狼と木

橙冬一

狼と木

 満点の星空の、ひと際輝いている光の粒が、ある大樹を指し示す。大樹は小高い丘の上に寂しそうにそびえ、その周りを生い茂る丈の低い草が、さらさらとこすれ合っている。ひゅっと吹いた風に体を押されるように、一頭の狼が大樹へ誘われた。日の光が道を照らしていたころから、休まずに歩いていた彼は疲弊し、心よりも体が、息う場所を探していたからだ。


 彼は足を引きずって歩き、大樹の根元に腰を下ろす。大樹を背に天を仰げば、星々から除け者にされた満月が、しかし極く強い光で彼の身体を照らした。首元を濡らす血は止まることなく、彼の通った後に赤い点を残している。脚の腫れは幾分小さくなったが、身体を支えることはままならない。見下ろす満月に、力のない遠吠えをした。しばらく耳を傾けていたが、山や草木たちも沈黙してこだますら返さない。


 彼は侘しさに心を湿らせたが、それも今日の大変な一日を振り返れば、居心地のいい感慨に思えた。当てのない逃避行を一時だけ止めて、せめて孤独に身を浸して、心身を慰めるのも悪くないだろう。酷く疲れている。彼は大樹にもたれ掛かって瞼を閉じると、そのまま眠りに就いた。


「おや」

 そんな声が彼の耳に届いた。ゆっくりと瞼を開けると、人間が立っていた。美しい容貌だった。しかし、月明かりがそうさせているのか、その顔は蒼白く、生気を失ったような面持ちをしている。


「寂しそうな光に導かれてきたら、良き出会いに恵まれましたね。お名前は何ですか」


 彼は口を開いたものの、傷のせいか、それともその気力すら無くなってしまったのか、声を出すことができない。


「おっと、失礼。私はただの旅人でして、名乗るほどではない……というより、名乗ることが難しいのです」


 旅人は彼に近づくと屈んで、彼の首元にある傷口を、そっと包み込むように掌を当て、そしてつまらなそうにつぶやいた。


「いくつもの名前で呼ばれてきましたが、どれも好きではないもので」


 旅人が手を離すと、最初から何も無かったように、傷口が消えていた。旅人が立ち上がって彼の傍へ腰を下ろすと、背中に隠れていた月が顔を出す。こんなにも大きな月であっただろうかと、彼はぼんやり夜空を見ながら訝しんだが、すぐにどうでもよくなって、隣に座る旅人の顔を見た。


 旅人は旅人は月を見ながら鼻歌を口ずさんでいる。彼は鼻歌にもの懐かしさを覚え、その節を捉えようと耳を澄まし、ふと、気が付いた。この小さな丘だけ外界から切り離されたように、風も虫も、草木すら存在を消してしんと静まり、彼の吐息と旅人の鼻歌だけが小さな世界を満たしている。


「おや、あの方たちは誰でしょうか」

 旅人はふいと鼻歌を止め、丘の下を見てそう言った。彼がその視線の先を見やると、木々の間を歩く、五つの影が見えた。最初はぼんやりと、次第にはっきりと、あの影らは家族なのではないかという感覚が、彼の中に湧き上がる。


 彼は呼び止めようとするが、口が開いただけで、声が発せられることはなかった。彼の家族はもう死んでいるからだ。彼の吐息が、彼の世界を何回か満たすうちに、影はすっと、木々の奥へ消えて行った。


「行ってしまわれましたね」

 旅人は、ただ情景を解説するように、冷然とそう言った。そして彼の方へ振り向いて、彼の目をのぞき込み、尋ねた。


「あなたはなぜここにいるのですか」


 その瞳は綺麗だったが、何も映していない。心臓が脈を打って、身体の奥底から、おぼろげな熱が僅かに吸い取られたような感覚を覚え、目を逸らした。旅人はその様子を、彼が答えに窮したと判断したためか、少し笑って続けた。


「そう困らずに。まじめな話ではありません。私が今この場所であなたと話をしていることに、何か理由があると考えた方が、ロマンチックで面白いでしょう」


 彼がこの大樹の根元に座る理由はなく、ただ一時の安息を求めて立ち寄ったに過ぎない。その道行きは残酷な偶然によって選ばれ、彼の選択が違えば、あるいは不意な事故が起こらなければ、今ごろ木漏れ日に当たって、幸せな寝息を立てていたかもしれない。彼の選択が介在しない、姉の死を除けば。


「お姉さんがいたのですね。差し支えなければ、彼女はどうされたのですか」


 彼の姉は生まれつき身体が弱く、彼がものごころついたときからあまり動かずに、寝てばかりいた。彼とその家族は、森の中の、人の立ち去ったあばら家を住処としており、先住人の置いていった藁のベッドは、姉のための寝床となっていた。


 姉は生きている間、兄弟姉妹の中で最も母親からの愛情を受けたが、いつしか小さな体が熱を帯び、数日のうちに死んでしまった。彼は姉の容姿を忘れてしまったが、死の間際に嗅いだ匂いは未だに覚えている。母はたいそう悲しんだが、父はどこかほっとしているようだった。


「もしかしたら、それはそれで幸せな……失礼、彼女が生きながらえることで受け続ける苦痛を考えれば、悲観ばかりの結末ではなかったのかもしれませんね。何より、残るものに罪を背負わせずに逝くことは、去るものとして理想的な終結です」


 そんな諦観した旅人の言葉に、彼は一抹の反感を抱いたが、否定することもできなかった。結局、家族の中で看取られながら死んでいったのは、姉だけだった。おそらく末々の彼自身も含めて。


「少し勝手な発言だったかもしれません。あなたの気持ちを推し量るべきでした。私にはたくさんの兄弟がいますが、まるで繋がりがないのです。兄弟との仲は良かったのですか」


 彼はすぐに、一番長く連れ添った兄を思い浮かべたが、決して仲のいい関係とは言えない。妹とはよく遊んでいた。あの日も、何が面白かったのか、お互い笑いながら追いかけ合っていた。草を踏み、岩を飛び越え、木と木の間を縫って走った。普段は家から遠く離れることはないが、その日はお互いに興奮していたのだろう。ふと気づいた時には木々の向こうに、人間の足で踏み固められた道が見えるほど、遠くまで来てしまった。


 不安感から彼は脚を止め、妹を呼び戻して帰ろうか逡巡した。その時、嗅いだことのない匂いが鼻を突き、少し間をおいて、大群が地面を踏み鳴らす音が聞こえた。彼の視線の先で、妹は茂みに隠れるように立ち尽くしている。乱雑で暴力的な音は、ただ明確な意思をもって、徐々に近づいてくる。彼は恐怖心から、妹を置いてその場から走り去った。


 家まで逃げ帰った彼の姿を確認した父は、妹が見当たらないことに気が付いて、彼の来た方向へ駆けだす。風は既に、大群の匂いをあばら家まで運んでいた。しばらくして、空気が破裂するような音が一回、二回、少しの静寂と、そしてもう一回聞こえた。バン、バン、バン。


 妹と父に会ったのは、この日が最後だった。思えばこの時からすでに、兄は恨みを持っていたのだろうと、彼は思った。


「不運だった、と言うと突き放しているように聞こえるでしょうか。あなたは悪くありません。いまさらかける言葉でもありませんが、どうか気を病まずに」


 彼もまた、不運な事故だと自身に言って聞かせてきたが、それでも頭の片隅に、あの破裂音がこびりついて離れない。


「その件をして事故と言い表すことを、否定はしません。無理はないでしょう。人間は旧人類に取って代わったころより、進化の糧を争いに見出してきました。人の振るう暴力は、その由の有無に関わらず、血肉に刻まれた衝動なのです」


 衝動は、彼の中にも確かに存在した。その衝動こそ彼の愚かしさであり、兄が死んでしまった原因でもある。


 丘の下の木々が、不規則に揺れている。幹がしなり、枝葉が震えている。強い風が吹いているはずだが、彼の元へは音すら届かず、大樹もやはり、しんと動かない。月は変わらず、大きな目で彼らを覗き込んでいる。彼が生まれる遥か昔から、おそらく彼が消えゆくさらに先の行く末まで。月から見ればこの丘は、木々の中にぽっかり空いた穴のように見えるのだろうかと、彼は思った。


「実を言うと、私はあなたの旅路がとても気になっています。辛い過去を思い出させていることは承知ですが、教えてくれませんか。あなたがなぜ一人ここにいるのか」


 彼はこれまでも記憶と対面して、その度に苦しみ、事故や偶然といった主体のない言葉に責任を負わせてきた。しかし、兄や母を想うと、そういった彼の行いがまた、彼を苦しめる。


 彼と兄、そして母が残されてからしばらくは、人間の影に怯えながらも、危険にさらされる事無く日々が過ぎて行った。日が沈んで上り、老けた葉が降り積もって大地を覆い、白い吐息が雪で見えなくなって、冬がやってきた。このころには、彼の兄は厭う態度を、よりあらわにしていた。それでもお互いに離れなかったのは、母がいたからだろう。ただ、一段と厳しい冬は食料の入手を困難にし、血の絆をもっても飢えをしのぐことはできない。彼は、暗黙の決まりを破った。人の住処へ侵入したのである。


 その野営地を発見するのに、あまり時間はかからなかった。大小のテントが立ち並ぶ中に、箱や雑多な道具をまとめている天幕があり、その方向から香辛料の匂いがする。彼は茂みに座して好機を待つ。ほとんどの人間は寝ているのか、辺りは静かで暗く、時折巡回する人の顔が月明かりに照らされて、曖昧に浮かびあがる。野営地を周期的に歩いて周る夜番が遠ざかったタイミングで、テントの群れに足を踏み入れた。


 匂いのする天幕へ辿り着くのは驚くほど簡単で、彼の目論見通り、そこには食料が保管されていた。縄で縛って吊るされていた三羽の野ウサギを、縄ごと銜えて、来た道を折り返す。難なく逃げおおせると思った矢先、視線の先を夜番が通り過ぎた。彼は咄嗟に夜番の進路と反対方向へ曲がろうと身体の向きを変える。そこで、テントの隙間のその向こうの、檻に収監された同胞と目が合った。ドクン。高鳴る心臓は本能を刺激し、意志よりも先に足が土を蹴り、駆けだした。


 ぽつりぽつりと明かりが灯り、騒ぎに気付いた何人かの人間がなんだなんだと寄ってきて、騒々しく彼を追い立てた。そのうち執拗な人間は、彼が森へ逃げ込んでも追ってきたが、森の中で地の利は彼にあり、罵声を振り切ってほうほうの体であばら家へ辿り着いた。


 兄は、人の匂いを漂わせた彼を見て全てを悟り、何かが切れたように豹変し、彼へ襲い掛かった。その殺気は彼にはっきりと死を過らせる。突然の出来事に戸惑って、ほとんど抵抗をしないまま、暴力として表出した怒りをその身で受けた。すぐさま母が仲裁に入り、大きな傷を負うことはなかったが、身体の痛みは、去ってもなお纏わりつく鈍色の余韻を残し、夜通し彼を苦しめた。


 翌朝、彼は咄嗟に跳ね起きた。あばら家と周囲の空気を、喧噪が揺らしている。辺りには人の匂いが充満していて、考えるよりも先に、家を飛び出した。視界には何人もの人間がいて、襲い掛かる人間を一人、二人、三人と躱したが、ついには筒状の何かで頭を殴られ、横転した隙を突かれて網で拘束された。そして人間たちは暴れる彼を引きずって、小さな檻に閉じ込めた。

 

 同じように捕まえられた兄も檻に放られ、荷車に積まれて、ほどなく車輪がぎしぎしと回り出す。あばら家の方で、かつて聞いたことのある破裂音が森にこだました。バン。彼は遠ざかるあばら家に向かって母を呼んだが、返事はなかった。


「惨いですね。いつの世のいかなる場所でも、強者は捕食し、弱者は捕食されるものですが、その人間たちの行いは、そういった大地の循環を踏み外しています。摂理を外れたものに摂理が対抗し得ることはなく、私はあなたの記憶をもって、虚しい糾弾をすることしかできません」


 旅人はしばらく沈黙した。彼はその横顔を眺めていたが、旅人の表情は、出会ったときから一度も変わらない。そのうち旅人はこう尋ねた。


「あなた方が生かされたのは、その人間たちが、海を越えるほど遠い異邦の地で、あなた方を売り渡そうとしたためでしょうか」


 旅人の推察通りかもしれないが、彼には、あの人間たちの目的はわからなかった。わかっているのは、彼は生き残り、彼の愚かな衝動が兄をも死なせてしまったことだけだ。


 野営地に連れていかれた彼とその兄は、大きな檻に移され、そのまましばらく「飼われる」ことになる。先に捕らえられていた同胞は、生きる気力が失われているのか、エサを与えられても口に入れることは少なく、骨が浮くほどやせ細っていた。彼は、自身の行く末を暗示するような同胞の姿を見て、日に日に無力感と怒りを募らせていった。


 ある日、そんな同胞を価値がないと判断したためか、一人の人間が檻の外へ連れ出して、その場で撃ち殺した。バン。破裂音が空気を裂いた。彼はその時初めて、父と母、そして妹の命を奪ったであろう、銃という武器を目にした。そして目の前で銃を使った、長い髭を生やした大柄な人間こそ、母と、それに父や妹の仇であると、直感的に思い込んだ。


 時が過ぎ、冬を超えた。野営地に貯められた動物の皮は彼の鼻を刺激したが、日が経つにつれ慣れてしまった。彼と兄は最初こそ、近づいてくる人間全てを威嚇していたが、意味のないことだと悟った後は、ただエサを与えられ、ただ生きる存在となっていた。そんな態度が功を成したのか、人間たちが油断するようになった。度胸試しのつもりか、鍵を開けて彼と兄の身体を棒で突く人間が現れた。何が面白いのか、突かれたときに怒りをあらわにすると、歓声が上がった。


 そんな遊びに付き合わされるようになっていたある夜、酒に酔った人間が、檻のカギを開けたかと思うと、そのままおぼつかない足取りでどこかへ行ってしまった。それに気が付いた兄は彼を呼び、好機を窺って静かに脱走するよう促した。そして誰の注意も引いていない咄嗟の瞬間をとらえて、彼と兄は檻の外へ出た。


 彼は、警戒しながら人気の少ない方へ歩き出した兄を追ったが、ある匂いが鼻をかすめる。長い髭の人間である。そして、衝動が萌芽する。辺りを見回して、座って眠る匂いの主を見つけたとき、その衝動は抑えられないほどに膨張した。周りの人間のことは気にも留めず、風を切るように駆け、一心不乱に喉元へ噛みついた。彼の口に血の味が広がって、空気の抜けたような叫び声が、野営地に響いた。


 混乱が狂乱になり、彼はやっと我に返る。速く逃げ出さなければと本能が身体を刺激し、駆け出しながらも目は兄を探して、そして見つけた。視線の先の、檻の近くで、兄は人間に捕らえられている。暴れる兄の首を刃が貫いて、その目に映っていたであろう彼の衝動に、兄は怒りを覚える暇もなく、息絶えた。


 彼は脚を止めずにそのまま駆け続け、怒号をあげながら押し寄せる人間たちをすり抜け、野営地を抜け出した。後ろからいくつもの破裂音がして、鉄の玉が木や大地を砕いても、彼の首をかすめても、ただ全力で走った。そのうち音が止んでも走り続け、木の根に足を取られて小高い崖から転落した。やっと少しばかりの平静さを取り戻した彼は、挫いた足を引きずって、当てもなく歩き出す。目に焼き付いた兄の死に際を振り払いながら。




 気づけば彼は、旅人の膝の上で寝ていた。旅人は何も言わずに、彼の頭を撫でている。月の明かりは日の光のように暖かく、彼は久しぶりの安らぎに包まれながら、瞼を閉じた。


「記憶は私へ、命は大地へ。おやすみなさい。友よ」


 まどろみの中で遠吠えが聞こえた。彼が呟くように応じると、その身体はゆっくりと、大樹の根元の奥底へと沈んでいった。

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