モクモク様

荒川 長石

モクモク様

アメリカ人建築家はビルの最上階にある社長室で、社長と向かいあって立っていた。奥の壁を占める窓からは灰色の町が見下ろせた。窓の前には大きな机、その反対側の部屋の隅には、一方には祠が、他方には螺旋階段の降り口があり、下の部屋へとつながっている。

社長の声が聞こえる。

「……だがそれはすべて見方にもよるでしょう。一方的にこうだと思い込んでしまえば人はどんなことでも思い込めるものです……何が重要と思うかは人によってまちまちです。だからこそ、何が重要なのかを決め、人々に指し示してみんなをまとめることのできる指導者が必要なのです……あなた、ピストルをお持ちですか?」

「まさか」とアメリカ人建築家はたどたどしい口調で驚いてみせる、「どうしてそんなものを」

「最近は油断がなりませんからね。あなたの国では、銃は自作しますか?」

アメリカ人建築家は笑って言った。「私はただの建築家にすぎません。銃のことなんて、何も分かりませんよ」

「そうですか。でも職業なんて関係ないんですよ。私はただの経営者ですが、銃は自作します」と社長は言った。「わが社の業務内容についておたずねでしたね……わが社の仕事はなくてもいい仕事、よおく考えればすべてなくすことができるような、無駄で余計な仕事ばかりなんですよ。知ってましたか?」

「いえ、しかし……」

「そんな会社がやっていけるのも、もちろん社員の給料が安いからです。実際、それはただ同然の安さなんです。誰もそのことには気づいていないようですが」

「じゃあ、どうしてもっと上げてあげないんです?」

「上げる?……どうして? こんな給料でも、辞めた人間はすぐに補充されます。貧困のために働かざるを得ない労働者がたくさんいるのですよ。それもこれも、政府が労働者の賃金を低く抑えてくれているからなんです。貧乏人がいなければ安い給料で働く人はいなくなり、企業の利益は消え失せる。貧困ビジネス、という言葉がありますね。貧乏人からさらに金を巻き上げるという商売のことですが、実は儲けている企業というものは、すべて貧困ビジネスで成り立っているなんですよ……では、さっそく彼らが働いている現場をお見せしましょう。こちらへ」

二人は螺旋階段を降りていった。下のフロアは巨大だった。そこでは大勢の社員たちが押しあいへしあいしながら働いていた。どこからくるのか、もうもうと湯気か煙のようなものが吹き上げてフロア全体に充満し、はるか奥にある突き当りの壁は白く霞んでほとんど見えなかった。社員たちはたがいに怒鳴りあいながら仕事をしていた。一方で声が上がると、そこに社員が集まりにぎやかになる。すると他方で別の声があがり、すると社員たちはそちらに移動する。社員たちの怒鳴り声が壁に反響してエコーが掛かり、アメリカ人建築家は、大きな風呂場の中でバスケットボールの試合をしているみたいだと思った。

すると社長が階段の途中で急に立ち止まったので、アメリカ人建築家は危うくぶつかりそうになった。二人はその階段の高みから社員たちの働きぶりを見下ろす形になった。社長はおもむろにポケットから双眼鏡を取り出すと、社員一人一人の顔に順に焦点を当てて、険しいプロの目つきでその様子を観察する……しばらくすると、社長が言った。

「もちろんここには好きで働いている者など一人もいないんですよ。自分の頭でモノを考え、少しでも自尊心のある人間なら、もうとっくにどこかへ行ってしまっていることでしょう。ここにいるのは、いわば苦しむために生まれてきた人たちなんです。彼らは理不尽な目に会えば会うほど自分を責める。その苦しみを自分に納得させようとして藻掻く。それができない自分をまた責める。モクモク様に祈る。ここにいるのは、そういった人たちであって……」

「モクモク様……」とアメリカ人が反応したが、社長はそれを無視して話を続ける。

「……ときには彼らの中で、何かが破裂します。言葉にできない苛立ちか、それとも発作的な嗚咽か。かきむしられた皮膚から滲み出る血の臭い、汗や尿の臭い、湿っぽい涙の臭いが嗚咽に混じってここまで吹き上がってくるのです、いやはや。

我々のビジネスは、貧困、無知、表面的な理解と権威の妄信、あらゆる種類のハラスメント、マウンティングと奴隷根性の上に成り立っているのですよ。そう、それがなければ、我々はやってはいけません。もともと利益の低い商売ですから。健全な思考、常識的な精神は、できるだけこれをまだ芽のうちに摘み取らねばなりません」

「でも……どうしてです? 社長さんは地獄がお好きなんですか? 社長さんなら、この地獄を天国にだって変えることができるのに……」

「あなたは私がどうにかすべきだとおっしゃるんですね。この私が彼らに、この迷路から抜け出る道を示し、礼儀や友愛や思いやりを説き、具体的な方策を示してやればと、そうおっしゃるんですね……? しかし、それはもうやってみました。本当です。もう何度も、あらゆる角度から検討をかさね、やってみたのです。でも、ダメでした……うまくいかないんです。彼らは、拷問吏の話ならなんでもよく聞くくせに、解放者の話など歯牙にもかけないんです。彼らは今まであまりにもいじめぬかれ、期待を裏切られ続けて生きてきたので、本当の解決に結びつきそうな話には、それが本物であればあるだけなおさら、本能的に疑いの目を向けてしまうんですよ……自由のためであれ、時間のためであれ、人生のためであれ、なにか危険を冒して運命に戦いを挑むことなどまっぴらなのです。それよりも、今だって別に死にかけているわけじゃなし――まあ実際は死んでいるようなものなのですが、それが彼らには分からない――夜遅く自分の部屋に帰ると携帯をいじくってにぎやかな歌を聞き、なけなしの金をゲームに散財する、それによって自分の自由な意志と生きていることの証を得られるなら、それでいいという場当たり的な消極思考なのです。それだけじゃない。仲間の中に少しでも何か前向きな行動をおこそうとする者がいれば、どうせ失敗するからやめておけと諭し、それでもだめなら上司にチクったり仲間はずれにしたりして小突き回し、その意志をくじこうとする……力づくでも仲間を高みから引きずりおろして自分と同じ絶望の泥沼に沈めずにはいられないのです。彼らは本当は嫌なこと、心の底ではやりたくないと思っていること、自分たちの利益に反することをこそ、率先してやろうとする……地獄をより地獄らしい場所にしようと毎日の努力をおこたらない……それもこれもただ、すべてを自分から好きこのんでやっているのだというやせ我慢のポーズのためだけなんです……地獄の主宰者は私ではなくて、彼ら自身なんですよ……ああ胸糞悪い、弱き者に災いあれ!」

社長はそう言うと同時に、螺旋階段の軸になっている太い金属の柱に頭をぶつけたので、ゴーンという寺の鐘のような低い音が辺りに響いた。

「エビがっ……このオキアミどもがっ……」

社長はそう呟きながら頭を柱に何度も打ちつけた。だがよく見ると、柱のその部分にはちゃんと雑巾のような布が取りつけてあって、衝撃が吸収されるようになっている。

フロアにいる社員たちの働きぶりには何の変化もなかった。誰一人こちらを見る者もなかった。彼らにはこの鐘のような音が聞こえないのだろうか? 湿気と人いきれに濁りきった重い空気が音の伝播をさまたげているのだろうか? それとも、単に慣れっこになっているだけなのか……

「あなたはモクモク様を信じますか?」社長のベルベットのように滑らかな声が突然、耳元に響いたので、アメリカ人建築家ははっと我に返った。

「いいえ。社長さんは……?」

社長はまるで何事もなかったかのように、さっきまでの静かな語り口で語り出した。

「私は、信じているのかと言われれば……たぶん信じていません。ただ、じゃあまったく振りだけなのかと言われれば、そうとも言えないのです。私は、祠がある程度立派なものでなくては祈る気がしません。それに、祈っているところを他人にじろじろと見られないような作りになっている必要があります。犬猫だって落ち着ける環境がないと仔を産まないでしょう? それなりに落ち着いて集中できる場があれば、ちょっと本気で祈ってみようかと思えるのです。それはバンジージャンプに似ています。自己を放棄する快楽なんです。何もないところに自分を放り出す。日々の業務であるリスクやら利益やらについてのみみっちく終わりのない分析を一時中止して、自分ではない何かにすべてを任せて思い切って飛び込んでみる。他力本願といいますか……。それはまたギャンブルにも似ているかもしれません。一瞬コントロールを失って、すぐに取り戻す。少し死んで、また生き返る……ま、精神衛生上の習慣ですね。もちろん、祈ったところで何も起きやしません。いや、そうでもないかな……祈るたびに、無防備な自分をさらけ出した見返りとして、自分がその自分ではない何か、自分を超えた大きな秩序の中に、その一部として少しずつ組み込まれていく、そんな感覚があります。大きな力にひれ伏すかわりに、それを味方につけるような。さらにはその友達になるような……むろん錯覚でしょうが、それでもかまわないのです。世の中のどんな不正も、大きな力の一部だと思えば気にもならなくなるし、自分が乱用する力も、自分を超えた大きな力から流れ出たものだと思えば、後ろめたさは消えてしまいます……」

「しかし、そのモクモク様というのは、いったいどういったものなのですか?」

「モクモク様は……どう言えばいいか……いわば空洞のようなものですな。そして、祈るために祠に行って、その奥を覗き込むと、そこにあるのは一枚の鏡です。つまりモクモク様とはあなた自身であり、あなたは自分に祈っているのです。しかも、その大勢のあなたは、鏡の向こう側では互いにつながっている……」

「つながっている……?」

「かつて、モクモク様は世襲でした。生きた人間だったのです。ところがある時から、モクモク様は人の前に姿を現さなくなり、それ以来、生きているのか死んでいるのか分からなくなった。結婚したのか、子供が生まれたのか、その子供がモクモク様の地位を引き継いだのかどうか、などということもね……。今ではモクモク様は人ではありません。それは空、あるいは無だと考えられています」

「無というのはいったい何なのですか?」

「それは分かりません。というか、決まっていません。各自が勝手に考えればいいことだとされているのです」

「各自が勝手に……?」

「そう。つまりモクモク様をどのようにとらえようと、それは各自の自由だということです。どのような理念をそこに込めてもいい。理念の自由であり、見方を変えれば、無理念ということでもあります。我々は、自分たちを統合する理念を放棄するという理念の元に統合されて一緒に暮らすことを選んだ、とも言えましょう。だから我々は、どんな理念に対する権利も主張できないかわりに、間違いもおかさない。ただそのためには、モクモク様が人ではなく、無であることが必要だったのです……

というのも、仮にそれが人だったとしましょう。人は、必ずある理念を代表します。世界に数ある共和国の大統領を思い浮かべてみてください。あなたの国の大統領もそうですが、みな何かの主義主張を代表しているでしょう?」

「よく分かりませんね」とアメリカ人建築家ははっきりしない、しかし苦々しさのこもった声で言った。「我々の大統領は、普遍的な理念を体現しています」

「あなたがたはよく普遍、普遍と簡単におっしゃるが、それはエリートによる思想の統制であって、普遍なんてものはありませんよ……かつてのモクモク様も、我々の象徴でありながら、やはり何かの理念や主義を信じていて、ことあるごとにそれを発信していたものです。人というものは、どうしても何かを信じて、それを人々に呼びかけずにはいられないものなのでしょう。もちろん、モクモク様のそれはとてもたわいもない、と言っては失礼ですが、平和的で、穏健で、無害な理念ではありました。少なくとも当初は、モクモク様に反対するものなど誰もいなかったのです。ところが、いつの間にか時代が変わり、人々の考えが変わっていくと、そのたわいもなかったはずの理念が、どうも人々の思い、全体的な社会の意志と相いれなくなってきてしまったのです。そこで人々は考えて、すでに象徴でしかなかったモクモク様を、人ではなくしてしまったのです。それは周到な準備のもとに進められました。まず、メディアへの露出をなくす。それから、老齢のためと称して公式の行事にも出さなくする。モクモク様に関する一切の記事が禁止される……やがて人々はモクモク様のことを忘れていきました。気がついたときには、モクモク様はもういなかったのです。公式にそう発表されたわけではありません。しかし、モクモク様が百五十歳になったとき、もうこれ以上モクモク様の年齢を数えないという声明が出され、それで人々はなんとなく、ああ、そういうことなのだな、と理解したわけです」

「はあ……」

「私はね、祈ったあとにはよくこの螺旋階段の上から、彼等のすったもんだを眺めるんですよ。私の祈りとこの眺めとは、つながっているんです。まったく調和しているんですよ。そうは見えませんか?」

「しかし……」

「地獄のような光景なのに、とおっしゃるんですか。でもその地獄の上に君臨して、フロアやら机やらのインフラを提供しているのはこの私です。地獄の上に、ということは、私はその地獄には含まれていないんですよ……主宰者は、さっきも言ったように、彼ら自身なんです。主宰するのは彼らで、苦しめるのは彼ら、苦しむのも彼らで、彼らは互いに苦しめあっていて、私はその上にいて、実は何もしていません。つまりこれは一種の自然状態なんです」

「自然状態……」

「むろん、彼らもときには祈ります。苦しみに耐えかねてね。ほら、あそこの隅に、上のと同じ祠があるでしょう? あそこに彼らはときどき自分の姿を見にいくわけです。私も私で自分を見る。そして鏡の向こうでは、みんなつながっているというわけです」

「しかし……こんなハレンチな自然を……許しておくわけにはいかない……」アメリカ人はとうとうその建築家という肩書をかなぐり捨て、苦々しげにそう呟くと、胸元からゆっくりと銃を取り出して社長に向けた。

「ほら、やっぱり持ってましたね」

「これは手製ではありません。ちゃんと工場で作られたものです。なめらかに動作し、暴発もしません。これで私はあなたのようなモクモク主義者を消して回っているのです」

「モクモク主義者? 私はただの資本主義者ですよ」

「そうではありませんね。あらゆるモノには使命がある。その使命にもとづくヒエラルキーを、あなたは信じようとしない。あなたは虚無の信奉者、価値と秩序の破壊者だ。普遍的な理念の価値を否定して、何もかもをゴッチャにして同じフロアに投げ込むモクモク主義者だ。それに、資本主義ももうオシマイです。経済の時代は終わりました。これからは思想の時代です」

「えっ? じゃあまさに、私の時代だ……」

「そうじゃありません。あなたのような人は真っ先に抹殺されます。破壊による創造、これが私たちのモットーです」

「つまり、戦争の時代だと言いたいのですね」

「堕落した悪い草を取り除き、腐敗した環境を正さねばなりません。するとそのあとに、本来の自然が再生するのです」

「そして貧困ビジネスも再生する」

「しません!」

「しかし、自然に最低賃金なんてありますか?」

「互いを助け合うのが自然です」

「互いを食いものにするのも自然ですが」

「ま、好きに言えばいいです」とアメリカ人は言った。「第一、あなたはまったく自分の社員を見くびっておられる。彼らは決してあなたの言うような消極的な人々ではありませんよ。クヨクヨと何かに祈ることしかできない弱虫ばかりではないのです。まともな考えを持つ、勇気ある人々です。その彼らが、何とか自分たちの運命を自分の手で切り開こうと、私をここへ呼んだのです」

アメリカ人は社長の胸を銃で撃った。パンと乾いた音に続いて、社長が柱や手すりにわざとのようにぶつかりながら派手に螺旋階段を転げ落ちていく音がフロア中に鳴り響いた。すると、それまでまったく二人には無関心で、怒鳴りあいながら働いていた社員たちが、一斉にその仕事の手を止めて階段の下に集まってきた。彼らは砂浜に打ち上げられた魚の死肉に群がるカニのように社長の死体の上に覆いかぶさり重なりあい、押しあいへしあいしていたかと思うと、やがて霧が晴れるように解散した。あとには何も残らなかった……

アメリカ人はその様子を見届けると、満足した様子で螺旋階段を登り、次のターゲットへと向かった。社員たちは何事もなかったかのように仕事を続けた……フロアに立ちこめる湯気はさっきからその濃度を少し増したかのようだった。濃密な湯気を通して響きあう怒鳴り声に合わせて、社員たちの陽気な万華鏡のような離合集散がうねるように繰り返された。それは闇の中で明滅するホタルのように、一定のリズムに沿って編成しなおされ、互いにシンクロしてはまた崩れていった。そこにはなにか、深い構造に根ざしていることを改めてうかがわせるものがあったが、そのことを湯気の上から俯瞰しようとする者はもはやどこにもいない。

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