教師近藤と調理実習

 近藤が担任を務めているクラスで、家庭科の時間に調理実習が行われるというときのことです。

 二十代後半で、家庭科を教えている女性教師の前原璃香子は、その前の回の授業で作業の手順の確認や注意すべき点などの話をしました。

 その際に、一人の真面目な男子生徒が彼女に次のような発言をしたのです。

「料理が完成したら、近藤先生を呼んで、一緒に食べてもらうようにしたほうがいいと思うのですが」

 それに対して璃香子は、少し考えてからこう返しました。

「気持ちはわかりますよ。けれど近藤先生はその時間に他にやることがあるかもしれません。もしそうなら、大丈夫か尋ねたとしても、気を遣って来ていただいて、ご迷惑をかける結果となるおそれがありますので、やめておきましょう」

 彼女はそれで収まると思いましたが、別の生徒たちも続けて声をあげました。

「えー、平気ですよ。呼んだほうがいいですって」

「絶対に呼ぶべきだよな」

「予定があっても、誘ったほうがいいんです」

 しかし、璃香子は彼らの意見を突っぱねました。

「あのねえ、調理実習は料理を作るのが目的なんだからね。食べるときのことをそんなに考えなくていいの。はい、その話はおしまい」

 実際のところは、そんなに気を遣ったりもしないだろうし、近藤に訊けば済むとわかっていました。けれども、この学校にやってきてまだ日が浅い璃香子は、どうも言動にふざけた感じが見受けられる近藤に良い印象を抱いていなかったのに加え、近藤を誘うよう主張した生徒たちが「呼んだほうがいい」と表した言い方からも、彼が好きだからぜひ自分たちの作った料理を食べてもらいたいというのではなく、誘わないと後でにらまれでもするのか、義務感に駆られてといった雰囲気だったので、あの男を参加させたくないと思い、そのような対応に終始したのでした。

 それから一週間が経って、調理実習の日を迎えました。メニューは親子丼で、トラブルなどもなく、皆順調に作ることができました。

 そして最後、食べる段になりました。親子丼が各自の前に置かれて全員席に着き、さあいただきましょうというジャストのタイミングで、誰かが部屋をノックしました。

「はい」

 璃香子が近寄ってドアを開けると、立っていたのはやはり彼、近藤でした。

 生徒たちは予測していましたが、璃香子は「なんでやってきたの? 生徒の誰かが教えちゃったのか? 嫌だな」と不快な気分に襲われながら、それを表には出さないようにして話しかけました。

「あら。何かご用ですか?」

「いやあ、今日の家庭科は調理実習だと小耳に挟んだものですから、生徒たちが料理する様子を、できたらちょっと拝見したいなと思いまして」

 そんなことを言う割に、時間的に調理は終わって、食べる頃なのは明らかです。

 この人、食い意地が相当張ってるんだ。だから生徒たちはあれほど呼ぶよう口を揃えたのね。それにしても、バレてないと思っているんだろうけど、それだけ食べることに執着があることに対して、自分を客観的に見てというのでも、恥ずかしさを感じたりしないのかしら?

 璃香子は軽蔑しましたが、やはりそういう気持ちであることはおくびにも出さず、冷静に続けました。

「そうでしたか。残念ながら調理はもう終了して、作ったのを食べるところでして。せめてご一緒にいかがですかと言いたいのですけれど、近藤先生のぶんまでは用意していなかったもので、申し訳ございません」

 彼女は頭を下げて、やんわり去っていくよう促しました。

 しかし、それで引き下がる近藤ではありません。

「もちろん、いきなりやってきて、人が苦労して作った料理を自分にもよこせなどと乱暴なことを申すつもりはございませんよ。本当はもっと早く来ようと思っていたのですが、やっていた作業に予想以上に時間がかかってしまいましてね。なので、足を運ぶのはやめにしようかとも思ったのですけれども、完全に手が空きましたし、せっかくですので生徒たちが頑張った結晶である品々を目に焼きつけたいのと、私は持参した弁当がありまして、それで構いませんから食す場に同席させてもらえないかなと思ったのです。ということで、可能であればお邪魔させていただきたいのですが、やはり駄目でしょうか?」

 本当は食べることしか頭にないという疑いはまったく消えはしなかったものの、ちゃんとした話の内容でしたし、非常に礼儀正しかったため、それでもなお近藤を受け入れなければ、問題になりかねない非礼となってしまうのは明白なので、璃香子は渋々言いました。

「わかりました。では、どうぞ」

「ありがとうございます」

 そうお礼を口にして、おじぎをしたまでは低姿勢だった近藤ですが、頭を上げると、「フフフ~ン」と軽い鼻歌交じりの、いかにもご機嫌といったくだけたノリへと態度を一変させて、家庭科室に足を踏み入れ、空いていた端の席に腰を下ろしました。

「よっこらせっと」

 そして、手に持ち布に包まれていた弁当のふたを開けたのですけれども、まずその器からして立派だったうえ、中身も、肉に魚、卵料理、野菜、果物、パン、スープなど、豊富な種類の食材のいずれもが見るからに高級で、それを三ツ星料理店のシェフが調理したように実においしそうに盛りつけられていたのです。

 近藤のそばにいるコを中心に「ワーッ!」とどよめく声が生徒じゅうに広がり、いったんは離れた璃香子が、急いでまた近藤のもとに向かいました。

「ちょっと、先生! 何ですか、その豪華なお弁当は!」

 責める感じの口調の璃香子に、近藤は目をパチクリさせながら答えました。

「え? いけませんか? 普段は限られた所持金を一円たりとも無駄に使わないようにしておりますので、ストレスをためないために、ときどきは欲しいものを好きなだけ食べることにしているのですが」

「今日がそのぜいたくをする日だとおっしゃるのであれば、ここに来るのは遠慮してくださればよかったんじゃありませんか? 非常識ですよ、生徒たちが親子丼を食べるなか、教師が一人そんな豪勢な食事をするなんて」

「いやあ、うちの生徒たちは人間ができておりますから大丈夫ですよ。なあ? みんな」

 近藤のかけた声に、生徒たちは空気を読んで、うなずいたり「はい」と返事をしたりしましたが、違和感はありありで、本音のうらやましいというのがにじみでていました。

「みんな、無理やり肯定しているじゃないですか! ほんとに無神経ですよ!」

 璃香子の語気はさらに強くなりました。

「まあまあ、そうカッカなさらないで。仕事が忙しくて、お疲れなんじゃありませんか? 一口どうです? 食べれば気が休まるかもしれませんよ。はい、あーん」

 近藤はフォークに刺したローストビーフを璃香子の目の前に持っていきました。

「いりません!」

 璃香子はプイッと顔を横に向けました。

「そうおっしゃらずに。ほうらっ」

 近藤は肉を璃香子の口に強引に入れました。

「ちょっ……むがっ」

 璃香子は、よけながらも口に運ばれてしまい、吐きだすわけにもいかず味わったその肉のあまりのおいしさに、心の中でこう叫んでいました。

 なあに、これ。こんなものがこの世の中に存在していたの? 夢みたいに、おいすぃー!

 そうして、まるで天国にでもいるかのようなうっとりとした表情になりました。

 少ししてはっと我に返りましたが、駄目でした。生徒たちはシラーっと思いきり冷めた顔で彼女を見つめていたのです。

 それからというもの、璃香子は近藤に刃向かう行動は一切しなくなったのでした。

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