第106話 電話越しの挑発
スマホが割れんばかりに握りしめながらも、俺はすぐには動かなかった。声も出てこなかった。
ただただ、俺の耳が機能していただけだった。女の声について考えを巡らせていた訳ではない。俺が意識を集中させていたのは、女の声の背後だった。
彼女は一人っきりの場所にいて、そこから電話を掛けている訳ではない事は、奥から聞こえるざわめきから明らかだった。若者の、野卑で野蛮な笑い声やら怒鳴り声のような物すら聞こえてきたのだから。
芳佳のスマホを持つ女の向こうには、必ずや芳佳がいるはずだ。その芳佳の声が、少なくとも芳佳がいるあかしが聞こえてこないだろうか。俺はそう思って、電話の背景の音に意識を集中させていた。そう言う事だった。
『あらぁ、どうしたの』
明瞭な、しかしねっとりとした響きを伴った声が、俺の鼓膜を震わせた。女の声は相変わらず妖艶で、それでいて何処か焦れたような気配を孕んでいた。
そうした声音に宿る感情がどのようなものか、俺には心当たりがあった。怒りと嫉妬を感じた時の声だ。半ば反射的に、俺はそんな風に感じていた。
もっとも、俺の名を知るというこの女が、何故怒りや嫉妬を抱かねばならないのか、皆目解らないのだけれど。
「お、お前は誰だ! 芳佳は、芳佳を何処へやったんだ!」
もはや冷静さなどをかなぐり捨てて、俺は叫んでいた。
女はすぐには答えなかったが、かといって怯えているようには感じられなかった。スマホからは、女の笑い声が聞こえていた。可笑しくて笑いが止まらないと言った風情の笑い方だった。
『あらあら、本当にあなたってあの毛むくじゃらの畜生に恋心なんて抱いているのね。安心なさい。芳佳とかいう狐畜生なら私の部屋にいるわ。私にとっても大切な存在だもの――あなたをおびき寄せるための生餌として、ね』
「きさま――」
自分の口許で聞こえてきた声があまりにも低くて恐ろしげだったので、自分の事ながらぎょっとした。しかし、自分が発した言葉である事は明らかだった。現に心臓の鼓動が速まり、熱い血が頭や頬、耳などに集まっていくのをリアルタイムに感じているのだから。
そんなに怒らなくても良いでしょう。俺の声は、電話の向こうの女にはどんな風に聞こえたのだろうか。少なくとも、怯えたり戸惑ったりしている気配は無かった。それどころかせせら笑うような気配さえ漂っていた。
『まあ良いわ。よく考えれば自己紹介がまだだったわね。私は夢見鳥サツキよ。覚えているでしょう? これまでに、私たちは何度も会っているんだから』
「夢見鳥、夢見鳥だと!」
夢見鳥サツキ。その名を聞いた俺は、ここ一、二か月間の事をあれこれと思い返していた。軽薄そうな若者と共に自分を売り込みに来た応接室での一こま。芳佳の、彼女の匂いに対する強い嫌悪。配信動画での姿。米袋を担いでいた時の出会い。
確かに、彼女もまた、俺に対して執着を見せていた。しかし何故そこまで執着するのか。芳佳を攫ってその上でスマホに電話を掛けるなんて、常軌を逸している。
「何なんだ。夢見鳥、あんたの目的は何なんだよ……」
『目的は一つだけよ。あなたと一つになりたい。ただそれだけの事なのよ。と言っても、あなたは既にあの忌々しい畜生に心を奪われているみたいだから……』
忌々しい畜生とは芳佳の事だろうか。夢見鳥が歯噛みしているであろう姿が、見えていないのに鮮明に浮かんできた。
『ともかく、私に会いに来てくれるわね?』
「そうしたら、芳佳を解放してくれるのか……?」
『全く、つまらない人』
夢見鳥はそう言うと、呆れたようにため息をついたらしかった。
しかしその直後に、彼女はしごくあっさりと住所を口にし始めた。何となく聞き覚えのあるような地名と町の名前だと思ったが、それこそが彼女の根城なのだろうと、俺は確信していた。根拠なんて何もないというのに。
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おきつね彼女とコドクな俺――狐娘との甘々生活で、俺は愛と真実を知る 斑猫 @hanmyou
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