深緑の瞳
冬瀬
深緑の瞳
「謀反を企てた罪により、そなたを処分する」
そう宣言する家臣の背後には、冷たい瞳でこちらをじっと見る者があった。
これが先日即位したばかりの皇帝だろう。皇帝が社殿に来る用事などないだろうに。
知りもしない皇帝への謀反を企てるほど、成し遂げたいものがわたしの中にあるはずもないのに。
決して広くはない社殿の中で、米姫はずっとひとりきりだった。先代の米姫が亡くなってもうすぐ6年になる。側仕えのものはいるが、最低限の会話しかない。衣や湯殿の支度が整ったときや食事を運んでくるとき、そして祈りを依頼する者が社殿を訪れたときくらいだ。
この社殿で米姫は巫女として、神に祈りを捧げ続けている。東で雨が降らないと聞けば雨乞いの祈りを。北で疫病が流行っていると聞けば鎮静の祈りを。赤子の頃にこの社殿に連れて来られた米姫には、国の東も北もわからない。絵巻物でしか知らない場所のために、そこに住む民のために祈り続けている。
先代米姫と側仕えの志乃、そして祈りの内容を伝えに来る清次にしか会ったことがない。米姫にとって、見知らぬ「民」のために祈ることもまた、当たり前の日常だった。
日課となっている朝の祈りを終え、神棚の前から立ち上がろうとしたとき、社殿の外から玉砂利を踏む音がした。いつも祈りの内容を伝えにくる清次ではない音が近づく。社殿の入口には御簾がたらしてあり、清次からの依頼はいつも御簾越しに聞いていた。ところが今訪れた者は、いきなり御簾を開けて社殿の中に踏み入れようとしてきた。一瞬だけ御簾がめくれ、夏の眩しい日差しが社殿へと射し込んだその瞬間「おやめください」と制する、志乃の鋭い声が御簾の外から聞こえた。
「うるさい! 米姫に祈ってもらうためだけに来ただけだ! 放せ、無礼者!」「ですが米姫さまの祈りは清次さまへお伝え頂かないと」と言い争う声が続いたので、御簾越しに声をかけた。
「おぬし、何用じゃ?」
そう声をかけると、言い争う声が瞬時に止んだ。
「米姫様にございますか?」
「左様。そなたは?」
「わけあって名乗ることはできません」
「ほう。名も名乗れない者の願いを聞けと申すのか」
「それは……」
そう言い淀み、少し間をおいてから「秀郷と申します」とか細い声で言った。
「偽りの名を伝えられても意味はない」と静かに伝えると、御簾越しに息を飲んだ気配がした。
「巫女さまの前で大変失礼いたしました。篤信様の家臣、兼平と申します」
「して、何用じゃ?」
兼平の願いは、篤信の兄である実義に厄災が訪れるよう祈って欲しい、というものだった。実義はこの国の繁栄に影を落とす存在であるから、と。「承知した」と返すと「誠にございますか?」と驚いた声で聞き返し「それでは、おたの申します」と、言い終わるか終わらないかで立ち上がり、玉砂利の上を駆けて去る音がした。
厄災が降りかかるように。そんな依頼は今まで受けたことがなかった。それでは祈りの準備をするか、と神棚に向かおうとしたところ、志乃がためらいながらも思いつめたように呼び止めてきた。
「姫さま、本当に今の願いを聞きとどけるおつもりですか?」そう聞きながら眉根を寄せる瞳には不安が浮かんでいる。祈る内容について志乃がこのように口を挟むことは今までなかった。
「なぜだ? 国にとって思わしくない者ならば、排された方が良いのであろう?」と聞き返すと志乃は戸惑いながら、何かを思案するように瞳をさまよわせたかと思うと、遠慮がちに口を開いた。
「姫さま。姫さまの祈りは、この国の未来(さき)へ影響を及ぼすだけの力がございます。ですから、先ほどのような突然現れた者の願いを聞き入れることは危険にございます。先ほどの者が主人とする篤信さまも、厄災が訪れるよう願われた実義さまも、お世継ぎとして名のあがっている方々です。継承順位としては実義さまが上ですので、その失脚を篤信様側の家臣が願ったのでしょう。この度の願い、聞き入れては姫さまの身に危険が及ぶかもしれません。宮中の動向を探りますので、祈りを少しお待ち頂けませんでしょうか?」
話しはじめたときにはためらいを感じた口調が、徐々に確信を帯びたようにはっきりと変わる。珍しくしっかりと目をみて話す志乃の真剣さに負け、米姫は「わかった」と返事をした。
「しかしなぜじゃ? 今まで清次からの依頼は断ったことがないのに」
そう言うと志乃は少し困ったように笑い「姫さまにとっては等しく祈りの依頼なんですね」と言った。その意味がわからず、しかし心に引っかかりを持ったまま数日を過ごした。その間、とくに新たな依頼はなく、平常どおり国の繁栄と安定を祈り続けた。志乃からは、先日の依頼の祈りは行わない方が良さそうだ、と報告を受け、祈ることもなかった。
いつもと変わらぬ朝に、着替えていると社殿の庭から複数の人間が玉砂利を踏む音が聞こえてきた。志乃が慌てて入口へ向かうと、先に外から勢いよく御簾があけ放たれた。
「米姫、謀反を企てた罪により、そなたを処分する!」
静かな社殿に響き渡ったその声に振り返った瞬間、両脇に立った男たちに両の手をつかまれその場にひざまづくよう押し付けられた。髪を結わおうとしていたところだったため、振り乱したような姿だったが、おとなしく座り正面を見上げる。処分を宣言した者の後ろに、冷ややかな目でこちらを見つめる者があった。志乃も入口に向かった途中に膝をつき、頭を下げている。
「謀反とはまた突拍子もない。どういうことじゃ?」
見上げながらそう言うと、先ほど処分を宣言した者がいまいましげに「実義さまへ厄災がふるよう祈ったであろう? 兼平が米姫に願ったと白状したぞ」と吐き捨てるように言った。
米姫にとってはもうとっくに過ぎたこととなっており、そういえばそんなこともあったな、と他人事のように思い出していた。
「祈っておらぬぞ?」そう言い放った米姫に、その場に踏み込んできた全員の視線が集中した。
「しかし兼平は米姫に願い、米姫はそれを承知したと……」
踏み込んできた者たちにとって、米姫の返答は予想外のことだったらしい。
「何を証拠に! 言い逃れできると思っているのか!」
語気を強める者とは裏腹に、米姫はそれまで冷ややかな視線を向けてきていた人物の目をじっとみつめた。
「その証拠に。そなたの身に、何も異変は起きてなかろう?」
そう問われた人物はしばし黙って「……たしかにそうだな」とつぶやくと、米姫の腕を押さえつけていた者たちにその手を放すよう命じ「邪魔したな」と言って社殿を去っていった。
翌日、また複数名の足が玉砂利を踏む音がした。しかし昨日のように勢いよく向かってくる気配はない。着替えを終えて神棚の前に向かうと、志乃に通された実義が座っていた。その後ろには葛籠(つづら)や行李(こうり)などさまざまな大きさの箱を運ぶ者たちが入れ替わり立ち代わりに何かを運んできた。
米姫が実義の前に姿を現すと、昨日の冷ややかな瞳はなく幾分親しみを込めた瞳となっていた。持ってきた品々を「昨日の詫びだ」と言い、実義は昨日の社殿突撃までの経緯を話してくれた。
病に伏していた先代が息をひきとったこと。その少し前から異母兄弟である篤信とその周辺が騒がしくなったこと。先代は実義を後継者として指名していたが、篤信の母の出身家や篤信自身を支持する者たちが「それならば実義を葬ればよい」と考え、やり方が荒くなっていたという。毒を盛られ、出先では馬車が襲撃され、寝殿には寝首を搔こうとする者が後を絶たなかったとか。いいかげん止めるように弟に伝えたところ「米姫に兄者の厄災を願った。その命もあとわずかだろう」と言われたというものだった。篤信は、米姫の祈りが成就する日を、今か今かと待ち望んでいたのだろう。祈ってさえいないとも知らずに。
「して、なぜ皇帝であるそなた本人が社殿まで来る必要があったのだ?」米姫は思いついた疑問をそのまま口にしていた。
「自分を呪ったものがいるなら自らの手で処分したかったのだが、米姫はこの社殿から出られないのであろう?」
その通りだ。ただひとつ、例外を除いては。
「次の巫女もいないのに、処分してどうするつもりだったのだ?」と問うと、実義は少し気まずそうに頭を掻いた。
「殺すつもりはなかった。ただ、杖罰くらいは、とは考えていたが……」と言い淀むところを見ると、勢いにまかせて社殿へ乗り込んできたことを少しは悔いているらしい。それは実義の背後にある贈り物からもうかがえた。
巫女の不在は、皇帝が、ひいては民が恐れていることのひとつでもあった。米姫が読んだ過去の史書には、米姫を失った皇帝の治世がままならなかったことを記録したものもあった。それをこの現皇帝が知らぬはずもあるまい。
大量に運び込まれた贈り物の大半を持ち帰らせたことを実義は不満だったようだが「巫女は身につけられるものも口にできるものも決まりがある」と伝えると「では代わりの品をまた持って来る」と言って去っていった。
それからというもの、巻物や書物を手に皇帝が社殿を訪れるようになった。米姫が書を好むことを志乃か清次から聞いたのだろう。興味深い話はあったか、面白かったか、など他愛もない話をしながら茶を飲み、帰ってゆく。三日とあけず訪ねてくるので、一度「そんなに暇なのか」と訪ねると、付き人が釣りあがった目でこちらを睨んできたので、暇なわけではないのだろう。
かくいう米姫も暇なわけではなく、三日三晩ほとんど休まずに祈ることもあった。ようやく祈りを終え休んだ後に訪れた皇帝は、米姫の憔悴した様子をみて苦しそうな表情を浮かべ「すまぬ、ゆっくり休め」と社殿を後にしたこともあった。
それから数日して現れた皇帝は唐突に「その座を退きたいとは思わぬか?」と尋ねてきた。「退くもなにも、私はこれ以外の自分の在り方を知らぬ」と返すと、皇帝は何とも痛ましいものを見るような瞳で米姫を見つめた。米姫がどのようにここに来るのか、皇帝ならば知っているのだろう。
漆黒の髪に深緑の瞳。それが米姫のしるしだ。
赤子のころにこの社殿に連れてこられ、先代の米姫に育てられながら巫女としての教育を受ける。稀に、引き継ぐ前に米姫が亡くなってしまったこともあり、その場合は巫女の不在期間ができる。巫女が不在になると世が荒れる、と史書には書き記されていた。伝染病が各地で広まり、宮城内でも人死にが絶えなかった時代もあったという。
そこまでは皇帝も知っていたが、米姫が途絶えなかった理由は伝えられていないと言う。
「一度途絶えたとはいえ今も続いているということは、巫女がどこかに隠れていたのか?」文字を読めない民ですら米姫の存在は知っているのに、そんなことは不可能だろう、と心底不思議そうにしていた。もし匿うような動きがあれば、その家族だけでなく村ごと処罰が下るとされているので、仮に母親が手放したくないと泣き喚いても、その願いが叶うことはない。
「隠れるつもりもなく、ただ人里離れて暮らしていたこともあったようだ。書物によるところだが、しばらく米姫不在であった後、山の中で一人きりで暮らす深緑の瞳を持った女子がみつかり、この社殿に連れてきたことがあったと記されていた」
「そうか……」
静かにそうつぶやくと、皇帝は自分の考えに沈み込んでゆくようだった。
無言で茶を飲むうち、使いの者が現れ皇帝は宮城へ戻ることになった。社殿の入口まで見送ると皇帝はそっと息を吐き出すような小さな声で「そなたが米姫でなくなることができたなら、妃にできないかと……いや、何でもない」とひとりごとのようにつぶやいて去っていった。
皇帝が再び妃の話をすることはなく、それまでと同じように書を持ってきて茶を飲み季節は移っていった。
そしてある年、夏の始まりに異様な降り方をする雨が幾度となく繰り返された。雨止みの祈りも繰り返し依頼され、その都度止みはするが、また同じように降ってくる。そのうち都に近い大きな河にかかった橋が流され下流の田畑にも水が上がったという話が米姫の耳にも届いた。幸い都にはそれほど雨量がなかったが、近隣の橋や田畑が受けた被害は、これから物の流れや納められる税に影響を及ぼしてくるだろう。
その後も繰り返す雨の度に祈りを捧げながら、米姫はある決意を心のうちにとどめていた。
一方で皇帝は、米姫にその決意を実行させないために奔走していた。米姫から決意を聞いたわけではない。しかし家臣の間にも民の間にも、もはや他に方法はないのではないかという話が絶えなくなってきていた。
「新たな橋をかけるであろう? その礎に、人柱としてこの身を埋めるとよい」
久しぶりに社殿に現れた実義に、米姫はこともなげにそう言った。ここしばらく家臣たちからも進言されていたことだ。それでも他に方法はないものかと思い探したが、何も有効な手は見つからなかった。そこで何か案はないかと米姫を訪ねてきたのだ。
家臣には「皇帝は今代の米姫をお気に召しているからそのように申されますが、この国の民よりも巫女1人を大事にされますか」とも言われた。もちろん民は大切だ。でも米姫を死なせたくないとも思う。両方を守ることはできないのか。
せめて少しでも先延ばしにと「次の米姫がいないではないか。そなた亡き後、巫女がいないのでは困る」と言うと、米姫は「巫女は、いる」と、そう静かに、しかし確信を持った口調でつぶやいた。
「理屈では説明できないが、新たな巫女が山中にある神社で修行を積んでいるのがわかる。私と同じ、緑の瞳の少女だ。私の命が尽きたら、何かしらの方法で場所がわかるようになるであろう……」
そう淡々と話すさまは、自らの死をどこか他人事のように感じているようだった。
「そなたは、死ぬのが怖くないのか?」
皇帝にとっては素朴な疑問を口にしただけのつもりだった。しかしそのひとことは、米姫の逆鱗に触れた。しかし怒りのこもった瞳とは裏腹に、その口調は冷たく、そこには米姫の諦めだけが漂っていた。
「怖いと怯え、泣き喚いたところで何かが変わるのか? 災いを鎮めるためだけに生かされているというのに? いま人柱にならなかったとして、それが何だというのだ。また災いが起きれば今度こそ人柱になるかもしれない、と思うだけの人生だ」
物心ついたときにはもう次の米姫としての未来が決められており、そのための役目をこなすだけの日々の中で、自分の生に執着することなど許されなかった。
「毎日、国に災いがないよう祈り、日照りや水害の度に寝食よりも祈ることを優先し、祈っている間中、渦中にある民の不安や恐れの感情が流れ込んでくるのを受け止め、その中に巫女が人柱にさえなってくれればこんな思いをしなくて済むのに、といった思いも混じる。災いなきときに絵巻物をみて外の世界について知っても、この目でみることは一生ない。私の記憶にあるのは、この社殿からの景色と、ここを訪れる数人だけだ。絵巻物は世界の広さを教えてくれるのに、私にとっては夢物語と何も変わりはない。私の現実は、この社殿しかない。嘆き悲しむ民の感情ですら、もはや現実のものかはわからない。私の生は、私のもののようでそうではない」
言い終えた米姫の瞳は、今にもこぼれそうな涙を湛えていた。しかし米姫は、なぜ涙がこみあげてくるのかもわからずにいた。
私は生きたいのだろうか? 見知らぬ場所の、見知らぬ人々の幸せを祈るだけの日々なのに。
何を言っても詮無いことだとはわかっている。
「日取りを決め、準備があるのであろう? 私は、柱となる。宮城のものたちにも伝えよ。一刻でも早い方が、今後の災いの不安が減らせるであろう?」
米姫は自らの心のうちがわからなかった。ただ、わかったからと言って自身の行く末が変わるわけでもない。覚悟など、決めるまでもなくとうに決まっている話なのだ。
何に対してなのか「すまない」と詫びを口にすると、実義は従者を引き連れて宮城へと戻っていった。
そして一刻ほど後、新しい橋を建てる際に米姫が人柱となることを告げる知らせがあった。
雨による川の氾濫は続いており、実行を急ぐ声が多かったようで、決定から決行までほとんど日をおくことはなかった。
人柱として召される日。目を真っ赤に腫らせた志乃に手伝ってもらいながら、真っ白い装束に身をつつみ、長い黒髪を白い組紐でひとつに束ねた姿で、米姫は社殿を後にした。
社殿の机に、ある神社の名前と、その所在を記した1枚の紙を残して。
橋のふもととなる場所まで籠に揺られていくと、そこには簡素な棚がつくられており、榊や酒などが並べられていた。
棚の近くには橋の柱を立てるための大きな穴が掘られており、そこには米姫が自ら穴へ降りていくための梯子がかけられている。棚のそばには家臣たちに囲まれる形で皇帝が座っており、穴に向かってゆく米姫をじっと見つめていた。籠を降り、皇帝に深々と頭を下げ、顔を上げると何も言わずに静かに、米姫は梯子をおりていった。
自らにもっと力があれば……人柱など立てずとも、民の暮らしを守ってゆけると示すことができていれば、米姫を救うことができたかもしれないのに。皇帝の心の中には、そんな後悔の念が渦巻いていた。それでも「皇帝」として儀式を見届けるために参加しているこの場で、そのような個人的な感情を表に出すわけにはいかなかった。
それでも消すことのできない後悔の念に囚われているうちに、米姫が底に到達したらしく、梯子は引き上げられた。そして鍬(くわ)を持った男たち5人が穴の近くに立つと、皇帝に向き直りひざまづいた。
もう今さら、何を変えることもできない。心を決め、ひざまづく男たちに「始めよ」と声をかけると、男たちは深く礼をした後に立ち上がり、それぞれが鍬を手に穴を取り囲むように立った。そして、ひとりが頷くと、男たちは穴に向かって土を入れ始めた。
土の入れ始めとほぼ同時に、地面から振動が伝わり、遠くから滝のような轟きが聞こえてきた。
鍬を持っていた男たちは「またきたぞ」「逃げろ」「皇帝を丘の上へ」などと口々に言いながら、皇帝やその家臣たちの背を押すようにすぐ近くの小高い丘へと駆けのぼった。のぼるうちに雨が降りだしたかと思うと、地面に打ち付けるほどの激しいものとなった。
そんな激しい雨の中、何が起ころうとしているのかわからず言われるままに丘を上っていると、遠くに鉄砲水が押し寄せているのが見えた。「米姫は⁉」と問うと家臣のひとりが「穴の中におりますから、このまま柱となられるのでしょう」とつぶやいた。
今、なんとか穴から引き上げ助けられたとしても、その後に人柱として埋められるのに変わりはない。ようやく小高い丘の上に着き、轟々と近づく激流が目の前を流れる様を見ていると、穴のあったあたりから、何か白いものが流れていくのが見えた。
「あれは……米姫様ではないか?」と家臣のひとりがつぶやくが、激しい雨で視界ははっきりせず、誰も確信がない。溺れたりもがいたりする様子もなく、その白いものは濁流に飲まれながら流れてゆく。その白いものを見つめながら、誰からともなく手を合わせはじめた。そして「米姫様、あなたさまのおかげでこの国にはまた平和が訪れるでしょう。ありがとうございます。安らかにお眠りください」と口々に唱えはじめた。
水がひくまで一刻ほど丘の上から動くこともできず、再び橋を立てる予定の場所に足を踏み入れられるようになるまでさらに一刻ほどの時間が過ぎた。柱を立てる予定だった穴にはなみなみと水が溜まっており、長い竿で中を探ったり、男がひとり中に潜ってみたりしたが、米姫は見つからなかった。3日ほどの後、溜まっていた水がひけた後にもやはり米姫の姿は見られなかった。
此度の鉄砲水では命を落としたものもなく、民は「米姫さまのおかげだ」と言って橋のたもとに小さな社を建て、毎日お供えを欠かさなかった。
その後、橋の建設は順調に進み、頻発していた鉄砲水もぴたりとおさまったことから、米姫への信仰はますますあついものとなり、社をお参りする人も絶えなくなった。
米姫を柱とすることでしか世を持ち直せなかったことを皇帝は、その生涯忘れることはなかった。世継ぎのために妃を娶り、世継ぎは生まれたものの、心が妃にないのは明らかだった。そしてその妃自身も米姫信仰に深く傾倒していたため、その代わりとして世継ぎを産む役目を果たせたことに満足していた。
そしてその後、新しい米姫が現れることはなかった。米姫の残した紙を頼りに皇帝の従者が山中にある神社を訪れたが、そこに緑の瞳の者はいなかった。正確には、いなくなっていた。
社の神職に話を聞くと、そこで巫女修行をしている者に、緑の瞳の少女がいたという。しかしあるとき、少女は高熱により意識を失い、三日三晩ずっと熱にうかされ続けたという。ようやく熱が下がると、少女の瞳は黒くなっていたという。そして夢の中で、なにかぼんやりとした光のようなものと出会い、巫女ではなくなったことを告げられたという。
「巫女になるために修行をしていたけど、本当は巫女になるのが怖かった。自分の好きなことや守りたいものよりも、民やこの国のためを思わないといけないことが怖かった。だから、もう巫女じゃなくなったことを、喜んだら怒られるかもしれないけれど、ほっとしたのだ」と話しながら少女は泣きじゃくったという。
その話を従者から聞いた皇帝は、米姫が言いたくても言えなかったことなのではないかと思い、胸が苦しくなった。そして次の巫女が必要なくなったから、緑の瞳ではなくなったのかもしれない、とも考えた。
次の巫女が必要なくなったということは、米姫はまだどこかで生きているのかもしれない。あれから、多少の天災はあれど、民の生存が危ぶまれるほどの災いは起こっていない。
米姫は、どこかでまだ祈りを捧げてくれているのかもしれない。そう思って皇帝は家臣に捜索を行わせ、御触れも出したが、ついぞ米姫を見つけることはできなかった。そうしてようやく皇帝は「どこかで祈ってくれているならそれでよい」と思えるようになった。
そうして米姫が守ってくれている。その国の平安のために、できることの全力を尽くそう。
そう決めたこの皇帝の世は、永く平和に保たれたという。
その後、永きに渡って緑の瞳の少女は現れなかったという。
米姫の話も語り継がれるおとぎ話のように風化してきた頃、再び緑の瞳の少女がときの皇帝の前に現れた。ときは戦乱の世。この皇帝と深緑の瞳をもつ少女がどうなるかは、また別のお話。
深緑の瞳 冬瀬 @fuyuse0107
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