛ばされている。海から風が吹くと大物搬入口前の線量率は急上昇する。まだヨウ素が存在していたのかセシウム粉塵の仕業か。

そんな頃3号JVの大手ゼネコン職員の中には人材会社雇用でJVの名刺を持たせた派遣社員がいる。JV正社員職員の代わりに被ばくをするようなものだった。作業員の作業監視のために立っているだけで一日2mSV被ばくするのだ。

派遣JV職員の大黒は監視のため立ち仕事(免震等との連絡係)を端折って、いつも待避所に避難していた。そうしないと一ヶ月に20mSV二ヶ月に40mSvの被ばくしてしまう。そうなると2ヶ月で現場を去らなければいけないので、毎日の1万円の手当てがそれで終わってしまう。本来は2万円だが半分は派遣元の経費だ。

残業100時間で20万円、手当20日間で20万円。計40万円。それに毎月の月給が30万円。併せて70万円。こんな現場は他にはない。なんとかしかしてもっと長期間継続したい。そのためには被ばくを低減すればいい。現場の待避所と言う線量率の低いところに閉じこもっていればいい。

それを下請けの作業員にみつかった。作業員は休憩所でいきなり切れて、JV派遣員の首を捕まえて言った。

「こら、なんでいつも逃げるんだ。ふざけんなよ。俺たちが現場で被ばくしてるのにおまえは逃げてばっかりじゃねえか!」

作業員も被ばくを避けたい。みんなそれが本心だ。そしてみんなそれぞれ自分の工夫をしてなんとか被ばく線量を下げている。

線量率の高いほうへ向かず反対側へ向く、下着ポケットのAPDを手で覆う。線量率の高い場所から離れる。APDの被ばく線量数値を下げたい者は、みんなこまめに工夫をして作業している。


【31】釣り道具のオモリとAPDの鉛隠し

3号JV鹿山建設(ゼネコンジョイントベンチャー:ゼネコン数社の共同企業体)がいわき事務所を2011年6月下旬に開設して、夏が過ぎるころには早くも被ばく線量30mSvを超える者も出てきた。特に現場で作業指揮する3号JV職員は先頭を切って被ばくした。3号JV職員が被ばくを惜しむような素振りが見えると下請け作業員になめられて作業もいいかげんいなる。自分を防御して待避所へ逃げ込んでばかりいると「おまえまじめにやれ」と首根っこつかまれる。

派遣で雇用された3号JV社員の中でも真面目な者は3号JV社員の代わりに被ばくをする。いずれにしても初めの3か月で30mSvを超える者がたくさん出てきた。

ちょび髭のオイちゃんはAPDの値次第だということに気が付いた。APDだけを鉛で覆えば数値は下がると思った。そこで釣り具のオモリに使う鉛板を金づちでたたいて4cm前後の四角い厚さ1mm弱程度のAPDの大きさに加工した。釣り道具のオモリに使われる鉛の板は1mmにするには薄すぎるので手間がかかる。

叩いて伸ばして重ねた鉛のフリーカットシールを紙に包んでAPDの前に挿入した。彼だけがAPDを入れた下着の左ポケットがちょっと垂れ下がっているが、だれも気が付かなかったし、そんなことしているなんて想像もしない。

「俺さあ、釣りの鉛のシールオモリを張ればAPDの値下げられると思ったんだよね。こんなちいさいシール鉛をハンマーで伸ばして大変だったんだから。」

しかし彼は素人判断だった。釣り具の小さな鉛0.1mm程度のシール板を安易にAPD表面にちょっと張っただけではセシウムのガンマ線は遮蔽効果がほとんどなかった。厚さも足りないし、ガンマ線は左右からも来るのだった。セシウム134ガンマ線を30%遮蔽するには鋳型で溶かして最低厚さ3mmくらいの板を作る必要があった。作業中に線源のほうを向かない、線源から距離を取る、作業時間を短縮する、ほうがよほど遮蔽効果がある。

瓢タンは、ちょび髭のオイちゃんのやっていることには効果のないことを知って安心した。もし効果があれば取り上げて二度としないように注意しなければいけないがその必要もなかった。

かくしてちょび髭のオイちゃんの安易な遮蔽鉛ではAPD被ばく数値が他の作業員とほとんど変わらず、労多くして益なし、徒労に終わった。

もっとも労少なくて効果のあるやりかたは、APDを休憩室に隠して置くことだった。休憩室にあるから被ばくはほとんどしない。これをやった作業員はメディアに自ら告発したので事件になり、その後電力会社は、そういう不正を防ぐため、タイベックスーツの胸のところには左右の透明なビニールにして装着したAPDが出口検査で見えるようになった。APDを目視確認できないときは現場にでることができない。

不正が発生する度に電力会社は不正を防ぐよう対策マニュアル作りに忙しい。しかし被ばく線量を低減するための方法は線源との距離、作業態勢、作業時間の短縮が一番効果がある。実際にそれを実行する作業員としない人の差は2倍にもなることがある。安易な抜け道は結局身を滅ぼす。それこそ「自分の身は自分で守れ」なのだった。



【32】2011夏が過ぎてボランティア

夏があっという間に過ぎようとしていた。3号JVではお盆過ぎに原発作業の放射線管理不適合事象が重なった。APDの警報を超えて作業したこと。APDの10時間警報を超えて作業したこと。

線量警報が3mSvに設定されているがそれを超えることは度々あった。本来は事業者である電力会社に不適合是正報告という堅苦しい手続きが必要だが、電力会社も対応が間に合わない。休憩所の拡張、APDのシステムアップなどに追われて管理人数が足りない。

そこで放射線管理者の瓢タンとしてはその分が楽になった。気持ちの余裕ができたので瓢タンはボランティア活動をしてみたいと思った。3号JV宿舎となっているいわき市平はかろうじて避難区域の対象外だったが、いま避難している人たちはどうしているのだろう。なにかできることはないかと思った。

いわき市のキリスト教協会がボランティア窓口になっているという話を耳にしたので電話をしてみた。

「ボランティアするにはどこへ集まればいいのでしょうか」

「毎朝9時に集合です。内容は瓦礫撤去ですよ。あなたが何をしたいか、そこが合致すれば来ていただいていいですよ。」

何をしたいか?そう言われると瓦礫撤去が瓢タンの意ではなかった。1F復旧で瓦礫撤去しているのに個人でさらにやるのはいかがなものか。

そこで何をするか自分で考えてからにしようと思った。

いわきの中央台高久というところに大きな仮設住宅がありそこには楢葉町の避難住宅があった。

まず偵察に行くと、散歩する老夫婦がいた。声をかけてみた。避難所では自宅の畑はない。ややもすれば閉じこもりになり、体を動かさないので務めて散歩するという。そして肩が凝ると言う。

そこで瓢タンはボランティアで肩こりを治すためのマッサージをすることにした。誰にでもできそうだと思ったからだ。

集会所に楢葉町の復興担当者がおり、そこで話は意外とすんなり決まった。何をするのかを書き、いつ開催するのか日程を決めて、対象人数は適当に8人と書いて仮設避難住宅の共有スペースの借用申請をしたところ、受け入れられた。避難住民への広報は窓口担当がやってくれるということだった。

日曜日の月に二回通うように設定し、行ってみるとマッサージ希望者がちゃんと待っていた。一人15分、8人で2時間。仮設住宅の窓口のおかげで初日から予定通りだった。

3回4回通って30人ほど施術してみるともうコツはわかった。強すぎず柔らかすぎず、相手の肩の筋肉と会話しているようなものだった。いつの間にか先生と呼ばれるようになり、そのうちゴッドハンドの先生と言われるようになった。

肩凝りマッサージのコツは最初の5分はただなでるだけ。その5分で人に依って凝り方の違いがわかるようになる。最初ガチガチの肩の筋肉が少しなじんでくると固いところと柔らかいところが感触でわかるようになるまで。それから固いところを親指で少しづつ強めに指圧してゆくのだった。

そんなことで15分後には固い筋肉が弾力のある筋肉になるように親指で押してゆく。


【33】春夏秋冬ボランティア

瓢タンは毎月二回の肩もみボランティアを雨の日も風の日も雪の日も続けた。仮設住宅避難住民のいろんな話を聞きながら。

・地震のときはがくがく足が震えた。

・新築の家に住み始めたばかりなのに避難で失った。

・散歩していたので偶然助かった。

・息子夫婦と孫は福島県から避難させた。

仮設住宅の集会所ボランティア活動では他にも柏市からお茶のみ会を開催するために毎週通っている夫婦もいた。夫婦はガラスバッジを付けていた。柏では放射能が飛散したのでガラスバッジを付けて個人個人で被ばく測定しているようだ。

そう言えば、2011年6月に柏から3号JVに赴任してきたばかりでまだ原発構内に入っていないゼネコン社員が、入構前の内部被ばく測定をしたところ、ヨウ素内部被ばくしていた。ヨウ素は半減期8日なので2011年6月には消えているはずなのに検出されたってことは、爆発時に相当な量の被ばくをしたいたんじゃないか?と疑問が残った。

逆に原発入構まえの内部被ばく測定で全国のヨウ素やセシウムの実際の飛散状況がわかることになるのではないか。

柏の夫婦の催す会に瓢タンも参加してみた。わかりやすく言えばティーパーティーだ。お茶飲んで雑談することが大事なことであって、避難中のストレスが和らぐ。ほとんどは女性であり男性はほとんど見つからない。仮設住宅では男は閉じこもりが多い。女はとにかく出回って、おしゃべりが好き。

また放射線研究の学者たちが放射能は怖くないということを話にくる講演会的催しもあった。あとでその感想を直接聞いてみると、学者たちの説く「放射能は怖くない」と言う話に対して避難住民は決して納得していない。しかし学者たちは共感を得ていると思い込んで帰ってゆくようだ。

住民からすれば避難者の被ばくは無害だとか言うが、避難しているから無害は当然だし、逆になぜ避難し続けていなければいけないのか、それは放射能が無害ではないからだろうという疑問が残った。行方不明探しのために自由に帰ることも墓参りも制限されている。すべては放射能に害があるからではないのか。そういう感想は得意満面の講演者には直接は言えない。学者たちが放射能は無害というなら放射能に関する規制をなぜ変えないのか。という疑問が避難住民にはあったが、お愛想笑いで「本日はどうもありがとうございました」とお礼を言うのだった。

この一般市民の疑問を解決するにはLNT仮説(1Sv被ばくで致死癌確率5%、100mSvで0.5%)に従って、比例計算した被ばくリスクを、個々の日常のリスクと比較して個々に評価判断する方が合理的である。ICRPではLNT仮説はあくまで防護基準であって、実際の被ばくで放射線影響リスクをLNT仮説で比例計算に使うべきではないと説くが、計算自体はしてよい。ただし計算で得た数値は単なる計算値で在り、個々の日常のリスクを比較して評価し、個々に判断することになる。個々の日常のリスクを計算することもややこしいが、100mSv以下だから影響ないという大雑把すぎる説は矛盾を含んでおり市民には納得しにくい。ただ単に、低線量被ばくは無害だなどと言ってもその被ばく量の厳密な境界がはっきりしないし、大人と子供では感受性が違う事も明白な事実である。

そして一般市民には疑問だけが残り、入れ代わり立ち代わりでやってきては講演する学者達は自己満足して、帰ってからSNSで避難市民の納得を得ました、お礼を言われました、と報告するばかりだった。


肩もみを受けに来る人もほとんど女性だった。若いのに鉄板のようにがちがちに凝った人、老女なのに意外とやわらかい人。さまざまだった。男性はほとんどが部屋に閉じこもっていたが、毎回通ってくる男性も1人いた。

その男性に偶然、平のいわき駅のバスターミナルで出会ったときに瓢タンは「きょうはどちらへ?」と声を掛けたが、恨めしそうな顔をして周囲を見回し、「俺は避難民なんだよ」とつぶやくように言って空虚な目つきで空を見上げていた。

瓢タンが帽子をかぶっていたせいか、気が付かなかったようだ。仮設住宅の肩もみを受けているときは歌を歌いながらリラックスしていたようだが、平の人の行き交う繁華街では別人となっていた。孤立した男性特有の疎外感だろうか。

肩こりマッサージしていたとき、その男性の肩や背中は鋼鉄のように硬かった。


 また、郡山の女子学生で福祉の勉強をしていて、是非見学したいと言って見に来たこともある。磐越東線に乗っていわき駅に来て、仮設住宅の実際の現場を見学して帰って行った。

同じJVの派遣社員も参加してきたこともあるがクビにした。

1人はお漏らしの大黒で、女性の膝やふくらはぎのマッサージばかりする。

「大黒さんよ、肩もみマッサージなんだよ」

そう言うと大黒は、

「いやあ、膝やふくらはぎが凝ってますよ」と言ってよだれが垂れそうになってやっているので、気味が悪くなってクビにした。

もう一人は斎賀と言って、大学のときに少林寺拳法部で整体も習ったと言ってやってきたが、高齢者おばあさんにエビそりのように整体を施していた。

斎賀「おばあさん、これって気持ちいいでしょう?」

するとそのおばあさんは

「う、う、う~」

とうめくばかりだったが、斎賀は

「ね、いいでしょう、と言って更にエビそりを続けるのだった。

そんなことをすれば翌日反動で筋肉痛で身体が動かなくなる、と思ってクビにした。

案の定、そのおばあさんは二度と来なかった。


そうやって残暑の時期にスタートして、雨の日も風の日も雪の日も毎月二回通い続けて一年も続けると、瓢タンの親指付け根の関節は皆さんの肩こりの強さに負けて、関節の炎症してしまった。

筋肉痛ならば鍛えられて強くなるのだが、炎症は温めてもさらに痛くなる。そこでギブアップして継続できなくなった。ゴッドハンドの肩もみマッサージは2012年の夏までの1年間で終わった。


【34】熱中症とWBGT値

1Fの3号機復旧の休憩所は免震棟だ。そこから1~4号機や汚染処理復旧工事にでかける。免震棟の入り口兼出口にはWBGT値と温度が電光掲示板で表示されている。

海に面しているので朝9時くらいまでが最も気温に対してWBGT値が高い。湿度80%超えると温度よりもWBGTが高くなる。湿度80%以下では温度よりWBGTが高くなることはない。

そこで真夏は8時過ぎるとすでに電光掲示板のWBGT値が31℃を表示していることがある。その横には「WBGT値31度以上になると安静にするように」と注意が書かれている。

安静とは、作業ができないことになる。と言っても継続して作業ができないと言う意味であり、15分ごとに現場の車でエアコンに当たって体を冷やしながらとかの作業は可能である。

作業継続するか休憩するかは下請け企業の判断に任せている。東電は数値を表示するだけだ。

WBGTの数値には、さらにタイベックスーツ着用の際は+1度、雨の日のアノラック着用は+11度の東エネの指導がある。+11度を足したら外気温20度でも作業ができないことになる。雨の日は概ね気温が下がるが、25度でも雨が降ることもある。そこでそういう場合は作業を請け負う元受のゼネコンの判断次第ということになる。最終的には作業者個々の判断次第といいうことになる。あいまいなルールであればあるほど末端にしわ寄せが行く。

電力会社は厚労省の指針をそのまま元請けに指示すればよかった。最初の夏は具体的な作業中止の指示もなく熱中症に注意しなさい、だけだった。

前日飲み明かした作業者は熱中症になりやすかった。

熱中症を防ぐにはまず睡眠、次に朝食、そして休憩だ。

一度あることは二度ある。熱中症経験者は繰り返すことが多い。

現場で熱中症が発生したら、まず休憩所で寝かせて、すぐに医療班に電話する。医療班は5分くらいで駆け付けてくる。そして医療室へ運んで点滴をする。

熱中症になったら、手足が思うように動かなくなる。それから冷やしても、水分補給しても治らない。生理食塩水の点滴が必要だ。ナトリウムとカリウムが筋肉を動かすために必要で、熱中症でそれらのミネラルが不足してから飲用しても間に間に合わないので点滴で身体に注入する。

2022年の夏から鹿山建設では休憩所に体重計を置いて、出かける前と帰ってきたときの体重の差を記録した。2kg以上の体重減があれば、もう作業せずに宿舎に帰った方がよい。そうは言うものの、作業に夢中になって体重が4kg減らす者もいた。

現場に着くまでにすでに冷却シートなどは湯たんぽ状態で効き目が無かった。

更に宿舎での朝食チェックも行った。休憩所には更にアルコールチェッカーも置いてチェックした。要は深夜や明け方まで飲み明かしていないかどうかをチェックする。そもそも宿舎を出発するのが3時頃なのだが・・・。



【35】秋風とホテルの人間模様

瓢タンは当初は避難エリアを外れたいわき市の大利地区から通っていたが不便なために鹿山建設が用意したホテルへ引っ越しをした。鹿山建設が宿泊するホテルは大グランドと小リトルと二つあった。

大グランドは貸し切りフロアが限られており、あとからホテルに移動した人は小リトルへ配置された。

いわき駅前の平の小さなホテルだった。3号JV社員は近くにある大きなグランドホテルに住んでいた。全国から集めたゼネコン社員は3か月契約で、3か月経つともとの現場に帰ってゆく。そのとき大きなホテルに空き室ができれば瓢タンはそこへ移る予定だった。

更に経費節減のために6か月以上の滞在者の中で今後も原発復旧に携わる予定の社員のために、事務所に近い場所のアパートを借り上げて、順次移ってもらう計画だった。アパートに移った職員の大グランドの空き部屋に瓢タンが移れることになる。

他のゼネコンもいわき駅周辺の大きなホテルをゼネコンが定住宿にしていた。真水建設はいわき駅の西側に陣取った。報道陣やレポーターなども大グランドをまず予約したが、取れない場合は小ホテルを取った。

大グランドの朝食バイキングでは著名レポーターやタレントを一緒に食べることもあった。

平の繁華街は原発事故バブルで好景気だった。

大グランドホテルは毎朝バイキング形式だったが小ホテルは毎朝カレーだった。365日朝はいつもカレーだ。嫌気がさすと、みな、自分でふりかけなど持参して食べていた。

小リトルホテルへ移ると同じホテル住まいの派遣職員から声をかけられた。

「明日暇なら郡山までドライブ連れて行きますけど」

そして朝早くからドライブに参加したが、行ってみるとそこは振興日蓮宗派の集会所だった。数珠を買わされたが、坐禅だと思って暇をつぶした。

毎朝同じカレー料理というのもいつまで耐えられるか時間の問題だった。酒を飲まないので毎晩の外出もせずにTV見てすごしていた。

そして毎月二回の日曜日はもっぱら仮設住宅で肩コリマッサージに勤しんだ。

ある日エレベータで思わぬ情景に遭遇した。ドアがあくとそこには口にテープ、両手にはスリッパをつけている少年がいた。瓢タンが凍り付いた瞬間の次に、よく見るとスリッパを手首にテープで巻きつけてある。目は視点がどこにあるかわからないように空中を見ている。隣には母親らしき女が立っている。

見慣れないその光景にびっくりして言葉もでなかった。

そして二度目は駅前通りでその親子に遭った。母親らしき女と目が会って瓢タンは思わず立ち止まった。

すると女は言った。

「わたしがこの子を虐待していると思っているんでしょう?」

たしかに瓢タンはその少年が無理やりそんな恰好させられていると思っていた。

「この子は障害児なんです。皮膚疾患もあってこうやって手をスリッパで防御して口にテープ貼っておかないと顔をかきむしって血だらけになるまで続けるんです。そして環境を変えるためにホテル住まいを転々としているのです。」

自閉症の少年は空中に目を向けながら黙って立っていた。

これがTVでたまにドキュメント報道される自閉症で自傷行為の障害を持つ子なのか、と瓢タンはどぎまぎしながら言った。

「治らないの?」

と問いかけると女は言った。

「医者のいうには大人になれば、自傷行為は自然にやめるそうです。」

瓢タンはそれ以上の会話が続けられず、二人が立ち去るのを見送った。親子はまもなく別のホテルに移った。

またあるときはフロントで大声で喧々諤々の話をしている客がいた。仮設住宅に移ったが夫のDVに会っているということだ。

「夫が訪ねてきても部屋を教えないでください!」

原発避難の長期化によってストレスを抱えた夫が暴力を振るうようになったということだった。DVの夫に見つかるたびにホテルを転々としていた。

秋風と共に様々な引っ越しの人間模様があった。

いわき市では原発避難者が多いが、そういう影の部分と逆に、原発作業員が数千人も急増して平の水商売繁華街のネオンは煌々と輝いていた。ゼネコン社員は給料制だから作業がストップしても月給は保証される。さらに原発復旧工事では危険手当が2万円、月20日で40万円支給される。さらに残業も時間2500円で100時間で25万円。

ゼネコン社員の中には毎月40万円を繁華街で飲み明かした強者もいた。現場の危険手当は原発復旧だけの特別なことだから、3か月間この現場に居る間は全部使ってしまおうという理由だった。

瓢タンもたまに付き合いでスナックに行くと、そこは事務所の女子社員の母親のスナックだった。

深夜に平繁華街を歩いていると、リヤカー引いたり、手押しカートを引いたり、着の身着のままのホームレスもいる。彼らも引っ越し先を探して深夜をうろうろしていた。


【36】作業員宿舎とパチンコ屋の復活

鹿山建設は土木部門と建設部門がある。土木は避難区域の除染作業と原発構内の地味な穴掘り作業の路盤整備が主だが、秋からは汚染水対策のメインになる凍土壁構築と避難区域の除染作業の調査をしているところだった。今後作業員はうなぎのぼりに増える見込みだった。

建設部門では3号の燃料取り出しのためのカバーリング工事3号JVが主で秋には3号JVと下請け作業員併せて現場要員は200人に上った。

もともとは3号原子炉建屋カバー、それからドーム建設だが、その前に地盤整備の瓦礫撤去がある。しかしJV所長は建築家であり、瓦礫撤去には興味が無かった。電力会社からは3号と4号の間の高線量瓦礫撤去の依頼もあったが、「そんなのは建築屋の仕事ではないよ」と言って断った。

作業員の人数は、3号JV65人、下請け作業員130人の割合だが、鹿山建設の建築部としては3号JVだけではなく、2号JVもあり、その他に原発構内の緊急的な即時工事といって1F随所の不具合復旧工事もある。

そこで作業員のために浜通りのいわき駅の三つ北、草野、四ツ倉の次の久ノ浜に300人収容可能な宿舎を建設した。

プレハブだが共同浴場付、共有食堂付きだった。宿代は月3000円の格安だった。現場作業人は日当制で、日当も特別手当も各下請け企業によって異なる。日当は職種、資格によって異なり、特別手当も下請けの階層によって異なる。ある会社は極まれだが2万円をそのまま支給し、ある会社はそのなかから半分を内部留保に回して、作業のない期間ができるとその内部留保から支給した。下請けの階層によっては特別手当が1000円のところもあるし、全くない場合もある。

しかし原発復旧の作業では危険手当てと日当と残業時間をまともに合計すれば手取りで少なくとも50万円はもらえる。稼ぐ作業員は月100万円ほどにもなる。衣食住がほとんど支給なので貯金すれば年間500万円は可能だ。

作業員用宿舎の近くにパチンコ屋があったが、津波のせいでお客が半減し閉店を考えていた。また近くのゴルフ場も放射性物質飛散の影響を受けて閉店だった。ゴルフ場は事故後すぐに、電力会社に放射能を除去要求して訴訟を起こしたが、飛散した放射性物質は無主物であり電力会社に除去義務の責任は無いと判決が下った。

原発は事故が起きても電力会社の責任は限定されている。では誰が責任を持つのか、定かではない。国の責任となっても国の政策である原発政策を決めたのは民主主義に従ってやったのだということになる。電力会社に除去責務があるのなら東日本すべてのエリアの除染は電力会社がやらなければいけないことになるが電力会社には免責がある。

久ノ浜のパチンコ屋は津波で避難した分だけ顧客数が減ってしまい、店を閉めようと考えていたところだった。

が、近くに鹿山建設や大山建設の作業員宿舎ができてから息を吹き返した。

原発復旧の作業は往復の時間は4時間かかるが、現場の作業時間は短い。放射線被ばくの限度が設定されている。もっとも短い作業は203高地のウルトラマン3分作業だ。

そこで作業員は宿舎に昼下がりの明るいころには帰っている。するとまだ明るいし酒飲む前で、やることもないのでパチンコに足を運ぶようになる。宿舎の300人のうち半分くらいはパチンコに通う。おかげでパチンコ屋は復活した。

パチンコ通いの作業員は月末になると金がなくなり宿舎に閉じこもる。宿舎ではパチンコで財布の中身がすっからかんになり、月末の金の無心が横行した。宿舎の部屋にはドアに「金のない人はお断り」の表札をだしている部屋もある。特に若い者は職長からたしなめられたが、なかなかやめられない。

若い作業員が親方の前に跪いて頭を下げていた。

親方は言った。

「今月も又金を貸して呉れってか、おまえ金がないわけないだろう。危険手当も残業手当ももらっているだろう。こんな田舎で飲み屋も近くにないし」

「それが、その~~・・・パチンコで・・・」

「おまえなあ、給料もらったらまず親に仕送りしろよ。パチンコ屋に仕送りしてなんの意味があるんだよ。」

そうはいうものの、原発の仕事は往復4時間かかるが、実際の作業は一時間程度、それが終わればさっさと宿舎に帰ってもまだ日が高い。他にやることもない。

釣りに興味がある者は救われる。放射能があると言っても浜通りの海岸はキャッチアンドリリースの釣りには絶好の場だった。

一方全国のゼネコンでは現場から一時的に3か月で派遣されており、全国各地から送り出されてくる社員はいわき駅平の繁華街毎日飲み歩く。中には妻帯者にも関わらず、月40万円も使った妻帯者の強者もいた。

瓢タンが聞いた。

「奥さんから文句言われませんか?」

「いや、3か月で目いっぱい被ばくして帰るんだから、その危険手当は自分の好きなように使って良いっていわれてるんだよ。」

原発で支払われた危険手当や残業手当のお金は、いずれにしてもいわき駅周辺の平の繁華街や久ノ浜のパチンコ屋に流れた。金は天下の回りものだ。風が吹けば桶屋がもうかる。


【37】二度目の夏 スリーマイル巨大床掃除機とコーヒー園長

地上の道路整備のための瓦礫撤去が一段落すると3号機原子炉建屋を鉄骨で外壁を作るための基礎構台設置作業が始まった。何と言ってもまずオペフロ使用済み燃料プールから燃料棒を取り出すこと。原子炉の上に使用済み燃料を保管していることは、水素爆発~メルトスルーの際に世界中からクレージーと指摘された。

オペフロは水素爆発の残骸瓦礫が覆っている。使用済み燃料の取り出し前にクレーン操作でオペフロ上の瓦礫をつまんで地上に下ろす計画だが、そのためにはクレーンを仕込んだドームを構台の上に設置しなければいけない。

3号機をドームで覆うためにはドームを支えるために構台と言って3号建屋周りに沿って補強鉄骨構台を組まなければならない。それにはまず鉄骨を組むための足場材組立から始まる。

オペフロ上の瓦礫撤去と並行して複数の工事が始まった。

道路上の瓦礫を撤去するグループ。

建屋周りに鉄骨構台を組むグループ。

オペフロ上の瓦礫を撤去するグループ。

さらに、オペフロ瓦礫を撤去した後に、オペフロ上にへばりついた放射能を削って除去除染するグループ。オペフロにドーム建設するためにはオペフロ上で人が作業できる線量率でなければいけないからだ。そのためには1000mSv/hもある場所を1mSv/h以下にしなければいけない。そのためにオペフロ上の瓦礫を撤去してさらにコンクリート床にへばりついた放射能汚染を床を削って除去するのだ。

オペフロのコンクリート床を削る重機は日本にはない。そこで即戦力としてスリーマイル原発事故時に使用した実績のあるアメリカ製装置を輸入することになった。まず輸入代理店が国内工場で組み立て試験して、それをJヴィレッジのサッカー練習場に運んで試験する。

オペフロ瓦礫や無残に残った竜骨のような鉄骨や、ドーム設置のための構台作りと並行して、Jヴィレッジのサッカー練習スペースで床削り装置の試運転を行った。

あっというまに作業員とゼネコン職員の合計が200人に膨れ上がった。

アメリカ製の床面削りの装置は手っ取り早く言えば、ビルの清掃機器を巨大化したものだった。

原子炉建屋内の調査用ロボットも即戦力としては、既に経験のあるアメリカから輸入した。

同時並行でに国内メーカーもデブリ調査用ロボットや除染清掃機器の開発に取り組んでいた。

アメリカ製の床面掃除装置はクレーンで吊下げてオペフロ床上を自走させてコンクリートを削ったり、同時に削った放射能粉塵を集塵掃除する。発電機とコンプレッサーや排風機のセットになって20トンもある。

それをJヴィレッジの空いた練習場で組立試験する。担当の現場指揮者は毎日Jヴィレッジに通った。夏になるとあっと言う間に顔がコーヒー色になって、あだ名がコーヒー園長と呼ばれた。

なお、このころはJヴィレッジでの作業は通常作業服で可能となり、危険手当は最も被ばくランクの低い5000円が支払われていた。

コーヒー園長は瓢タンに言った。

「わたしは元の事務所に帰っても肩身がせまいのだよ。いままで派遣された先輩たちはみな日焼けしなかった。全面マスクで3号周りの短時間の仕事が原発復旧だということが地元のみんなに知られている。私だけ真っ黒に日焼けしてるでしょ。原発構内で毎日炎天下で長時間の仕事で日焼けしたんですと言っても信用してくれません。なにせ被ばくもしていないんですから。同僚からはゴルフばっかりしてたんだろう?なんてからかわれるんだよ。」


【38】他人の不幸は蜜の味 落ちた?落とした?

復旧工事があっという間に1年経った。3号機復旧のなかで、最優先の作業はむき出しになった使用済み燃料プールの使用済み燃料を地上へ移動することだ。移動した燃料は地上の共有プールに移して冷却のやめの保管をする。冷却されて共有プールに保管したあとに冷却された燃料は地上の保管庫で保管する。

3号機では燃料棒を操作するためのフロア、オペレーティングフロア、通称オペフロ階の壁も天井も水素爆発によって木端微塵に吹き飛ばされ、燃料を操作するため天井に設置されたクレーン鉄骨はグニャリと曲がったまま、瓦礫としてオペフロ燃料プールに落ちていた。

そこで使用済み燃料取り出しのクレーンを設置するにはまずオペフロを囲むようなドーム、そこに新しいクレーンを備え付けたもの、を建設しなければならない。

しかしオペフロは吹っ飛んで砕け落ちた瓦礫が山のように積もっていて場の線量率は1SV/hを超えるため、人がそこに立つことができない。

まず人が立てなければドーム建設は難しい。ドーム建設する以前にオペフロに積もった高放射線源であるコンクリート瓦礫と天井クレーン(通称天クレ)の鉄骨ガレキなどを撤去しなければならない。

瓦礫の撤去は遠隔操作のクレーンに巨大な重機のクラブバケットやカッターなどアタッチメントを取り付けて行う。

また瓦礫をつまんで地上に下ろしたあとは、オペフロのコンクリート床面を削ってそれを吸引して表面の高線量部分を地上に下ろす。

クレーンの遠隔操作は風が吹けば中止となるし、まともにやっても遅々としか進まない。なぜならクレーンに取り付けたアタッチメントをオペフロに揚重するのに早くて15分。往復30分。それを一日何回もやる。

まず放射性物質が飛散しないように飛散防止剤を撒くがそれに最低1時間かかり、それからもう一度クレーンの上げ下げして撤去する。併せて使用済み燃料プールに落ちた瓦礫も撤去する。

使用済み燃料プールにはコンクリート瓦礫と同時に元々のクレーン設備の鉄骨の破片が幾つも使用済み燃料棒に引っかかって落ちている。それらは折り重なっており、どれがどれの支えになっているかをコンピュータ解析しながら、一つ取出しても他に影響がないように一つづつ、クレーン先にとりつけたアタッチメントでつまんで取り出す。

そんな微妙な操作をしているととき、他の鉄骨とは絡んでいない一つの鉄骨をつまんで抜き取ると、そのとき免震棟操作室で遠隔操作のオペレーターが言った。

「あっ!」

遠隔操作室は操作中は静寂の場である。

オペレータの一言で操作室に詰めている10人くらいの職員の頭がその一言に向けてぴくっと反応した。そして一人が言った。

「え?なんか言った?」

そしてすぐに全員がその一言を発したオペレータのほうを注視しはじめた。

するとそのオペレータはぽつりと言った。

「落ちる・・・」

みんな口には出さず無言で、口をぽかんと開けてモニター画面を見つめていた。

「・・・・・・」

1つを取り上げたと同時に、その下の大きな鉄骨破片がバランスを失ったのか?使用済み燃料プールの濁って不透明な闇の底へゆっくり沈んでいった。

「あ~~・・・」

方々からため息とともに気合いの抜けた声がでた。しばらくして室内は静寂を取り戻したがそれも束の間だった。

「落ちたぞ。大きい鉄骨が。あれって何トンだったかな」

俄かにざわついた部屋では落ちた鉄骨の重量調査が始まった。クレーン装置メーカーである東芝がコンピュータ解析により当該鉄骨の重量を計算する。すると実際には数百キロgの重量だった。

そしてそれを電力会社に報告すると電力会社は原子力安全委員会とマスコミに一斉報告した。そして次の日から大手メディアの紙面を賑わした。

紙面では「落ちた」という不可抗力的ニュアンスではなく、「落とした」と人為的ニュアンスで記載された。

鉄骨が燃料棒の被覆管を破ると核分裂放射線物質がプールに拡散されることになり、大変なやっかいなことになる。

作業は中止となり、まずは燃料棒が破損していないかどうか観察し、鉄骨落下の原因対策を追及して改善策を立て、第三者機関を含めて承認を得てから作業再開となる。

瓢タンが当月作業の延伸を報告しに労基署に立ち寄ると、担当官は待ってましたと言わんばかりの顔つきで言った。

「鉄骨落としたんだって?」

瓢タンは心外ですという顔つきで言った。

「いえ、落ちたんです。」

すると担当官は、おいしいものでも食べるように、にやにやして何回もうなづいた。




【39】作業員の告白 APD被ばく隠しの発覚

原発復旧作業では被ばく管理は必須である。それは法令基準であり、作業者はみなAPDを付けて作業することが義務となっている。

事故当初はAPDが不足していたりして管理はあいまいだったが、トラブルがあるたびに改善されていった。

優先課題としての冷却については事故の半年後の2011.12に政府は安定的に冷却が行われたと宣言した。

その後は復旧作業の被ばく低減が課題となった。

法令上の5年間100mSv、年間最大50mSv、に対して、3号JVでは5年80mSv、年間最大40mSv、月最大20mSv、平均目標年16mSvを限度基準にした。

復旧工事ではAPDの支給確保もできて、作業者の被ばく管理の実態についてもメスが入ることになった。

そんな折に3号JVではないが、電力会社の下請け企業のそのまた下請け企業の作業者がAPDの測定値を下げるためにAPDを鉛で隠して遮蔽していたという不正行為情報がメディアによってばく露された。

3号機JVの効果のなかった釣り具オモリシール鉛遮蔽とは別で、その作業員の鉛遮蔽は効果があったらしいが、逆にそのために作業員自身がこんな不正なことして被ばく線量を隠しているとメディアに告発したらしい。

原発ではなにはともあれ放射線の法令遵守が優先する。一般の現場と異なるのはひとえにその点だ。放射線の被ばく規制が無ければ建屋だって解体を10倍くらいの速さで更地にできる。

放射線管理の法令に従って外部被ばくについてはAPDの数値で日々の管理をする。APDと併せて企業側では自費でガラスバッジも身に着けるがそれは月ごとの測定数値となり、実際にはガラスバッジの通知または比較してどちらか大きい数値を最終結果として採用する。

問題の発覚は末端作業員の告白による。当該下請け企業は現場での毎日の被ばく線量が半年くらいで年間限度に達してしまうために、作業員の交代を避け現状雇い入れの作業者でなるべく年間通じて作業したい。会社としては作業員交代なしで日当も特別手当ても稼ぎたい。

そのため鉛でAPDを覆ってしまえば数値は低く抑えられるだろうと思った。そこで作業員に鉛板を渡してそれでAPDを隠して作業するようにした。

作業員はおかしいと思いメディアに告白した。この件は末端のルール違反で終わるだろうと思ったが、APDを管理していないことが大問題となった。

厚労省としては、安定冷却宣言した後の、安定作業期に突入しており、作業員の被ばく数値はなんとしても5年間で100mSvに抑えたかった。

平均すれば年間20mSvである。大手元請け企業はそれをさらに0.8掛けの安全側に設定しており5年間で80mSvである。年間平均すれば16mSvとなる。月平均では1.3mSvであり、免震棟休憩所で休憩しているだけも月0.6mSv被ばくするような時期には、月平均1.3mSvで現場作業しろ、ということが無理な話ではあった。

末端作業員は被ばく請負人のように限度に達したら短期間で交代させられる。今回の告白作業者は鉛で隠さないでも長期間の作業を継続できるように願って告白したのであろう。

対策は、毎日の作業時間を短縮する事であるが、それだと作業予定が進まない。作業時間を短縮して作業期間をもっと長くとれば一日の被ばく数値も抑えられるが元請会社からは短期間に作業を終わらせるよう指示される。

その板挟みになってやむなくというか無謀にも不正行為をする羽目になる。そうやっていつしか末端は法律の目をくぐらなければならないように追い込まれてしまう。

下請け企業は放射線管理責任者を雇えないような零細企業だ。本人はおそらく自分の身は自分で守ろうとして告白したのだろう。

その後、APD数値を誤魔化すことができる検査体制も改善された。タイベックスーツの胸の部分を透明にしてAPDが適切に着装しているかどうか、東電検査員が出入り口で確認することになった。


【40】APD鉛による被ばく隠しの顛末

被ばく線量管理の不正が発覚すると、法規制をどう守るかの改善対策が問題となる。せっかく原子炉の安定冷却を宣言して、放射線作業従事者の年間被ばく線量が緊急事態から通常状態に戻ったところだった。実際にはもっと被ばくしているなどという見方をされると電力会社としての管理責任が果たせない。

そこで現場対策としてはタイベックスーツの胸の部分を透明にして、休憩所の出入り口で検査員がAPDを正常に着装していることをチェックすることになった。

また過去の被ばく記録が適正に保管されているかどうか、労基署が復旧作業に従事する全元請企業の立ち入り監査を行うことになった。

厚労省の出先機関の労基署が監査に入ることになると、事前に各企業はいままでの記録を見直して整理して、企業内でチェックして、といろいろ面倒なことが多い。たった一つの抜き取りチェックでミスがあったとしても、全記録見直しの指導がでるからだ。

労基担当官がやってくるときは毎日の記録データをキングファイル10冊くらいならべて準備しなければいけない。

下請け作業員の不正行為によってすべての元請企業の事務所では年末まで順次監査が続いた。

鹿山建設の本社から瓢タンに指示があった。

「10月末までに記録を整理して間違いが無いようにしてください。」

 本社から11月初旬に監査が来るということだ。

 鹿山建設の事務所ではすべての記録は適切に保管されているが、監査となれば予行演習もしなければならない。労基署の監査が終わるまで、悩ましい日々が続いた。その間、瓢タンは、間違いを犯した元請け企業やその下請け企業への心の中での八つ当たりは収まらなかった。

 


【41】作業者と不在者投票と健康診断

瓢タンにフリーライターからの連絡があったのは三度目だ。今度も作業員のことで聞きたいことがあるらしい。

「作業員は組合がないんですか?」

興味はそこだった。被ばく隠しの報道などもあって最終的にしわ寄せが行っている現場の作業員の立場を気にしているようだった。

「組合をつくれば強くなれるのではないでしょうか。組合作って選挙という行動でしめせばいいのに。」

「作業員さんたちは選挙はどうしているのですか?」

そう聞かれると、全国から数か月のローテーションで来ている事務所の大企業職員である3号JV職員たちでさえ地元で投票しているのか不在者投票しているのかどうか知らなかった。

「そういえば、選挙日はどうしているのかなあ?不在者投票でもしているのかなあ。今度聞いておくよ」

そして事務所でいろいろ聞いたが、選挙投票している職員はほとんどいなかった。

不在者投票するなら期日前に交代で投票してくるはずなのに、日割りの人員配置表にはそういう国民の義務の記載がなかった。ただし、建設業界が押している議員の呼びかけはメール配信でなされていた。

メール投票なら可能だ。事務所の家族がミス選考で大会に出るときに、メールで投票してくれというのでみんなで協力したことがある。

建設土木従事者は約400万人だ。そのうち多くは現場から現場を渡り歩く。地元での建設にずっと携われるわけではない。人口が1億2千万だとするとその0.3%であるが、家族がいるから最低2倍の0.6%、720万票。組織票とすれば無視できない。

組織票を与党約2千万票、野党1.5千万票とすれば、土建の労働者がどっちにつくかによっては逆転する。

しかし現場出張している作業者のほとんどは平日の休みを取れなかったりして、投票にいかない。

フリーライターは職人の多層下請けの問題を職人たちの団結で解決できると思った。

「そうは言っても職人の仕事ってのはその日暮らしみたいなもので、ゼネコンの計画に依存しているからなあ。彼ら自身が作業の日程や計画をつくるわけではないから。結局はその日暮らしの日当賃金制は変わらない。ので、明日の日当が優先で団結は二の次でしょう。」

「不在者投票の義務を果たすことが先決だわ。選挙もいかないで多重下請けで危険手当が1000円だと文句言っても変わらないでしょう。」

「・・・。う~~む、というか危険手当1000円の作業員は文句言わないんだよ。末端の末端だから意義を唱えることも無いんだ。」

「へええ、でも家族も子供もいるんでしょ。」

「そうだなあ、家族は選挙に行ってるかもしれないけど。」

そんなことを平のラトブの珈琲館で話したのだった。

選挙に限らず、自分の身は自分で守るはずの厚労省が推進している健康診断も受けに行くのは難しい。自分の身は自分で守る、は当日、翌日の体調だけだ。

原発労働者は6か月1回の電離検診が義務になっており、検診費用は元請けが支払い、管理しているので作業員は必ず受けることになっている。併せて年2回の健康診断を行うがその費用は所属企業持ちだ。それと3か月に1回のWBC内部被ばく検査も受けないと原発に立ち入ることができない。

それとは別に水素爆発後最初の1年を緊急作業従事者と称して50mSv以上の被ばく者には厚労省が無償で健康診断を行う。ただし、その日程が思うように取れないのだ。従来行っている健康診断に代用してくれればいいが、それとは別に健診病院、健診項目を指定してくるのでなかなか行く日程をとれない。

医療機関の健診データが共有されないから健診ばかりが増えてしまう。

この緊急作業従事者健診は税金を使った国の研究調査であるが、その日を休んで受けなければいけないし、当日の日当補償がなく、厚労省の健診協力費数千円程度では日当に及ばない。だから参加する割合は少ない。もっとも健診は予約制であるが、日当、危険手当補償されても、元請けからの作業日程は下請け作業員は変えることができない。


【42】特別手当(危険手当て)の看板とロシアンルーレット

(1)特別手当(危険手当て)の看板

原発までの道路には共産党の立てた看板がいくつもある。

「危険手当は支払われていますか?タイベックスーツ手当2万円、タングステンベスト4万円。」の立て看板だ。

フリーライター「タイベックスーツやタングステンベストってなんですか。」

瓢タン「タイベックスーツはデュポンの商標で放射性粉塵を遮へいするための装備で上下つなぎの防護服。放射能と言っても粉塵にくっつくのでミクロン単位の放射性粉塵を通さない生地で作ってある。作業服ではなく、防護服とも言う。その下に作業服着てもいいけど、作業員は自分の作業服が汚染すれば損なので、東電から支給された上下の下着を着ている。防護服は作業服と言わないので、タイツと長袖下着で作業しているという事になるけど。で、タイベックスーツ着ていると放射能粉塵のエリアだから当然全面マスクを着けて作業する。その場合の危険手当が2万円という意味だろう。」

瓢タンはコーヒーを一口飲んでから続けた。

「タングステンベストっていうのは素材が比重の高いタングステンなんだけどいわば鉛の放射線防護服でセシウムのガンマ線を遮蔽する上着みたいなもの。重さは型式によっていろいろだけど10kg~14kgだろう。その場合、タイベックスーツの上に着るから、その作業は、東電下着、タイベックスーツ、タングステンベスト、全面マスクということになる。だから危険手当が4万円と言ってるんだろうね。」

フリーライター「それを着る作業は日当とは別に4万円支給されるってほんとうですか」

瓢タン「それは作業費のことだから元請けの経費も含めてのことだな。電力会社は新聞でも発表したけど作業者個々への支払いは補償していないので、ゼネコンなど元請けに払っている特別手当は上限2万円。しかしルールではそれは作業者に直接支払う義務はなくて元請けが一次下請けに支払って、あとはその一次下請け企業に任せている。元請けも下請けに強制はできない。なぜなら下請けの会社経費や、日当作業が空いた期間の生活費の補償としての積み立てとしてプールするとか、企業によって考え方はいろいろあるから。元請けみたいに月給が保証されているわけではない。だから危険手当2万円については鹿山建設は支払っているけど、一次下請けはそれから経費10%とか引いて二次下請けにとか。あるいはペンション積み立てとかいって5千円だけ支払う下請けもある。多重下請けの場合は、どんどん引かれていって1000円しか払わない場合もある」

フリーライター「二次下請けはさらに10%引かれて、三次はそのまた10%引かれるということなの?」

瓢タン「10%か20%かは別として、基本はそうだよ。窓口としての会社経費ってのがあるからね。だから五次下請けとなると半分以下になるね、最悪手当千円とか0になっちゃう場合もある。だから政府から電力会社へ指導があって基本の下請け構造は二次までとなっている。事故当時は五次下請けなんてのがあったし、全国から労務者を送り込むだけの組織もあった。それが政府~電力会社の指導で改善されてるよ。共産党の看板の効果かもしれないけど。」

フリーライター「中間搾取が多すぎて日当で雇われる側は弱いのね。」

瓢タン「そのかわり手足身体頑丈ならばできる。身体が資本。」

フリーライター「全国の日当作業者が団結してストライキしたら1F復旧工事も日本の公共土建事業も止まるのね。」

瓢タン「?そう言えばそうだね。ゼネコンは計画書つくって工程管理するだけで実際の作業はしないからね」

 原発復旧作業については2012年9月末に、岩波書店から「ルポ イチエフ」(布施祐仁)が刊行された。

 その中で、作業者に支払われる日当と危険手当の額が作業者の士気に関係していると書いてあった。とりわけ3号JVの作業者は士気が高いと記載されていた。

鹿山建設はルールに従って、作業エリアで異なるが、高線量エリアでは一日2万円を一次下請けに支払っている。瓢タンが思うには、作業員の士気が高い理由はそれだけではなかった。毎月一回200人を集めて安全周知会を行う時に、責任者が作業員に向かって必ず言うことがあった。

「この現場は世界で一番困難な現場と言われています。あなたなちは世界で一番困難な現場で働い当ているのです。・・・」

 と言って、南は沖縄、北は北海道から集まってきた作業者のプライドを高めることに努めた。

 そうは言っても所詮は金目当てで集まってきたのかもしれないが、ルール通りの支払いと共に作業員のプライドを高めることを忘れなかった。

いわき駅前のラトブの喫茶店には事故後1年の秋風が事故など素知らぬ様に通り抜けた。

フリーライターとラトブの中を一回りウィンドショッピングしていると、彼女が紙細工の日本の江戸時代を模写したミニチュアを見つけた。

工芸や美術に興味があって我を忘れてそれを見ている。そういうフリーライターを見ながら、何かを好きになれることはいい事だと瓢タンは思った。

叔母からしつこく早く結婚しなさいと進められている。30歳近くなるにつれて叔母の催促がうるさい。未婚の瓢タンにとって女性との生活は疑問のひとつだ。家族を持った時に女はどう変わるのか?疑問の答えが、好きなものがあって、それを好きと素直に言えることは変わらないだろうと思った。瓢タンは生活を共にする相手には、本人として変わらない何かを求めていた。好きなものというのは一生変わらない。


(2)ロシアンルーレット

翌日事務所にいると無骨伝の佐木っつあんが電話でつぶやくように言った。

佐木っつあん「あいつが死んだ?・・・う~~ん、信じられないなあ」そして瓢タンに向いて言った。

佐木っつあん「おい、瓢タンよ、放射線てのはどういう影響があるんだ、人によって違うのか?」

瓢タン「どうしたんですか?急にそんなこと言われても・・・」

佐木っつあん「実はな、鹿山の2号機JVでやってた知り合いが地元に帰って、先日、突然死んだんだよ」

瓢タン「ここの復旧作業なら被ばく線量は厚労省の決めた範囲内ですし、始めてまだ1年くらいですから、特に放射線の因果関係はないと思いますよ。」

佐木っつあん「そうは言ってもなあ、あいつは鉄人レースにも出るくらいの奴でなあ・・・。でも因果関係はないとはいうもののロシアンルーレットみたいなものだろ?」

瓢タン「ロシアンルーレット?誰が影響受けるかわからんということですか?まあリスクが0ではないですから、個人差があるという点ではそうなります。通常統計では最終的に50%の発癌リスクで致死癌リスクは26%です。5年に100mSvの許容線量内の被ばくだとそれに対して0.5%の追加リスクですから、統計上の誤差範囲というか、それを許容できるかどうかですね。国は許容範囲と言ってますが。要は、1%以内の違いはなんとも言えないということでしょう。」

厚労省の指導でも、電力が開催している作業員のAB教育でも、低線量被ばくの晩発性致死癌は確率的影響を受けるものとしてLNT仮説を採用しており閾値は無いと教育している。防護上は閾値は無いので、ALARA(as low as reasonably achievable:合理的に可能な限り被ばくを低減する)に沿って被ばくをなるべく避けるように作業計画を立てる。と教えている。

防護上は閾値はないが、原発事故が起きてからは突然に閾値があって年間20mSv以内は影響ないと、と政府は言い出す。実際には累積100mSv以内は影響ないので避難区域は年間20mSvで帰還できるとか、閾値を定めている。しかしそれでは生涯の累積では100mSv超えるのではないかと疑問が残る。なので除染してその区域で生活する限りは問題ないとして帰還を許可している。

しかし市民には理解しにくいので可能な限り被ばくを避けるために子供は帰還させないのが現実だ。ロシアンルーレットが自分の子供に命中するより、帰還しないで被ばくを避ければそのリスクはない。市民は直感でALARAの理屈に沿って行動しているのだ。

放射線作業従事者は18歳以上なので、一般公衆の18歳以上は放射線作業従事者と同じ扱いとするのはやぶさかではない。しかし一般公衆の18歳以下は年齢別放射線感受性も考慮して放射線作業従事者の1/2の10mSvとかに区別すれば市民は理解できるだろう。

おしなべて年間20mSvを帰還できる基準にするから子供を持つ親は放射線感受性など直感して被災地に帰還しないのだろう。

事故後二年目の年末になると瓢タンが免震棟休憩所でたまに顔を合わせていた青年社長が東京に帰って突然死んだ。白いスーツでスポーツカーに颯爽と乗り回している若社長だった。

彼は3号JVの協力企業の中では最有力な電気工事会社の御曹司であり青年社長だった。どこから見ても健康優良児だった。

建設業の年間死亡率は千人に1人と言われている。原発復旧作業には一日6000人働いている。交代もあるから実質では年間では1万人くらいになるだろう。そうすると年間10人が死んでもおかしくない。しかしその二人とも若くて健康優良児だったとは・・・。

瓢タンの親類でも60歳になる直前で、年金支給前に若死にした叔母がいる。原因は感染症からの機能不全と聞いている。

同級生にも30前後で若死にした人はいる。

瓢タンは放射性セシウムと心筋系の影響も調べてみたが確証はなかった。だいいち彼ら二人はほとんど内部被ばくしていない。そして外部被ばくも上限値以内だった。

東京のコンビニで、2011年4月に母親がナチュラルウォーターを買い占めた。水道水にセシウムやヨウ素などの分析データが発表されれば、それが許容値以下であっても、子供を守る母親にとって子供のリスクは0にしたいのだ。リスクは避けられれば避けるというのが放射線防護の原則に沿って直感的に母親は行動したことになる。東京の水道水を避ければ当該リスクは0である。

有害化学物質にも感受性がある。幼児、子供と大人ではその量が異なる。麻酔でも子供の麻酔量と大人では異なる。

そんな風に考えていると、さらに訃報が飛び込んできた。3号機復旧工事で最初に高線量エリアの測定業務を率先してやってくれた東海さんが、所属のゼネコンに戻り、その後定年を迎え、飲み会のあとにタクシーの中で突然死したということだった。

続けて周りにいた人たちが3人も亡くなったので瓢タンももしかしてセシウムが取り込まれたのか?と不安になったが、記録を見ればわかるように外部被ばく線量も内部被ばく特段多くはない。むしろ少ない方だった。

厚労省の教育資料のとおり、閾値はないのだからLNT仮説により晩発生致死癌の確率は0%ではない。100mSv以下での致死性癌因果関係があるとは証明できない。かと言って因果関係が無いと証明されてもいない。要は日常のいろんな因子があって放射線に依るのかどうか区別できないということだ。

その場合、放射線の影響はない、と断定するよりも、LNT仮説でリスクを計算することが科学的態度だろう。計算したリスクは個々人を取り巻く日常のリスクとの比較で判断できる。

そうは言っても政府としては原発事故後の復興をしなければいけないので、防護上の年間1mSv基準は通常のときの基準として、帰還基準は放射線作業従事者と同じ年間20mSvが採用された。

そこに年齢別の基準を区別していないので放射線感受性を無視していることになり、子供を持つ市民には無視されることになる。

2011年10月には福島県の子供たちへの甲状腺癌の調査が始まった。放射線作業従事者に対しては厚労省では労災認定基準は被ばく線量100mSv以上(白血病5mSv×従事年数)。疫学統計では致死癌確率であって、単なる癌発生の統計はない。甲状腺の場合、癌になっても一生涯症状が出ない場合のほうが多い。

しかしいったん診断されれば指摘された方は不安になる。それを医療側が、その専門知識を持って「これは経過を観察しましょう。」と説明して、その後の経過により「症状が出ていないから問題ないです」と見守ってくれればいいが。

癌症状があると生命保険の扱いはどうなるか。就職の扱いはどうなるか。行政での指導支援も必要だ。

要は、1Sv5%の将来致死性癌確率を前提にして単純に被ばく線量を比例計算で確率リスクを計算すればよい。しかしそれは単なるリスク数値であって、それを個々人でどう評価判断するかは、個々人の日常のリスクと照らし合わせて判断する。100歳の人は年間死亡率50%だが10歳のそれは1/10万であり、個々の日常リスク自体が何万倍も異なるからだ。

しかし現実に晩発性癌が発生した場合、その原因が放射線かどうかは科学的に証明できない。因果関係があるとも無いとも、証明はできないのである。したがって、これまでの統計を元に労災被ばく量基準を決めて、当人の健康状態の変化や日常の生活習慣リスクと比較評価し、妥当かどうか判断するのである。

児童の場合は労災基準はないが、事業所境界1mSv/年、を定めている。年間1mSvは、致死癌リスクで言えば0.05%で、1万人に1人の確率だが、そもそも10歳児童では死亡リスクが1/10万であり、1mSvでも無視はできないことになる。しかしもともと日常の被ばくが年間2~3mSvであり、政府は1mSvは変動の範囲として国民に許容されると考えている。



【43】なんちゃってWBCホールボディカウンタ

WBCとはホールボディカウンタ、内部被ばくを測定する装置である。1Fへの発着基地であるJヴィレッジには数台設置されている。3号機建屋復旧の作業員や職員たちは月に一回測定することになっている。全面マスクをつけていても粉じん除去率は99.97%くらいであり若干は内部に取り込まれる。

作業の中で特に粉じんの舞いやすい作業は放射性瓦礫から舞う粉塵の吸引作業だがその際は最大で6000cpmまで達した作業員もいる。許容値は20,000cpmだ。それを超えたら精密検査する。つまりそれだけ体内にセシウムが吸入されても放射線の影響は無視できますよということ。

作業員の中ではオシッコするとセシウムが出て行くという噂が都合よく広まった。都合よくとは、作業が終わってビール飲めば体内循環が促進されて体内のセシウムが排出されるということで、作業後のビール飲み会の理由にしたいから都合よくということだ。

たしかにセシウムはカリウムと同じような挙動を示すからカリウム摂取を怠らずに体内循環が良ければそれだけ体外に排出される。

「きょうは5000cpm超えたよ、よし、みんなでビアガーデン行こうか」

工事長が言うと担当者たちはみんなそれについていった。目的は体内循環の理屈よりビールだ。

ただし事故後2年の間は市場食品からセシウム摂取する可能性もなくはない。瓢タンも茨城県産の甘栗を買ってそれを食べたとき、すかさず翌日WBCを測定して前回より800cpm上昇したことを覚えている。甘栗は瓢タンの好物で1袋5人分を一人で食べた。1人前だけ食べていれば800÷5=160cpmであり、誤差の範囲だったかもしれないが、セシウムが混入していることは事実だった。

WBCの数値は個人の前回との比較であって他者との比較ではない。装置はJヴィレッジの屋外テントのBGの多いところで測定しているがBG数値は差し引かれている。

体重が多く脂肪分の多い人ほど自分の肉で放射線を遮蔽しているので少ない数値がでてくる。小さい人で痩せているほど身体の遮へいがすくないので逆に放射線は多い数値がでる。

そういう理屈を考えて、瓢タンは体重で予想できた。

「佐木っつあんさんは1500くらいでしょ。」

「お?なんでわかった?」

「自分も佐木っつあんさんも現場作業していないので基本はセシウムはほとんどないですよ。そうなると体で内部からの放射線をどのくらい遮へいしたかに依りますので自分が2000なんで体重から割り出すとそうなります」

そうやって受ける人の数値を予想して、それが当たると、みんなBGとWBCの理屈を理解しやすいのだった。科学的とは予想が当たることを言う。

自民党幹事長の大島議員が現場視察でやってきたとき、WBCの座席に座ったまま1分経っても出てこない。WBCは見かけは町中にある証明写真機械と似ている。

「どうしたんですかあ?」

と問いかけると、大島議員は座席正面の液晶画面を睨んで見たまま固まっている。そこには残り時間が表示される。1分経つと「異常ありません」と表示される。

「もう顔写真は終わったのか?」

と大島議員は言った。

そこで説明員が言った。

「は?顔写真はとりませんよ。1分経ったら終わりです。」

すると大島議員は言った。

「な~~んだ、証明写真はとらないのか」

 たしかに、WBC装置の外観は街にある証明写真の機械と似ている。

 福島原発の作業員は全国からやってくるが、誰でもまず最初に、汚染現場で作業する前にWBCで測定する。だから福島に来るまでの地元での内部被ばくが測定できる。

そして2011年7月でもヨウ素がカウントされた人もいる。柏から来た人だった。当時柏の市民ではガラスバッジを付けて被ばく測定している市民が多くいた。水素爆発時の放射性プルームは最初に原発北西の伊達方面に飛散して、次は南下して柏方面に飛散した。新宿でもヨウ素の測定ができた。東京の水道水でもヨウ素は検出された。

ヨウ素の半減期は8日だから、事故から3か月も経てヨウ素がカウントされること自体が珍しい事で、逆算するとかなりの甲状腺被ばくをしていたことになる。

2011年~7月までに全国から来た作業員のWBCの内部被ばく記録を調査すれば事故時の全国の放射能飛散の状況がわかることになる。



【44】俺は建築家、コンクリート床の除染屋ではない

事故から3年もすると3号機建屋の竜骨のような骨組みもほとんど撤去された。撤去した瓦礫はいったんは所定の場所に積上げてそれを夜間に原発構内北側の山の中の集積場へ捨てに行く。所定の場所では1Sv/hを超える瓦礫もたくさんあった。

そんな単純な繰り返しを3年もくりかえしていた。単純と言っても重機の扱いは常に危険を伴う。1Fでは吊り上げた重量物の落下によってすでに両足切断の重症もあり、近くでゼネコンが高いところから鉄骨を落下させて、それが別の作業者に当たってその作業者が後日死亡することもあった。タンクのてっぺんから四角い蓋と共に落下して即死したゼネコン職員もいた。バキュームタンクの扉に頭を挟んで即死した事故もあった。2mの穴を掘っていて土砂に埋まって即死した事故もあった。

そろそろ3号オペフロ上が平らになったきたころ、撤去するためにタービン建屋屋上に設置した仮の鉄鋼架台を片づけた。その鉄鋼架台は道路脇に積み重ねたが、瓢タンがそこを通過すると線量率計の針がなんとなく微妙に振れる。

なんかへんだと思って片づけ残っている鉄鋼を見るとその上に小石がある。拳くらいの大きさの小石が点々と鉄鋼の上に転がっていた。そこへ目を近づけて線量率計を当てると100mSv/hだった。

瓢タンは、こりゃいかん、と思った。なぜならその鉄鋼の大部分はすでに低線量と置き場の5号脇エリアに移動してしまったのだ。すぐさま5号脇エリアを測定しに行ったところ、案の定、そのエリアの地表線量率はもとの線量率の2倍も上昇していた。

作業員を数名手配してそのエリアの掃除を行い、粉じんや小石や砂利をビニール袋に収納したところその砂、小石、砂利を集めたビニール袋の表面で20mSv/hもあった。瓦礫除去で3年、これでひと段落かと思いきや、さらに続くオペフロコンクリート上の削り作業が延々と続くことになるのだった。

原子炉建屋オペフロ階のコンクリート上の床削り作業の装置はコーヒー園の延長がJヴィレッジにて着々と準備していた。

しかし装置は海外仕立てであり、メンテナンスなど思うようにはいかなかった。担当の工事長はしびれを切らせて他の建築工事に移ってしまった。

「俺は床掃除のために建設会社に入社したんじゃない。これ以上床掃除に時間を費やしたくない。実地作業はだれか交代してくれ」と言い残して去っていった。

 福島原発の瓦礫撤去の作業ではキャリアを積むことはできない。だからキャリアを積みたい中堅では定着しない。


【45】鬼の寝ている間に

免震棟に続く事務棟の一室を遠隔操作室にして、液晶パネルを10台ほど並べてある。そこには、クレーンに取り付けたカメラや、定位置に備え付けたカメラからの映像が送られてくる。そして3号機のオペフロ瓦礫撤去の遠隔操作全貌が映し出される。オペフロやそこにある燃料プールや、周辺の作業エリアなど。

作業員はタイベックスーツの背中にマジックで名前を書いておくので区別ができるから遠隔でも音声で指示できる。

オペフロ上の瓦礫をつまんでは地上に下ろす作業を3年間毎日のようにやってきた。3号JVの監視役は画面を見るだけの役目。それに対して電力会社の監視役も画面見るだけの役目。遠隔操作と指示役と、記録係とJVの監視役と電力会社の監視と。

画面見るだけの監視役は初めは瞬きもせずに睨んでいるが、毎日同じことやっていると瞼が閉じてくる。居眠りをいかに抑えるかが肝心だ。

電力会社の監視役が居眠りしているときは、元請けもその下請けも、寝ててもわかりゃしない、そんなときが唯一安心して眠れる瞬間だった。

燃料プールの瓦礫撤去中に20センチ以上の石を落すとメディアに通知しなければいけないというルールがあった。

過去に鉄骨が落ちて報道陣やTVニュースで大騒ぎになって以来、燃料プールの瓦礫落下には電力会社が注視監視するようになった。

そんな状況で操作者が「あっ」と声をだした。

3号JV監視役は居眠りから覚めて画面を見たがなにもなく、ただプールの波紋しか映っていない。その波紋は瓦礫の石が落ちたことを物語っていた。

3号JV監視役「え?なにかあったの?」

操作者「いま石が・・・」

3号JV監視役「えええ!そりゃたいへんだ、電力会社に報告しなきゃ」と言って隣を見たら電力会社の担当が居眠りしている。

「ま、いいか」といってそのまま報告なしに作業継続することにした。

燃料プールの水面には風も吹いていないのに波紋が漂っていた。電力会社の監視役は皆寝ていてそれに気が付く者はいなかった。

波紋はやがて静かに収まって水面は鏡のように元に戻った。

一方地上の瓦礫置き場では降ろした瓦礫の線量率測定が行われていた。

電力会社の監視役が目を覚ましたころ地上の測定班から無線で報告があった。

測定者「線量率の報告をします。1Sv/hあります。」

電力社員「もういちど正確に測定してください。」

測定者「あ、間違えました。950mSv/hです。」

電力社員「わかりました」

 1Sv/h以上の場合は、もう一度見直すことにして、再度報告する。

なぜなら線量率が1Sv/hを超えると関係各社に通報がルールになっている。通報すれば報道することになり、説明会やなんやかやで面倒くさい。そこで1Sv/hを超えないように、つまり報道関係への説明をしなくてすむように、あ、うんの呼吸で暗黙のルールを決めていた。



【46】無骨伝 違法な鮭漁

(1)武闘派が鮭に遊ばれる

瓢タンはいわきの小さなホテルから大きなホテルに移った。小さなホテルの毎日朝カレーはもう飽きてきたころだった。朝は毎日バイキングに変わった。

大きなホテルは原発事故による避難者への応援としてTV報道取材やタレントらのボランティアのための宿泊が入れ代わるようにやってきた。舞台上やTV番組などで見るタレントとは違って、朝ビュッフェで隣り合って見るとバラエティタレントとはいっても往年は舞台でショーを見せた人たちで、いまはバラエティと言ってもさすがタレントだけあって、普段の日常の節制と同時に身体を鍛えていることもわかった。

ホテルの地下にはバーがあってライブも可能だったので、渡辺貞夫や日野皓正なども大震災応援のための演奏活動もあった。

いわき市が催す街中コンサートというのがあって、初年度に瓢タンが立ち寄ってみると駅前タクシーロータリーで八神純子が歌っていた。彼女は30分歌い続けたが、一曲歌う度に通りかかりの人は立ち止まり、また近所の市民が集まってきて、黒山の人だかりになり、取り囲むビルの窓からは人の頭が出てきて、駅に通じる歩道橋まで人が動けないほど超過密になった。

八神純子の二度目の街中コンサート出演があるので瓢タンは30分前からタクシーロータリーの会場の席取りをしていた。すると八神純子の前の出演は地元のおやじエレキバンドだった。

瓢タンはエレキバンドには早く終わって八神純子が出てきてほしかったが、おやじバンドは思わぬ観客の多さに興奮してハッスルしまくっていた。おやじバンドが飛び上がってカッコつけてエレキギター鳴らすたびに早く終わってくれと願うのだった。心の中でつぶやいた、いま集まっている観客はおやじバンドを聞きたいのではなく、次の八神純子なんだよ、と。

八神純子の野外ライブは観客を駅前では吸収できないため、3年目は楢葉町公民館でNHK放映で行った。入場は無料で満員盛況だった。

そうやって大きなホテルの生活も終わり、3年目の冬に瓢タンはいわき駅近くのホテルから鹿山建設が借り入れたアパートに移った。

初冬のある日、事務所には安全管理担当の65歳になる佐木っつあんさんとやはり65歳の避難者でもあるちょび髭のオイちゃんさんがいた。どちらも無骨伝説を残したが、佐木っつあんさんが柔道空手など合わせて武道八段、ちょび髭のオイちゃんさんは若いころキックボクシングをやっていて、当時は無敗伝説の沢村選手の試合チケット販売で稼いでいた。

その二人が事務所裏の好間川にサケが遡上するので、生け捕りに行った。好間川は夏井川の支流で、瓢タンの故郷の大利地区に源流をもつ。事務所の裏の好間川は叶田団地裏を流れており、そのさらに山ひとつ超えたあたりでは好間渓流といわれるほどの源流がある。

鮭の生け捕りにちょび髭のオイちゃんさんを誘ったのは埼玉から来た佐木っつあんさんだ。ちょび髭のオイちゃんさんはもともと警戒区域の富岡にいたから鮭はめずらしくはない。

昼休みに好間川を見てきて、佐木っつあんが言った。

佐木っつあん「なあ、ちょび髭のオイちゃんさんや、川には鮭がうようよしているぞよ。捕まえに行こうではないか」

ちょび髭のオイちゃん「なにで捕まえるの?」

佐木っつあん「二人でハンマーもっていけばいいじゃろ」

ちょび髭のオイちゃん「・・・鮭にハンマーってのは見たことないなあ」

佐木っつあん「ま、行ってみなけりゃわからんだろうから、とにかく行ってやってみよう」

二人はハンマーを携えて川へ行った。浅瀬には鮭が半分背びれをだしてはしゃいぐように群れていた。そして武道八段とキックボクサーが浅瀬を走り回った。

「おい、そっちいったぞ。」

「ありゃ逃げた」

一度走り出すと、止まらない。そっちへ逃げた、あっちへ逃げたとやっているうちに時間ばかり経過した。

とうとう昼休みの時間が過ぎたが、結局捕まえることができなかった。

瓢タンが事務所にいると、二人は敗戦の将らしく疲れた顔つきで帰ってきた。

そもそも川で鮭を捕まえると、いや捕まえようとするだけで違法行為になる。

しかし原発事故以来、鮭漁も閉鎖しているし、セシウムで汚染した鮭というイメージがあるので、警察も取り締まりなどしない。

事故前は浜通りの河口で鮭釣りをする市民が警察に追いかけられる光景は日常だったらしい。

 うまく警察に見つからずに家に持ち帰ったと思ったら、警察官が訪ねてきた。

「あの~、河口で鮭の捕獲は違法ですよ」

「いえ、私はやってませんが」

すると警官は言った。

「でもね、いくらがこぼれて点々としてまして、それをたどってきたらここまで来たんですけど」


鮎釣りは違法ではないので1000円の漁業券を買う。

二人の失敗談を聞いて以来、瓢タンは、次の秋にはどうやったら捕まえられるか、密かに作戦を練った。


(2)真夜中の投網ハンター

 借り上げアパートに引っ越すとすぐの秋に、釣り具店で大きなタモ網と長靴を購入して、それを持って好間川で実行に移した。好間川はすぐ裏に流れている。 

10月中旬、鮭が好間川の浅瀬に背びれで水を弾きながらうようよと群れなして遡上してきたので、タモ網で掬えるだろうと思ったのだ。 

するとさんざんやってどうやら1尾網の中に入れたが、それは雄だった。雄では狙いのイクラが取れない。雄は捕まえやすいが雌は普通の魚とは違って90°捻ってヒラメのように泳ぐので、手網の下をくぐるから捕まえにくい。 

そして翌年、今度は投網をネットで購入して鮭を一網打尽にすればいいと思い計画変更をした。まずネットで2万円で投網を購入して、youtubeで投網の投げ方を検索して、アパートの部屋の中で投網の投げ方を練習した。 

一週間くらい練習してから川へ行ってさらに投げてみて練習だ。そうやって二週間くらいすると投網を円を描いて投げられるようになった。 

イクラを採るためには雄雌の見分けができなければいけない。ネットで見分け方を学習して、いざ実践に出かけてやってみると簡単に引っかかったが、それは雄だった。川面の群れを見ているだけでは雄雌はよくわからない。 

何回もやっているうちに雌の模様がわかるようになったが、雌は雄と違ってヒラメのように横向きになって逃げる。網の下を潜って逃げるのだった。  

だから投網の円の中心に雌がくるようになげなければいけない。 

10月中旬、アパートのすぐ近くの好間川の浅瀬にぴしゃぴしゃと鮭の群れがやってくると、早朝の4時頃まだ暗いうちにでかけて5時まで投網を投げる。帽子にヘッドランプを付けて暗い中でやる。一回投げたら鮭は警戒するので20分は近くに寄ってこない。20分じっと待って、鮭が近づいてくるまで辛抱する。そこがアウトドアスポーツっぽい。5回目の出撃でようやく雌をゲットしてイクラを採った。 

雌の中でも好間川まで遡上してきた鮭は捕まえたときはすでに産卵をすませているのが多い。やっと腹の膨らんだメスをゲットして、後尾にコンビニの袋をかぶせて、お腹を押すとまだ夜明けの暗い中でヘッドランプに照らされて黄金に煌めく鮭の尾のほうからコンビニ袋の中にイクラがこぼれてきた。 

茶碗一杯分のいくらを採取するとリリースした。全部取るとどんぶり一杯分くらいはあるが、賞味期限はそこから5日くらいなのでどんぶり一杯は要らない、というか自然と分け合う精神で少しいただく気持ちだ。 

事務所へ出勤に行くまでの1時間で醤油漬けを行った。アパートで1昼夜味付けしてから食べたが、川に遡上した鮭のイクラは表皮が硬かった。そこで一度50℃のお湯でさらっと湯がくと皮が柔らかくなった。そうやってそのシーズンに3回くらい茶碗一杯分の成果が出た。しかし投網2万円の元はとれない。 

雄の場合は、12月の頃、脂がなくなってやせたころ、そのままなら雄は川の中でほっちゃれといって自然死する寸前に、脂のない頃に捕まえて鮭とば(干し物)にする。 

雄は横に泳がないのですぐ投網にひっかかるが、上あごが突起していてその歯が網に絡まる。鮭の雄は1mくらいあり、身を360度反転させて逃げようとする様はまるで猛獣のようだ。捕まえて髄にナイフを入れるとクイーっと泣く。殺生は良い気がしない。漁業として大量に捕獲すれば罪悪感はないだろうし、鳴き声も効かないだろう。でも所詮人間は殺生して捕食して生き延びている。 

集団で大量捕獲するには罪悪感がないが一人でさばくとなると殺生の罪悪感がある。川で頭を切り離して、解体し冷蔵庫に入れて塩で洗い、水分を吸収し、さらにアパートのベランダで3週間干してやっと鮭トバができた。次の年からは雄の鮭トバで殺生するのはやめて雌のイクラだけをキャッチアンドリリースで捕獲しようと思った。

仏道では魚の殺生も嫌う。魚でも断末魔に泣き声出す。おそらく生物はみなそうかみしれない。植物でも。遺伝子の設計図は生命が生き延びるように仕組まれている。生を阻まれたときの叫びが人間の耳に聞こえないだけだろう。


【47】松阪さんの終の住処

松阪さんはまっちゃんと呼ばれている。63歳で兵庫から来ている。小柄でどっちかというと非力なほうで、現場の存在感が無い。作業には慣れているとは言えない。年下の現場長に怒られることが多い。

原発構外に鉄骨仮組のエリアで、雑草の草刈りをしていた。

草刈り機の扱いは繊細で、ぞんざいに扱うと止まってしまう。

「なんかい教えたらわかるの!」

「あ、どうもしいません」

 まっちゃんはそう言って草刈りを再開するが、しばらくするとまた草刈り機が止まってしまう。

「こら!まつ!いいかげんししろや!」

そうやって怒られながら草刈りを続けた。

 昼飯のときにまっちゃんは身の上をぽつぽつと話し出した。

「俺も若いころは事務所やってたんだが、仕事がなくてなあ。こんな作業したくはないけど・・・」

若いころは自分で現場作業所を営んでいた。その頃は社長だったから、そこに公務員の奥さんが嫁に来てくれた。

「事務所たたんでこっちに来た。嫁が離婚してくれっていうんで、こっちを終の棲家にしようと思って。・・・」

「嫁は公務員退職して年金でやっていける。・・・」

 そうか、嫁さんは公務員だから定年退職後は悠々自適なのか、まっちゃんがいないほうがいいんだな。

「最初は除染作業だった。他に行くところもないし・・・。」

しばらく3号の仕事してそれからまた同じ電力会社原発の他のエリアのJVへ移っていった。

 何年かしていわきの喫茶店ブレイクにモーニングを食べていると、隣に座った初老の身なりのスマートな男がしきりに瓢タンのほうを見る。

だれかなあ、知っている人だったかな、と瓢タンは思いつつ喫茶店ブレイクの分厚いトーストを食べていると数年前のフラッシュバックが蘇ってきた。

 瓢タンは思い出した。そして振り返って言った。

「あれ?まっちゃん?」

「や、ども」

「いまなにしてるの?」

「あいかわらず、土建の仕事」

 以前は嫁さんに捨てられたばかりで元気なかったが、なんだか、割と落ち着いたファッションで初老のスマートな老人に見える。


【48】いつものことだから問題なしです?

河東さんは作業中の誘導係専門だが、身体が震える癖を持っている。免震棟で休憩している間も手がちょっと震える。瓢タンは酒の飲みすぎかと思って、当日の現場作業に不安があるのでではないかと思った。

「あの~、職長さん。河東さんてアル中かなんかですか。手が震えているようですが安全作業は大丈夫ですか。」

瓢タンはぶしつけな表現とは思いながら、率直に質問した。あるいは過去に事故かなにかで後遺症を患っているのか。すると職長はためらわずに言った。

「ああ、彼はいつもあのとおりでして、いつも通り、だから問題なし、大丈夫です。」

瓢タンは狐につままれたような面持ちであったが、職長の言うことも一理あると思った。

確かに、いつも震えているのにいままで事故を起こさずやってきたのなら逆に、震えているのが普通であって、かえって安全かもしれない。現場の誘導任務は果たせるだろう。

 その後、現場に行って誘導員を見ると、遠くからでも河東さんであることが分かった。

 遠くから見て、いつも手が震えているのは河東さん以外にはいない。


【49】ちょび髭のオイちゃんさんの終の棲家

ちょび髭のオイちゃんは富岡から何回も避難して、いまはいわき市の仮設住宅に住んでいる。3号JV事務所の隣だ。

ある日、事務所の二階に上がろうとしたときいきなりその場に転げまわった。ちょうど通りかかった瓢タンが救急車を呼ぼうとしたがちょび髭のオイちゃんが言った。

「救急車はいらないんだ、隣の仮設住宅に家内がいるから電話して呼んでくれ」

瓢タンが電話すると救急車より早くやってきた。

ちょび髭のオイちゃんは息も途絶え途絶え言った。

「痛風なんだ、医者に言われてたんだよ、気をつけないといけないって」

そして奥さんの車に乗って運ばれていった。

ちょび髭のオイちゃんは、母親と奥さんと息子夫婦とその子供、計6人で仮設住宅にいる。電力会社との交渉についてクレームを抱えている。仮設住宅では飲み会でもぼやきはなくならない。

「なんせ電力会社は対応悪いっすからねえ。だからこないだ俺は怒ったよ。どうしてくれんだって。」

定期的に集会のある仮設住宅の座談会のような円卓集会でちょび髭のオイちゃんは大きな声で電力会社の批判を言った。まるで椅子から飛び上がるようにひとしきり言いたいことを言うと、隣にいた若者がうんうんとうなづいていたのでちょび髭のオイちゃんも調子にのってさらに続けた。

仕事では電力会社がお客さんだから言えない。補償金交渉では逆で、手続きが面倒で、いくら文句言っても手続き優先だ。ストレスは溜まる一方。

「ところであんたはどこの人?」となりの若者に尋ねた。

「すいません、ぼく電力会社で・・・」

「え?・・・あ、・・・そうなの?電力会社さんもほんとうに大変ですよねえ」

ちょび髭のオイちゃんは手のひらを反すようにすぐに話の方向を変えた。

交渉の結果は、原発避難なので一人につき月10万円もらえるそうで、家族合計で5年分の3千万円をもらった。

そして嫁さんの親の地元である仙台に土地買って引っ越した。

「あのなあ、家買うときのコツは別荘ってことにして、いまの住まいより小さければいいんだよ」

そう言って、避難民ではない瓢タンにとっては役に立てることのできない知識とコツを教えて仙台へ移住していった。


【50】クレバス

1F復旧が始まって以来最初の重症事故は1号機建屋カバー工事が終わった日の片づけ時の鋼鉄ロープの落下による複数人の重症事故だった。

ハインリッヒの法則では重大事故の陰には29件の軽微な事故が隠れており300件のヒヤリハットが隠されている。

その後、死亡事故が続けて発生した。

たった高さ2mの土木の穴掘り作業で土砂が崩れて、埋まって亡くなった事故。

タンクの上のメンテナンス用マンホールが四角形で、ヒンジも付いていなかったので開けたらその蓋とともに落下して亡くなった。円形の蓋なら落ちることはないが、なぜか四角形だった。蓋は40kgの重さがあった。落下した作業者は蓋が落ちないように咄嗟につかんだがバランスを崩して落下して亡くなった。なぜ蓋を放さなかったかというと、タンクの下に人がいたら、とっさに落とすまいとして蓋をつかんでしまったのだろう。

バキューム車の後ろの遠隔操作開口部蓋に顔を入れて中を覗いて確認していたら相方の運転手が点検終わったと勘違いして運転席側で蓋を閉める遠隔操作ボタン押してしまい、点検中の作業者が首を挟まれて亡くなった。

落ちた鉄骨が隣の作業件名の作業者に跳ね返って、当たった作業員が重体になり、その後病院で亡くなった。50歳くらいで家族があった。


現場の死は予告もなく、本人が意識する以前に瞬時の死が訪れる。

しかし死の数秒前にその死を意識すると人の脳裏では走馬灯のようにイメージが浮かんでくる。それを瓢タンは高校生の山岳部のときに知った。

春山ツアーで富士山でピッケルや、アイゼンの訓練体験を思い出す。富士山の頂上あたりでは寒さで斜面が凍っていた。日当たりではザラメ雪でグリセード訓練ができたが、特に日陰はピッケルやアイゼンが聞かないくらいだった。日当たりの良い場所を探しながら登りは着実に頂上までたどり着いた。

 しかし下山になってグリセード訓練をしていたとき、すこし疲れていたせいか、楽に滑ろうと思って腰を斜面につけて滑るように降りた。初めの十メートルくらいはピッケルもアイゼンも良く効いてグリセードができた。

しかし日の当たらない場所に入ってしまって、氷の方が固くて制動ができなかった。止めようとしたときはもう遅かった。

 遅かったと思った途端に急速度でまるで奈落の底に落下するように滑った。もうピッケルでは止まらない。アイゼンもうまく氷壁に刺さらない。

 その数秒の間に死を意識し、観念した。もう駄目だ、と思った時、幼い頃が走馬灯で浮かんできた。そして「おかあさん」と脳裏で叫んだ。

 本能で叫んだ瞬間に偶然、岩の突起にぶつかって体がふわっと宙に浮き、そして着地したときにアイゼンが氷壁に深く刺さった。体もちょうどピッケルが刺さるような角度で止まった。

 生きていたのは偶然だった。

3号機タービン建屋内で押し寄せた海水の渦巻きの中で亡くなった幼馴染の死について瓢タンはその母親の言葉が忘れられない。

「あの子は死んでないんです。電話していたらガーガというあの子の声がしました。私だけではないんですよ。電話の相手もそれを聞いているんです。」

「ガーガって、それは電話のノイズでは?」

「いえ、あの子は小さいころから私をガーガと呼ぶんです、いまでもそう呼ぶんです。だから電話の声もあの子の声です。」

 ガーガの呼び声はいまでもどこかで木霊しているだろうか。


瓢タンが出勤途中に好間川の堤防の上を、自転車を漕ぎながら、そんな事に思いを巡らせているとき、南舘課長から電話があった。

南舘課長は原発事故以後に60歳になって本社から福島現場にやってきた。原発現場にはまだ行っていないが、福島のJV事務所に来た直後から腰が痛いと口癖だった。腰痛は誰しも経験するものなので、やがて治るだろうと周囲のみんなは思っていた。しかし寝ているときも痛くて何回も寝返りするし、なかなか治らないというので、皆は精密検査を勧めた。もしかしたら内蔵疾患ではないかと心配したからだ。

佐木っつあんはホテル住まいで、南舘課長とは部屋が隣だった。

「南舘さんよ、あんた寝ているときに何回も寝返りしているようだが、腰痛ではないかもしれんぞ。」

 腰痛の寝返りはするが普通は隣室にまでは響かない。


検査の結果はすい臓がんだった。しかも末期的状態だった。そしてすぐ東京で入院した。

電話は病室からだった。

「もしもし、おはよう、瓢タンさんかい?」

「あれ?南舘課長ですか?どうしました?いま出勤途中で好間川を走ってます。自転車なんでちょっと止めます。」

瓢タンは自転車のペダルを止めた。

すると南舘課長は言った。

「健康が大事だよ。なにより健康が一番。それがいいたいだけ。」

 いったい朝からどうしたんだろうか、と思いながら、また自転車を漕いだ。

 するとその三日後に南舘さんの訃報が届いた。


職場での癌と言えば、原発事故前の職場では、課長が健康診断で癌が見つかった。胃がんの早期発見だったので手術で治ると思われていた。それで本人は酒を止めなかった。次の健診では癌は末期的状況でリンパにも転移した。そして入院後に脳にも転移した。本人から部長に電話があった。瓢タンはそれを机に向かいながら聞いていた。

「よう、どうだ、具合の方は」

と部長の声が聞こえた。

 電話が終わったので、瓢タンは部長に聞いた。

「どうしたんですか、回復しそうなんですか?」

すると部長は言った。

「いや~、癌が脳に移転して激痛らしい。それでじっとしていられないんだって、電話で紛らわしたかったて言ってた。」

 それから数日して訃報が届いた。

 原発復旧作業数か月後、下請け電気工事会社の若社長は、2011年12月に東京に帰った途端に急死した。

 初めて高線量を測定しに行った東海さんは打ち上げ飲み会のあとにタクシーの中で亡くなった。

 原発復旧をしていた別の工事部の部長は自宅へ帰って屋根の修理をしているときに滑って落下して亡くなった。

 

 原発前の職場では酒とたばこで肺がんになりまだ働き盛りの50前後で亡くなった課長もいた。しかし原因が酒かタバコかはわからない。

そうかと思うと酒もたばこもしないのに若くして癌で亡くなる人もいる。

 瓢タンの叔母は60歳を目前にして感染症で突然亡くなった。年金は40年払ったので楽しみにしていたのに。


 瓢タンの自転車は朝、好間川の堤防を走っていた。

ペダルを漕ぎながら、人は誰しも氷河の上を歩いているようなものだと瓢タンは思った。足元の雪の下にクレバスがあるかどうか誰もわからない。一歩先の事は誰も予想できないまま歩いている。


好間川の堤防を左折して大通りに出るとホテル出発組の通勤バスとすれ違った。

自転車を降りてプレハブJV事務所に入ろうとすると所長から一言苦情をもらった。

「瓢タンよ、自転車で走りながら片手でハーモニカ吹いているのは安全上問題だよ。」

 次からはハーモニカホルダを使おうかな、と瓢タンは思った。

 それは問題以前の間違いで、自転車走行中にながら運転はいけない。それを所長は指摘していた。

しかし好間川堤防を口笛や鼻歌で自転車走らせるのは気持ちよかった。

 なおいわき市ではその後、大人でも自転車はヘルメット着用となった。それまでは子供だけ着用だったが、大人がお手本見せないでどうする?との批判があった。


1F原発復旧酔夢譚

【エピローグ】(1)なんちゃって重機

3号原子炉建屋オペフロの竜骨のような折れ曲がった鉄骨残骸を遠隔操作クレーンでひとつづつ切り取っては地上に降ろしていた。

ある朝、現場リーダ、下請け作業員が朝礼のために免震棟休憩所の打ち合わせ室に集まったとき、いきなり青成さんが、監督に変わって円卓の真ん中でしゃべりだした。

「きょうは作業中止です。大型クレーンのジブが折れました。今後の方策を決めてから改めて支持します。」

そう言って、みんなを連れて遠隔操作の画面を確認しに行った。すると確かに、まだ作業する以前に、あらかじめ倒してくの字になっているクレーンマストの真ん中が折れつつあった。

みんなで見ていると更に折れ曲がっていって、亀裂が見えた。

「きょう鉄骨吊り上げる前で、まだなにもしないうちに折れて良かったなあ。」

「もし瓦礫残骸を吊ってお降ろすときに折れたら、あと始末も大変だぞ、大事故になったかもしれない」

 取り合えず、電力会社は労基署に報告し、突然の大型クレーン事故ということで厚労省の判断を仰ぐことになった。

 作業員は地上の整備作業だけして昼前に原発を離れて宿舎に帰った。

すると昼過ぎに、クレーンのジブをそのままにしてはいけないから片付けろと電力会社からJVに指示があった。

 作業にはルールがある。8時間に追加できる残業は2時間だ。そして被ばく線量の上限は2mSvである。

 昼間で作業していたから、もう一度現場に集めても許される作業時間は4時間くらいしかない。

 被ばく線量は0.5mSv被ばくしているから残り1.5mSvしかない。

 それらの条件に見合う作業員を集めて現場に夕方に集合したのは6時過ぎだった。

「いまからやって時間オーバーしたらどうなるんですか」

 職長はJV監督に詰め寄った。

 厚労省指示だから問題にはならない、というのが電力会社の答えだった。

 実は大型クレーンは電力会社の持ち物で、JVはそれを使用している。折れ曲がったクレーンが報道などで移されると、電力会社の管理はどうなっているんだと言って報道陣が騒ぎだす。それで夕方暗いうちから片づけ始めて朝までにきれいに片づけようということだった。

 大型クレーンのマストが自然に切断するなんて前代未聞だ。吊り上げ中だったら大事故になっている。マストのせん断破壊や脆弱性をメンテナンスで見つけることはできないのか?

 ハインリッヒの法則では隠れた29の軽微な不安全があり、300のヒヤリハットが隠されている。


【エピローグ】(2)ホワイトアウトなんちゃって汚染

 瓢タンが防護服と全面マスクを装備して3号原子炉建屋前の道路で放射線測定をしていると、突然ゴ~ンという鐘の響きに似た音とともに目の前が真っ白になった。ホワイトアウトと同様前方の視界がまったく効かない。

 しかしすぐにまたいつもの世界が広がった。

 前方を見ると大型クレーンで原子炉オペフロから破壊された燃料取り出しクレーン鉄骨を吊り降ろしてきたところである。

 その鉄骨には粉塵が夥しく積もっていた。遠隔操作でも鉄骨に粉塵が積もっていることがはっきりわかった。

 それを作業員が現場に行って放棄で履いて除染するのは内部被ばくが避けられないだろうから放射線管理違反になる。現場の遠隔重機のユンボで鉄骨を叩いたら粉塵が落下するのではないか?そのあとに作業員がマニュアルで放棄で掃いたらいいのではないか、あるいはそのまま高線量瓦礫置き場に捨てておこうというのが協議した結果である。

 現場重機でガツーンと一発叩いたら、辺り一面がホワイトアウトで真っ白になった。

 現場は10M盤と呼ばれ海抜約10mのエリアだ。そこから大量の放射性粉塵が飛散した。飛散したダストは距離の拡散で空気中で見えなくなったが、まだらプルームとなって高台と呼ばれる30Mの高さへ移動した。

 プルームはまだらに漂いながら移動する。

 高台には免震棟休憩所がある。ちょうど鹿山建設の社員3人が休憩を終えて出口で帰りの構内シャトルバスを待っていた所だった。

 シャトルバスに乗って、入退管理棟へ行き、そこで最終の管理区域出口の放射線検査をする。

 すると3人とも汚染が発覚した。

「え?だって作業終えて免震棟検査所で汚染ない事を確認して、バスに乗っただけだよ」

3人は異口同音にいきさつを説明した。

「じゃ、バスの中で汚染したのか?」

 実は鹿山建設の他に同じ場所でバスを待っていた電力会社の社員も2人汚染した。

「う~~ん、これはちょっと困った」検査員はそう言った。

「とりあえず、原因はこれから究明するとして、汚染しているのは衣服ですからユニホームを脱いで、電力支給のジャージに着替えて帰ってください」

 原因はバスでもない。なぜなら他の乗客は汚染していない。

 すると鹿山建設3人と電力2人が立っていた場所に問題があるのではないか。

 そう言えば、夏の真っ盛りで、熱中症予防のために山から水を引いてミストを噴霧していた。

 ちょうど固まって立っていた5人が、ミストの放射能によって汚染したのか?いやミストは山から汚染していないことを確認して給水している。

 じゃ、配管に汚染が溜まってそれがたまたま5人に降りかかったか?

 5人は衣服汚染であり、衣服を交換したことで除染ができたことになり、大きな問題にはならなかった。

 なぜ?は最後まで疑問のままだったがミスト噴霧が中止になったことで報道陣も幕引きになった。

しかし瓢タンは知っていた、あの高線量粉塵のホワイトアウトを体験したのは瓢タンだけだった。そのプルームが風に飛ばされて、まだらに移動して、5人に降りかかったのだ。と。ゴーンの瞬間に飛散して移動したと思われる時間と5人がバス待ちで立っていた時間が一致していた。


1F原発復旧酔夢譚【エピローグ】(3)放射線

 原発事故から10年経って放射線被ばくの労災認定は白血病や甲状腺癌など10人になり、係争中が9件ある。そのうち一人は肺がんで死亡した。

 

放射線労災申請の認定は科学的証明によるものではない。被ばく線量基準と個々人の日常のリスクとの比較判断に依る。

逆に因果関係として放射線と無関係であることの科学的証明もない。

労災以外でも瓢タンの事務所では同じ放射線管理の同僚が10年後に癌を発症してその後死亡したが労災申請はしていない。

 現場のエレベータ点検保守会社では入れ替わり3人が作業にやってきたが、その3人ともが癌を発症したがこれも労災申請はしていない。


 東日本大震災から10年。震災による死者は二万人を超えたが、原発事故に依る避難者のうち震災後の原発避難関連死者数が止まらず2000人を超えた。


 福島県児童甲状腺癌の罹患率は他県と変わらないそうだが、その手術数は異常な数に達して、当時は児童だったが、10年を経て多数の若者が手術したことによる不利益を被っている。原発事故がなければこのようなこともなかったことは万人が認める事実であろう。逆に原発事故が災害による事故であるなら災害により不利益を被った被害者はまず救出や支援を受けなければいけないが、実際には直接原因が放射線なのか、検査方法にあるのか診断にあるのか、専門家たちの机上の議論が終わらない。

 今回の問題として甲状腺内部被ばくを実測しておらず、わからないという根本問題がある。従って原発稼働の必須条件として、地元自治体は避難者全員がWBCでセシウムとヨウ素の内部被ばく測定ができる設備を準備することが必要である。

 

ALPS処理水の放流は当初は費用比較でに現実的な予算として選択された方法だが、中国の反対に依る水産禁輸により、実害予算は予想をはるかに超えてしまった。世界で反対している国は中国であり、中国に同調する共産圏、イスラムや発展途上国である。

中国はすでに大気放出は賛成しており、今後の実害を計算するなら再度処理水解決の選択肢から大気放流やその他の選択肢を見直してみることも可能だろう。

それよりもまず大元のデブリ汚染水を止めることが優先される。それとも永遠に処理水放流を続けるのだろうか。


 水素爆発直後にもっとも危険だった原子炉建屋の使用済み燃料はオペフロの貯蔵プールが破壊されなかったことは幸運だった。そもそも当時ヘリコプターで散水したときに世界からは使用済み燃料が原子炉の上にあること自体がクレージーと非難された。

 10年経て核分裂崩壊熱は空冷でも可能なくらいに冷えたと思われるが、莫大な核分裂放射性物質を燃料棒に貯めているのでいち早く地上の共有プールに保管しなければいけない。

3号は鹿山建設JVによって7年余りに渡る地道な作業により使用済み燃料取り出しのドーム建設が完成して、その後メーカーT社により使用済み燃料は地上に移されたが、1号、2号はまだその途上である。

 過酷事故を想定せずに使用済み燃料を原子炉上に保管すると言う当時の安易な設計構造が現実に事故が起こってみると最も困難な事態に直面した。


 避難区域については帰還困難を解除されたが、野や山は除染しきれていない。大人は帰還するが子供の帰還率は低い。広島長崎の原爆では飛散した放射能の量は少なかったので10年で市街の復興されたが、原発事故では街の復興はまだまだ先の話である。


 事故後すぐに汚染土壌を避難区域の中間貯蔵に移したが、その際に期間を定めて、時期が来れば他県に移すことになった。しかし他県での受け入れは当該地域の市民に反対されている。汚染除去された除去土壌の基準値を新たに定めて、基準以下だから他県に移すことが法令上可能になったが、市民の安心の同意は得られていない。

 

 放射線、放射能がなければ原発復旧は10年で終わっている。終わりが見えないのはひとえに放射線、放射能が原因であり、現場での扱いの困難さが原発事故復旧の諸問題の根源とも言える。

その現場での放射線、放射能管理は学者の机上理論では解決ができない。あくまで現場作業管理の問題である。


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